第14話 ミリエル・キャンベル―3

 それからジーンが事件を起こすまで,樹上の出来事からほとんど間もなかった。


 急激に高まった魔力圧に事の生じてしまったことを知ったが,状況を知ったのはジーンが倒れた後だった。ジーンは怪我こそしなかったものの,軽い意識障害を引き起こしたようだ。彼が寝かされているという部屋に急ぎ駆けつけた私は彼に事情を尋ねたが,前後の記憶が混濁していてはっきりした答えを得られなかった。おそらく姉上の逆鱗に触れ,強烈な魔力を無防備に正面から受けたためだろう。


 しかし,事情はおおよそ推測出来た。ジーンは木の上で私に語ったことを実行したまでだ。だが,私の方はというと,まさか,こんなにも速く動くとは思ってもみなかった。何ら手を講ずることなく,彼の独断専行を許してしまった。その結果がこれである。


 私はしばらくジーンの様子を看ていたが,掛かり付けの医師が来たので彼にその場を任せて,急いで姉上のところに向かった。


 姉上の部屋の前まで来ると,異常な魔力のうねりをはっきりと感じた。いつもは姉上のコントロール下に置かれて抑制されていた魔力が,彼女の感情の高ぶりに統制を失い暴れ回っている。それは一個の生き物のように,部屋の主を中心として渦巻き,周囲を威嚇している。誰も部屋の中には入れまいぞ,主には指一本触れさせぬぞ,とでも言わんばかりに。使用人が一人たりとも近づかない訳である。


 私は今,彼女の魔力に対して,はっきりと恐怖を覚えた。この身がこの魔力の怪物に食われてしまうのではないかと恐れた。


 姉上の魔力に恐れを抱いたのはこれが初めてでは,もちろん,無い。しかし,身の危険まで感じたのは今までなかったことだ。たとえ,恐ろしいほど膨大な魔力であっても,それは姉上の一部であるのなら,私たちを傷付けることはないだろう,そう思い込んでいた。


 認識を改めねばなるまい。彼女は,こんな怪物を,こんな恐ろしい獣を,その華奢な体内に飼っていたのだ。何たる精神力だろう。普段は,うちに潜む獣の害意を押さえ込んで,顔色一つ変えない彼女であったのだ。その気丈さに,私は気付くことが出来なかった。彼女と心安く話せるようになって自惚れていたのだ。私は彼女の魔力に対抗出来ているのだと。私の目はなんと曇っていたことだろう。


 しかし,今は後悔する時ではない。私はドアを開けた。途端,黒い風が吹き出して来た。高密度の魔力が黒い粒子として目視できるまで凝集している。私は思わず逃げ出しそうになるのを必死でこらえた。


「姉様!」


 黒い魔力の風が唸りを上げて,部屋の中をめちゃくちゃに荒らしている。長居してはいられない。あまりにも濃い魔力は息苦しさを通り越して,油断すれば意識を持って行かれそうだ。


「姉様!」


 私は再び我が姉を呼んだ。風の中心はあまりに風圧が強く容易には近づけない。それでも,私はほとんど地面を這うようにして彼女へと近づいた。


 姉上は青白い顔をしてうずくまっていた。まぶたをぎゅっと閉じて,耳を手で塞いで,ブルブルと震えていた。魔力の統制を取り戻そうと,必死にもがいている彼女の姿だった。


 私は姉上にすがりつかんばかりであった。彼女の両の手をほぐしてやりたかった。しかし,両耳を閉じる彼女の手は思いの外に固く,容易に解すことができなかった。


「姉様! ルシアです! 分からないのですか!」


 私の声は届かない。私の呼びかけに姉上は一つの反応さえ返さなかった。

 魔力の暴走は収まる気配を見せない。このまま暴走を続ければ,魔力の酷使のために姉上の体に障害が残る可能性がある。なんとしてでも鎮めねばならない。だが,どうすることができようか。人智を超えた力を前にして,ただの人である私に何が出来るか。こうして私は彼女に寄り添うことしか出来ない。私はあまりにも無力だった。


「お嬢様!」


 その時,この魔力渦巻く部屋に飛び込んで来た者があった。ミリエル嬢だった。


「無茶です,先生! おやめください!」


 普段の姉上を前にしてさえ,魔力に当てられ腰を抜かすほど感応の鋭い彼女だ。魔力が目に見えるほど凝集した空間に足を踏み入れようものなら,意識を失うだけでは済まされないかも知れない。


