第9話 大叔母の復帰
盛夏の到来と共に彼女は戻って来た。
その日の屋敷は非常な緊張感に包まれていた。それもそのはずである。我らが使用人たちの心より恐れる”侯爵家の象徴”が帰ってくるのだから。喜んでいるのはこの婆様を妄信する我が兄上ぐらいだろう。
私は大叔母様の様子が少し気になったので,玄関ホールの上階から彼女が来るのを密かに待っていた。定刻通りに婆様がやってくる。若い従僕が対応して彼女を引き連れていくが,来客に手慣れた彼であっても,緊張を隠し得ないらしい。
我らが婆様は,皺だらけの皮膚を趣味のよいドレスで包んでいる。その背筋は,多年の訓練の賜物か,真っ直ぐに伸びており威厳がある。彼女はその年季の入った顔面をぐるりと
すると,彼女の目線が私を捉えた。たちまち,その碧眼を獅子の眼光のごとく光らせた。今にも光線を発しそうな目つきである。まあ,たしかに,来客を見下ろすのは無礼ではあるが,さすがに目ざと過ぎやしないか。一応,物陰に隠れていたのだが。相変わらず元気で恐るべき婆様を確認した私は,そそくさとその場を退散した。
今日も父上は不在である。今この時にも王都で政治活動に勤しんでおられるのだろう。我らがブラドスキーの名声を高めんがために,父上もご苦労なことである。そういう訳で当主不在の屋敷は,その一切を母上殿が仕切らなければならない。まさしく女主人である。したがって,屋敷への来客は彼女が相手する。
格下の相手ならばいざ知らず,大叔母相手に居留守を使うわけにもいかず,母上殿は婆様の応対をしている最中であった。しかし,さすがの母上殿であっても我が侯爵家の重鎮大叔母様は持て余すだろう。なにせ,母上殿と父上との婚約に反対していた急先鋒が相手である。兄上のツンケンとは役者が違う。母上殿もさぞかしお困りだろう。あんなものまで相手せねばならないというのは,実に屋敷の主人というのは大変なお役目だ。
そんなことを考えながら自室で暇を潰していると,メイドが来て談話室へ行くよう言われた。母上殿と大叔母様とがお呼びらしい。積もる話も終わったから,子供らの顔でも見ようということだろう。
正直あまり気が進まない。
私はこの婆様が苦手であった。彼の人の貴族主義な所がどうにも好かなかったし,なにより家庭教師としてのやり方が好かなかった。
間違いを許さないのである。
習字をやらせて完璧な字体になるまで延々と書かせ,外国語をやらせて文章を丸暗記し流暢に口からついて出るようになるまで繰り返させる。一字一音でも間違えようものなら,手に持った指し棒でぴしゃりとやって,ひどく冷徹な口調で叱るのだ。
ジーンなどは何度号泣したか知れない。アンや私も大分叱られた。もちろん,私は馬の耳に念仏であったが。一方,我が妹は無表情でお叱りを受けていた。当時は大した度胸だなどと思っていたが,説教中,教室の物が突然倒れたり壊れたりなど謎の現象がよく起きていたことを今思い起こしてみると,アンも大概堪えていたらしい。
兄上は出来が良いのであまり叱られることはなかったようである。ちなみに,姉上はというと,驚くべきことに我らが大叔母様は,嫌がる彼女を部屋から引き剥がし,教室の席に座らせると姉上の絶大な魔力など意にも介さず授業を敢行した。とんでもないばばあである。
談話室のドアをノックして来訪を告げる。返事があって中に入る。部屋の中には,すでに兄上,アン,ジーンが揃っていた。姉上は遠慮して来ないのだろう。つまりは私が最後であった。遅いぞと言わんばかりの兄上の目線が突き刺さる。そんなにカッカしないで欲しい。私も来たくて来たのじゃない。そう心の内での文句をつけていると,突然,しわがれた声が私の耳を打った。
「お久しぶりね,ルシア」
再会を喜ぶ色などいささかも含まれない口調である。鋭い目線が私をジロジロと観察している。きっと私の”出来”を確かめているのだろう。己の管理から離れてもなお,侯爵家の人間として損なわれていないかどうか見定めているに違いない。
「お久しぶりです。大叔母様」
私はなるべく当たり障りのないように返事した。当然,教え込まれた礼の形をなぞってである。それに対して例の眼光を容赦なく浴びせかけるだけで,婆様はフンと鼻を鳴らして余所を向いた。私の礼の実の無いことを見抜いたようである。
「皆,相変わらず壮健で何よりです」
どこか皮肉げな調子を含ませて大叔母様は言った。十中八九,私への当てこすりだろう。そんなことなど気にもとめず,我が兄上は喜々として婆様に挨拶を返した。
「大叔母様もお体は大分好いようで」
「お陰様で。マリウスはお会いしない間に背が伸びましたね」
打って変わって和やかな会話である。そのまま二言三言,兄上と言葉を交わした後,大叔母様はアンとジーンとに声をかけた。しっかり勉学に励んでいるかと問われてジーンが,はい,と言うはずもない。彼はお茶を濁そうとして失敗し,婆様の眼光を食らって涙目になっていた。一方,アンはボソボソと最近読んだ植物の本を答えていた。これに対しては,あまり偏った読書はよくありません,と言って他の図書を勧めるだけでそれ以上婆様が小言を言うことはなかった。
一通り挨拶が済むと,何やら婆様は居住まいを正した。どうやら本題に入るようである。
「この度はわたくしの都合で教室を空けてしまい申し訳なく思っています。ですがこの通り体の調子も戻りました。再び教鞭を取って貴方がたを立派な紳士淑女へと導くお役目に戻らせて頂きます」
