第13話 ジーンと木の上で

 私は図書室での発見をミリエル嬢に率直に伝えた。話を聞いた彼女は信じられないといった表情をした。当然,彼女にとっても受け入れがたい話だろう。


「こんなのは……お嬢様に勧める訳にいきません」

「ええ。しかし,先人もこの方法を取らざるを得なかったとなると,やはり他に手段はないのかもしれません」

「ですが……!」

「わかっています」


 彼女はやるせなさを隠し得なかった。ミリエル嬢だけではない。私もこんな方法は許容できるものではない。どうして,孤独に苦しむ姉上にさらなる苦痛を強要しなければならないのだ。これしか方法がないのだとしても,そう簡単に肯定できる話ではない。


 私たちは先人の道を見ても,もっとましな方法があるのではないかという考えを拭い得なかった。


 屋敷近くの小高い丘の上には一本の大きな木が生えている。

 私はその木に登って寝そべり,木漏れ日の眩しさに目を細めながらぼうっとしていた。日中は暑さが堪えるほどになったが,こうして木陰に居れば案外涼しいものである。


 ブラドスキー領の田園風景を眺めればいかにも長閑のどかである。青々とした景色は見るものの心を癒やすかのようだ。絵画的な,その美しい風景に一点描かれた当の私は,しかしながら,途方に暮れるばかりだった。


 こんなにも広々とした空の下で,立派に育った樹木の青々と茂った葉たちを日よけにして,まるで悠々自適としてあっても,心中は袋小路に行き当たった迷い人に違いなかった。


 もちろん姉上のことがためである。


 こうして悩んだところで,どうにかなる問題でないことは重々承知している。私もミリエル嬢も,結局は,他に方法など無いことは分かっているのだ。諦め切れないのは,単なる願望にいつまでもすがっているためでしかない。そんなことは重々分かっている。


 そうやって,堂々巡りの思考に時間を費やして,無力感にため息をついている。そんなことを繰り返しているばかりであった。


「ルシアにいさま!」


 私の思考を甲高い声で途切らせたのはジーンであった。声の調子にいつもの元気さがない。私は身を起こしてこちらを見上げる彼を見下ろした。実際,彼の表情にはいつもの快活さがなかった。ここ最近,元気がないらしいことを使用人の噂で聞いていた。


 彼の気落ちは,もちろん,ミリエル嬢のためだろう。我ら兄妹の中で最も彼女に近しかったのはジーンであった。


 彼は能天気な性質だから,初めて屋敷に来たミリエル嬢にも臆することなく接していた。それが功を奏した。ジーンを切っ掛けとして,母上殿とも,私とも,ついには姉上とも,ミリエル嬢は交流を結ぶようになったのだ。それゆえ,ミリエル嬢にとっても,彼の存在は特別大きいものがあるのだろう。


 もちろん,真面目な彼女であるから,我ら兄妹の中でジーンだけを贔屓にすることはないが,それでも特に気に掛けていることは伝わる。当然だろう。初めて足を踏み入れる貴族の屋敷で,気丈に振る舞っていても,実際は不安で胸の詰まりそうな彼女だっただろう。その緊張をジーンという存在がどれほど和らげたことか。彼女の感謝の気持ちは,言葉にしなくとも,彼には伝わるのだろう。そうした感情には敏感な彼だ。彼女が屋敷に馴染み始めた頃には,ジーンは一層,ミリエル嬢に懐いていた。


 そんな彼だからこそ,ひどく心配して落ち着かない表情をしている。


「どうしたのです,ジーン」


 私はなるべく内心の鬱屈を悟らせないように穏やかな調子で答えた。

 ジーンはそんな私の表情をしばらくジッと見つめると,突然,こちらに向かって登り始めた。案外にスルスルと這い上がってきて,驚いている私の元まであっという間に来てしまった。


 彼は私の足を押しのけるようにしてその場に座ったので,仕方なく私は体を起こして,彼と同じように足を空宙に放って座らなければならなかった。


 我が弟は足をぷらぷらとさせて,なにやらムスッとしている。どうも放置されたらしい私は,目を合わせようともせず不機嫌そうにしている彼の横顔を眺めている他なかった。


 突然のことに私は面食らってしまった。こうして隣に座る以上,嫌われた訳ではないらしいが,彼の機嫌が斜めな訳はどうやらこちらにあるらしい。しかし,アレコレと理由を探してみても思い当たる節が無かった。