「先生!」

「いま……行き,ます。ぐっ……!」


 足音は徐々に近づいてはいる。しかし,その足取りは重たい。私は視界ゼロの中で声の方向に向かった。慎重に歩みを進めると,暗闇の中に,小柄な人影が浮かび上がった。


「先生! なんと無茶な」


 私は急いでその肩を支えて入り口に引き返そうとした。すると,ミリエル嬢の足が止まった。


「この部屋は危険です。先生は早く出て行ってください」


 実際,すでにミリエル嬢の意識は朦朧としている。このまま留まるのはあまりに危険な状態だった。


「だめ,です。おじょう,さまのところへ」

「あなたの身が危ないんです。引き返してください」

「いや,です」


 ミリエル嬢は私の腕を振り払った。支えを失った彼女は地面に崩れ落ちるように膝をついた。そして,そのまま這うようにして,姉上の下に向かおうとしている。


 私は彼女の肩を抱いて押しとどめた。行かせる訳にはいかない。これほど暴力的な魔力にミリエル嬢が耐えられるわけがないのだ。


「やめて下さい,あなたの体が持ちません」

「……わたしは,どうなっても,いいんです。どうなっても……」

「何を言うのですか!」

「わたし,たちが,始めたことです」


 彼女は私の服に縋り付きながら,力を振り絞るように言った。


「わたしの,責任,なんです。こんなにも,おじょうさまを,追い詰めてしまったのも……。ルシア様,わたしが,おじょうさまを,お救いしなければ,いけないんです」

「先生」

「お手紙,ルシア様のおかげで,楽しかったです。おじょうさまも,楽しいお手紙を送って,くださいましたから。きっと,笑顔でいて,くださったのだと。でも,わたしは,その笑ったお顔を,拝見できない。お声を聞くことができない……。どうして,おじょうさまは,お一人なんですか。いつも,お一人で,寂しそうに……」


 ミリエル嬢の頬には涙が伝っている。彼女の言葉は趣旨を捉えることが難しい。それにも関わらず,声を震わせる彼女の訴えは,何よりも私の心を揺さぶった。


 魔力の暴風は収まる気配を見せない。もう,さほど時間も残されていない。ミリエル嬢だけでなく,姉上の状態も気がかりだ。それに,私もいつまでもこの魔力に耐えられるとは限らない。


 ミリエル嬢は私の服を握る力を強めた。立ち上がろうとしているらしかった。


「先生,どうして,そこまで」

「おじょうさまに,お会いしたいんです……。ただ,それだけ,なんです。行かせて,ください」


 この異常な空間のために,ミリエル嬢は急速に体力を奪われている。声は弱々しく,視線も何処かぼんやりとしている。

 危険な状態であるのは明らかだ。これ以上は後遺症が残るかもしれない。ここは無理やりにでも引き返させなければならない。それは頭では分かっていた。


 私は再び彼女の肩を抱くと姉上の下へと向かった。ミリエル嬢の決意を無下には出来なかった。


 姉上のところへ彼女を運んだ。ミリエル嬢は姉上のそばに寄り添い,彼女の体を抱きしめた。


「ごめん,なさい。ごめん,なさい。わたしのせいで」


 彼女は泣いていた。ミリエル嬢が謝ることでは無いというのに。これは,本来は,ブラドスキーの問題で,彼女が責任を感じることでは無いというのに。彼女は涙ながら懺悔している。まるで自分の事のように彼女は後悔を露わにして涙していた。


 ミリエル嬢の体が急に力を失ったようで,ズルリと姉上の体からずれ落ちた。そして,そのまま地面に倒れそうになった。


 しかし,彼女の体が地面に落ちることはなかった。寸でのところで彼女を支える者があった。


「貴女のせいではないわ,先生」


 いつの間にか,あれほど暴れまわっていた魔力は鳴りを潜めていた。コントロールを取り戻したのだ。


「貴女のせいではないの」


 姉上はミリエル嬢の顔に掛かった髪を優しく払いながら呟いた。そして,しばらく彼女の顔を見つめていたが,ふと顔を上げてこちらを見た。私と目が合った姉上は,初めて私の存在に気づいたと言わんばかりの表情をした。だがすぐに無表情に戻ると目をそらしてしまった。


 私はなんだか姉上に責められているような気がしてならなかった。

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