婆様が復帰したということは,つまり家庭教師のお役目に婆様が再び収まるということだ。そうなると気になるのはミリエル嬢の処遇である。そのことを真っ先に問い詰めたのはジーンであった。
「ミリエル先生はどうなるの!?」
「ジーン,もっと丁寧に言葉をお使いなさい。ミリエル嬢はしばらくお客人としてこのお屋敷に滞在なさいます」
「おきゃくじん……?」
「家庭教師の任を解かれたということです。近いうち,お屋敷からも出て行かれます。ご理解なさい」
婆様が冷たく言い放つ。大叔母が復帰するという時点でこうなることは予期していたが,ジーンにとっては突然のことでショックだろう。彼は呆然として言葉が出ないようだった。
「ミリエル嬢のようなお若い先生では何かと不安もあったでしょう。今後はわたくしがしっかりと貴方がたを指導致しますのでご安心なさい」
婆様の言はジーンには届いていない。あまりにも急なことだ。我が弟の悲しみは想像して余りある。ジーンだけではない。姉上だって近頃は頻繁に手紙のやり取りをして親しくしている。出ていくとなれば悲しむだろう。それに私もミリエル嬢を好ましく思っていた。これで別れとなるのはあまりにも寂しい。
大叔母の帰還は唐突に我らがルネス邸に波乱を呼び込みつつあった。
それから屋敷の雰囲気はがらりと変わった。
あれほど穏やかであった我らがルネス邸は,大叔母の存在一つであっという間にピリピリとした空気に様変わりした。
我らが大叔母様があまりにも目ざといものだから,使用人は手を抜くことも出来ず仕事に追いやられている。まるで毎日が大規模な催し前のような騒ぎである。我が家の有能な執事と女中頭も忙しく立ち回っている。侯爵家の執事と女中頭という,使用人の中の使用人ともいうべき彼らであってもそうなのだ。他の使用人たちも緊張の色を隠せなかった。
息つけないのは彼ら使用人たちだけではない。
我々子どもたちも大叔母様の厳しい叱責にさらされ精神を削る毎日である。言葉遣いに姿勢,歩き方,入退室,起立着席などなど折に触れてのべつ叱られる。一挙手一投足をいちいち叱られるのでは堪ったものじゃない。そのうち厠にまで入り込んで来て用足しの姿勢が悪いと叱られかねない。
大叔母様が帰還して来て唯一の幸福は,この婆様が住み込みでなく通いであることだろう。婆様が帰宅すると屋敷の緊張が一気に弛緩する。まるで我らがルネス邸がため息を吐くかのようである。
一方のミリエル嬢はというと,すっかり勉強部屋からは追い出されてしまい,今では自室と図書室との往復がほとんどで,ほぼ軟禁のような状態で暮らしている。時々彼女を見かけて声を掛けるが,どうにも気の抜けた様子で返事も力ない。彼女だって今の状態を望ましくは思っていないはずだ。そう思って,もう一度教室に戻る気はありませんか,と問いかける。しかし,彼女はどこか諦めた様子で首を振るばかりであった。仕方ないのだと言わんばかりの表情に,私は多少の腹立たしさを感じずには居られなかった。
ミリエル嬢の退去は決定事項だという。母上殿に掛け合ってみても無駄足だった。たとえ女主人といえども,このブラドスキーの妖怪にはかなわないらしい。
ミリエル嬢は才ある淑女だが,所詮は使用人の立場でしかない。それに若い身空でまだ世間をあまり知らない。一方の大叔母様は幾年月を重ねたか知れない侯爵家の女である。酸いも甘いも噛み分ける向かう所敵なしの婆様だ。ミリエル嬢にとっては文字通り怪物だろう。易々と盾突くことなど出来はしない。そう思うと,先ほど腹立たしく思ったのは彼女に済まない気がした。相手はあの婆様なのである。孤立無援では撤退も止むを得ない。であれば,ミリエル嬢には味方が必要だ。
今,身軽に動けるのは誰あろう私しかいない。ジーンは婆様に意気消沈させられて活力を失っているし,姉上と我が妹とはこういうことに関しては役に立たない。よしんば味方になっても途方に暮れるだけだろう。兄上は我関せずである。もともと大叔母様側の人間だから頼りにならない。
そう決まったら善は急げである。早速,私は己が味方であることを伝えるべく彼女の部屋に向かった。こういうのは本人の前で明確にしておいた方が誤解がない。
部屋を訪ねると彼女は在室で,突然の来訪にも驚かず快く招き入れてくれた。
「今回の事はあまりにも勝手です。先生には良くして貰いましたから引き続き我々の傍に居て頂きたいのです」
「……ありがとうございます,ルシア様。でも,お家の方々が決められたことですから」
「確かに,簡単に覆せるものではないのは承知しています。しかしそれは二の次なのです。先生はどうなされたいですか。残りたいですか。出ていきたいですか」
ミリエル嬢の顔が強張った。きっと簡単に答えられるものではない。侯爵家に家庭教師として居続けることが必ずしも幸福であるとは限らない。その特別な地位のせいで他の使用人との軋轢もあるだろう。兄上の冷淡な態度もある。姉上やアンといった特殊な子供を相手にしなければならないというのもある。しかし,私が知りたいのはこの一点なのだ。私は彼女に残ってほしい。
窓がガタガタと音を立てた。風が吹いてきたようだ。外を見ると夕立の気配が立ち込めている。
ミリエル嬢は何かを言いかけては言葉を飲み込み,また言いかける。そうすることで自身の気持ちを整理するかのようだ。
私はいつまでも彼女の言葉を待った。
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