第10話 ミリエル・キャンベル―1
一瞬の明滅の後に雷鳴が轟いた。すぐさま,けたたましい音を立てて大雨が降った。ガラスに雨粒がぶつかってバタバタと騒がしい。密閉されたこの屋敷でも,しばらくすると雨の匂いが外から漏れ入ってくる。私は毎年のようにこの匂いに懐かしさを感じる。雨の気配はかつての日本の夏場の記憶を呼び起こした。
ミリエル嬢は未だ沈黙したままである。彼女は窓の外を眺めて何かものを思う様子だった。しかし,なかなか口を開く様子にない。そう簡単には心のうちは明かしてくれなさそうだ。
彼女はこの雨を見て何を思うだろうか。私と同じく
「降りますね」
何の気もなくそう言うと,彼女は「ええ」と一言答えるだけだった。彼女にしては珍しく冷淡な感じである。何か気を悪くすることを言っただろうか。私は取り繕うように二の句を告げた。
「先生の故郷は,この時期雨はどんな感じですか。ブラドスキーの領地はご覧のとおりです」
「わたしの故郷?」
彼女の表情はまるで思ってもみなかったことを聞かれたかのようである。それで,まずいことを聞いてしまったかと思って後悔した。すると,彼女は何やら自嘲気味な表情で語りだした。
「わたしの故郷,トリンベル領は,この地よりずっとずっと北の方にあります。年中気温の低いところで,四季はありますが,真夏でもこちらの初夏くらいの陽気なんです。雨もあまり降りません。こんなに激しく降るのは初めて見ました」
「先生は北方のご出身でしたか」
「ええ。お話するのは初めてでしたね」
「トリンベルの何処ご出身なのですか」
「ヘリエネという町です。都市から離れた小さな町です。私はそこで医者の娘として育ちました」
ミリエル嬢がこれほど自分のことを話してくれたのは初めてかもしれない。私はそのことを嬉しく思いつつも,一点,気掛かりなことがあった。彼女の語り口は,決して生まれ故郷を懐かしむような調子でなく,むしろ蔑むかのようであった。
彼女は自分の故郷を嫌っているようだ。
「ヘリエネはどんな所ですか」
「……時間の止まった古い町です。一年中気温の低いところで,夏は僅かな期間しかありません」
彼女は窓の外を眺めて言った。
「長い冬の間は雪に閉ざされて人の行き来もほとんどありません。だからでしょうね,よく言われました。女に学問は必要ない,そんな暇があれば冬支度を手伝えと。近所のおじさんおばさんに言われました。そればかりでなく,兄妹や母ですら。何も言わなかったのは父だけでした」
「それでも勉強を続けたのですね」
それも飛び級して王都の高等学院で次席となる程に。
「こんな町,絶対いつか出てやると思って,歯を食いしばって,机に向かいました。おかげで特待生として学院に入れましたし,その後の高等学院への進学も叶いました。ヘリエネには学院に入ってからは,帰っていません」
「家族と連絡は」
「ほとんど取っていません。特待生は生活費なども支給されますから,仕送りを頼む必要がなかったんです。高等学院も研究助手という名目での入学でしたから給金が出ました。でも……」
そう,彼女の場合,学院を出てからが問題なのだろう。高等学院を出た者は,法律家や経理士,学者,教育者,聖職者など,いわゆる知識階級と呼ばれる者たちの職に就く。しかし,それらは男性の職業だ。女の身の上でなかなか就けるものではない。よしんば就けたとしても”どうせ女なのだから”という言葉はずっと彼女に付いて回るだろう。
「世の中,
彼女は自立心の強い女性だ。たしかに,女性男爵や女学者が活躍した時代がかつてなかったわけではない。しかし,それらは例外で,今の世で独自に収入源を得て経済的に自立できる女性というのは皆無と言っていい。女性たちが,実家の支援を受ける以外に収入を得る方法は,他人の家に入りその庇護下となること,すなわち結婚以外に方法はないのである。この時代においては,ミリエル嬢のような考え方こそが異端なのだ。
彼女が仕方ないのだという顔をして,子供に言い聞かせるかのような調子で,そう吐露する言葉には切ない実感がこもっている。その取り