「……ジーン?」


 だから,恐る恐る様子を伺った。


「にいさまは,いっつもそうだよね」


 私の問いかけにジーンは不貞腐れたように答えた。


「えっと,何のことでしょうか」


 私は思わず戸惑ってしまって,気の利いた返事が出来なかった。彼の真意が読めなかった。


「先生のことだよ」


 ジーンは言葉少なに言う。言葉の端にはトゲトゲしさがあった。

 ミリエル嬢のことで話に来たのは分かっているのだが……。


「先生のことで,どうしたのです」


 やはり意図が分からないので,問い返すしかなかった。すると,じれったくなったのか,急に顔色を変えて声を荒げた。


「どーしたのです,じゃないよ!」

「ジ,ジーン?」

「なんで,ぼくだけ仲間はずれなの!」

「いえ,そんなつもりは……」


 実際,私は彼を除け者にしたつもりはない。そもそも,この件はジーンには荷が重い。しかし,彼は納得できないと言わんばかりに食って掛かってきた。


「どうしてぼくを頼ってくれないのさ! ぼくだって先生のためになるよ。子供扱いしないでよ!」


 彼が一気にまくし立てた言葉によって,彼が私の所までわざわざよじ登って来た訳がようやく分かってきた。


「ジーン……。事はそれほど単純ではないんです。問題は先生自身のためじゃない。姉様の魔力が問題なんです」


 彼の主張も分からないでもない。たしかに,結果的には,私はこの件からジーンを遠ざけていたかもしれない。特段意識して行った訳ではない。ただ当然の事として考慮に入れなかった。しかし,それは,事が姉上の問題に関わるために,解決しなければならない課題はジーンの手の及ばないところにあるからだ。


「だから,なんだって言うんだ!」


 するとジーンはふたたび声を荒げて言った。私は彼の言い放った言葉に思わず眉をひそめた。


 彼に聞き分けるつもりなどないのだろう。彼は我侭わがままを通そうとしているだけだ。いや,通るとも思っていない。ただ,地団駄を踏んで鬱憤を晴らそうとしているだけだ。それは,たしかに,ジーンの年頃なら珍しくない行動だろう。しかし,私が腹立たしいのそこではない。彼の物言いが気に入らなかった。


「簡単に言ってくれますね」


 ジーンの表情が強張った。思いの外,冷ややかな口調になってしまった。今まさしく真剣に悩んでいる姉上の事を軽々しく言われて,私も冷静ではいられなかった。


「か,簡単になんか言ってない。……ぼくは,先生のためなら何だってするよ」


 私は首を振った。


「姉上の魔力の事は知っているでしょう? それをミリエル先生がどうにかしないといけないのです。方法はあります。封印の術式で魔力を封じるのです。ですが,その方法は姉上をひどく傷付けるやり方です」

「で,でも,それで,先生が残れるなら……」


 先程の威勢は消え,ジーンの声は消え入るようであった。

 私は再度,かぶりを振った。


「あなたは,自分の望みのためなら,誰かが不幸になってもいいと言うのですか?」

「……だって」


 ジーンはしばらく言葉を探したようだが見つかるはずもなく,結局,口を閉ざして俯いてしまった。


 落ち込む彼の姿を見て,私も幾分か頭が冷えてきた。自分の弟に随分と意地の悪いことを言ってしまった。ジーンを責めたい訳ではないのだ。


「私もミリエル先生には残って欲しい。ですが,それは誰もが納得する形で残って欲しいんです。誰かが我慢を強いられるのは,それは結局,先生にとっても不幸でしかありませんよ」


 私はジーンから目を逸し,樹上からの風景に目を遣った。枝の合間の青空には真っ白い雲がゆっくりと流れている。行く先も知らず,どうすることも出来ずに。


 こんなにも穏やかな日だというのに,気持ちの好いそよ風が我ら兄弟の頬を撫でるというのに,私達の気分は一向に晴れなかった。


「……それじゃあ,先生は追い出されちゃうんだ」


 ジーンがボソリとそんなことをつぶやいた。私はどうしてか,彼の言葉に気が急いて,良く考えようともせずに返事をしてしまった。


「そんなことはありません,私たちが何とか……」


 何とかしようとしているんです。そう言おうとして止めた。

 隣に座る幼い弟の不安が伝わってきた気がした。きっと彼はうすうす分かっているのだ。私やミリエル嬢がいくら努力して,他に事態を打破する方法を探したところで,それは徒労でしかないことを。


 ジーンは立ち上がって,幹に手を掛けた。もう行ってしまうらしい。


「ぼくは,それでも,先生に残ってほしいよ。ねえさまに,たくさん,たくさん,お願いする。お願い聞いてくれたら,ぼくは,ねえさまのために何だってするつもりだよ。だって,ぼくは,先生ともっと一緒に居たいから」


 ジーンはそう言った。もうこれ以上言うことはないとばかりに,私を残して降りて行った。


 ジーンが居なくなって場所が空いたので私は再び寝そべることにした。


 彼の意外な側面を見た思いだ。私は先ほどの彼の強い決意の言葉を思い出していた。優柔不断な私とは大違いだ。


 自身の身勝手な願いのために他人に変化を強いることは,やはり正しいとは思えない。しかし,ジーンの純粋な想いに,私はたしかに心動かされた。それは,彼の言葉に,彼の意志の正しさを見出してしまったからではなかったか。


 人の関係の中で生じる物事は人の意志によって動かされる。事態を動かすのは何時だって誰かの意志だ。私はそれを良く知っているはずじゃないか。前世で良い年した大人として生きたというのに,幼い子供に諭されるとは。


 私は答えの出ない自問自答を繰り返しながら,少しずつ大きくなる自己嫌悪から目を背けていた。

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