「自由平等」という言葉が存在しない世界だから,この言葉を彼女は当然知らないだろう。しかし,自分の身の儘ならさを嘆くのは,どんな時代のどんな文明の人間だって同じくする感情だ。彼女の気持ちは痛いほど分かった。
「……ここへ家庭教師に来たのは,先生の意思ではないということですか」
だから,冷水を浴びせるようなことを言った。
私はまっすぐ彼女の瞳を見つめた。きっと彼女には私が
ミリエル嬢の表情は凍りついた。当然だろう。こんなにもあけすけな言葉を掛けられるとは思ってもみなかっただろう。それでも,これは必要なことだと思った。
「どういう意味ですか,ルシア様」
彼女の表情は険しかった。私は内心怯みそうになりながらも,あくまで表面上は無表情を決め込んだ。
「そのままの意味ですよ。あなたにとって,この仕事は,仕方なくやっていたものなのですか」
「違います!」
彼女は強く否定した。身を椅子から乗り出して,表情に怒りをにじませている。彼女は語気を強めて続けた。
「私は精一杯,皆様に真剣に向き合ってきたつもりです。皆様が立派な紳士淑女に成長なさるお手伝いをしようと! ルシア様には,確かに,お教えすることが少なかったかもしれませんが,それでも出来る限りのことはして来たつもりです」
もちろん,私は彼女がいい加減な気持ちで仕事をしていたなどとは思っていない。それでも,分からないのは,それほど強い思いを持っていて,これほど語気を荒げるほどの情熱を持っているのに,
「だったら,なぜ,諦めてしまうのですか」
彼女は,はっとした表情をした。
「先生が真剣に私らのことを考えて下さっていたことは,よく伝わっています。もちろん,あなたの置かれた状況が大変苦しいものだということも分かります。大叔母様に逆らえる人間は,この屋敷にはおろか,我が一族にすら居ないでしょう。ましてや,貴方の身分では,意見を言うのも難しい」
「そこまでお分かりなら」
「それでも,一言もなく去ってしまわれるのは,寂しいものですよ……」
ミリエル嬢は息を飲んだ。
せっかく結んだ縁なのに,あっさり切れてしまうのは悲しい。これは,結局,私のわがままなのだろう。
「やり残したことはないですか。姉様のことも,気にかけてくださってましたね。手紙,大変喜んでいました。ですが,本当は,面と向かって,話をしたかったのではないですか」
ミリエル嬢は目を見開いた。私は彼女の返答を待たずに言葉を続けた。
「妹とは,あまり上手く行ってないようでしたね。彼女は色々と誤解を受けやすい子ですから,打ち解けあうまで時間が掛かるのは仕方がないのです。もっと,話をしたかったのではないですか」
「兄様はあんなのですから,付き合うのが難しいでしょう。でも大丈夫です。彼だって人を見る目がありますし懐の深い所もあります。あなたのことをいつか認めてくれるはずですよ」
「弟はずいぶん貴方に懐いていましたから,あなたが居なくなってしまうと聞いて,ずいぶん落ち込んでいます。彼のヤンチャにはほとほと手を焼きますから,ちゃんと指導してくれる人が必要なんです」
言い終えて,ミリエル嬢の方を見やると,彼女も思うところがあったのだろう,表情を歪めて何処か苦しそうな顔をしている。彼女も別れを惜しむだろうか。そうあって欲しい。思い入れが無い訳ではないだろうから。
だから,私は本心を伝えようと思った。偽りなく彼女に。
「私はあなたに残ってほしい」
絶え間なく雨の打ち付ける窓ガラスは,部屋の明かりを受けて炎の揺らめきを照り返している。ミリエル嬢の瞳は,彼女の中の
「ありが,とう,ございます……」
きっと彼女の勇気次第だから。彼女の思いの強さ次第だから。私には願うことしか出来ない。それでも,彼女にそう願う人間が一人でも居るということを知っていて欲しかった。
ミリエル嬢は空いていた片手で私の手を挟むと,身をかがめるようにして,それを自身の額に持っていった。私の両手はたちまち彼女の温かい涙に濡れるのだった。
こらえ切れず声を漏らして泣く彼女の手をとり,祈るようにして泣く彼女に,私は夕立の過ぎるまで付き添っていた。
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