第8話 ブラドスキーの子供たち

 母上殿にアンとの仲直りを報告すると彼女はとても喜んでくれた。彼女としても心配であったらしい。アンをこれからもよろしくお願いしますと言われてしまった。そこは兄であるからして,頼まれなくとも今後ともアンのことは気にかけていくつもりである。しかし,母上殿からすると私は実子でないし気兼ねするのだろう。親戚の子のような感覚だろうか。


 アンとはそれからよく話をするようになった。彼女は植物が好きなようで,天気の好い日には裏庭のテラスに出て,花壇を眺めながら話をする。私は彼女から精霊について多くのことを聞いた。私がしつこく詳細を尋ねるので,アンもさぞうんざりしていることだろう。


 精霊は個体ごとに見た目が違うらしい。さらにそれぞれ個性もあるという。比較的大人しいのもあれば,気性のはげしいのもいる。静かな場所を好む者もいれば,騒がしいのを好む者もある。そこで,個体によって持つ能力は異なるのか,と訊くと,一人の精霊は一つの能力しか使えない,水の精霊は水を操るし,風の精霊は風を操ることしかできない,とのことである。彼らが人語を話すことは稀だという。ただこちらの意思に反応するだけで,言葉によるコミュニケーションはほとんどが出来ないらしい。


 だったら彼らにお願いして能力を使ってもらうようなことは出来るのか,と彼女に訊くと,今までやったことがないので分からない,という回答だった。それなら試してみようということになった。


 しかし,やってみるとこれがなかなか難しい。精霊はアンの感情に沿って能力を行使する。その際,能力を発揮できる個体は,彼女が抱いている感情に合致する属性を持った個体だけらしい。しかも,それら個体が引き起こす現象は,まったく彼らの意思によるもので,アンには到底予想の出来ないものだという。アンから干渉して,彼女の望む形で現象を引き起こすのは難しいようである。しかしながら,時々思った通りの事象を生じてくれることもあるらしく,訓練次第では可能になるかもしれない,とも言っていた。そこで試しに訓練してみようということになった。ただし,アン一人での訓練は何だか不安があったので,私が一緒にいる時に訓練を行うことにした。


 夕食の後に自室で図書を読みふけっていたら,すっかり夜更けとなってしまった。つい最近,兄上に教えてもらった本が結構面白く,続きが気になって最後まで読んでしまったためだ。よくないなあ,と思いつつベッドに入ろうとするが,どうにも目が冴えて眠れそうにない。仕方がないので散歩がてら本を書斎に戻しに行った。


 深夜にもかかわらず書斎には先客が一人いた。我が兄マリウスであった。暖炉前のソファで何やら書き物をしているようである。彼は部屋に入った私にすぐ気付いた。


「ルシアか。こんな夜更けにどうした」

「この前教えて頂いた本を戻しに来ました。どうにも寝付けないもので散歩ついでに」

「そうか,奇遇だな。私も眠れなくてな。……本はどうだった。面白かったか」

「ええ。おかげでこんな夜中まで読んでしまいました」

「はは,そうか」


 兄上は可笑しそうに笑っているが,その表情には疲れが見える。どうやら随分長いこと考え事に耽っていたらしい。そこまでして何を考えていたのだろう。私は彼の書き物が気になった。


「兄様は何をしてらしたんですか」


 私は彼の手元に視線を向けて尋ねた。兄上は私の目線の行く先に気づくと「ああ」と言って紙を見せてくれた。何やら一覧のようなものがびっしりと書かれていた。


「私も再来年には学院に入るだろう。そこで何を学ぶべきかを再度考えていたのだ。当主となるために何が必要かを今一度考えるべきだと思ってな」


 驚くべきことに,紙に書かれていたのは学院でやるべきこと一覧であった。学ぶべき教科,得るべき人脈,探るべき派閥などなど,事細かに書いてある。それは当主になるに当たっての計画表であった。父上や大叔母様などの意見を訊くなどして,当主の使命を整理し,その使命の遂行に必要な事項をこうして自分なりにまとめたという。おおよそ十一の若者が出来ることではない。十一歳といえば日本では小学校六年から中学一年へ上がる頃だ。私がその年だった頃など,将来のことなんぞ何も考えていなかった。まだ子供だというのに次期当主というのは早熟なのだろうか。責任ある立場というものが,こういう意識を作るのだろうなあ。


「兄様は色々考えておられて,すごいですねえ」


 私はすっかり感心した。兄上はすでにこの歳で当主を背負わんとする気概を持っている。


「考えるのが私の仕事だろうから,当然のことだ。褒められるようなことではない」

「そんなことはありませんよ。将来なんて漠然としすぎて真剣に考えようという気にすらなりませんもの」

「ははは,選択肢のあるお前の場合はそうだろうな。幸か不幸か私には一つの道しかない。私の将来は,お前のものよりは,格段に具体的というわけだ」


 そこで私は気づかされた。兄上が平然としているから今まで気にして来なかったが,兄上には当主になるという選択肢しかない。他の選択肢はあり得ないのだ。


「……辛くはないのですか,不自由を強いられて」

「これを不自由と思えば,そうだろうな。だが,物心ついた頃から当主となるのだと言われ続けたおかげで,私もすっかり決心してしまったよ。それに,私なんかよりも,お前の方がずっと偉いことをしているではないか」

「私ですか?」

「聞いたぞ,姉上とアンのこと。私では,ああは出来ん。あれはお前の力だろう」

「いえ,あれは,姉上やアンが心を開いてくれたからで……」

「彼女らにそうさせたのはお前だろう。ルシア,きっとお前には人を繋ぐ才があるのだろうな。私には真似出来んことだ」


 兄上は何故か得意そうな顔をして微笑んだ。どうしてそんな嬉しそうな顔をするのだろうか。分からない。


 兄上は困惑する私の顔を見てクツクツと笑うと,私は先に戻る,お前も早く寝るといい,と言い残して部屋を出ていった。私は釈然としないものを感じながら,本を書棚に戻して書斎を後にした。


 珍しく早朝に目が覚めたので,屋敷の周りをぐるりと散歩していた。


 初夏を過ぎて夏も盛りとなって来ている。朝の時間でも日差しは随分と強い。日が天頂に昇る頃には気温も大分上がるだろう。


 暑いのはあまり好かない。冷房設備などこの世界にある訳もないから,夏の季節はじっと耐える他ない。しかも石造りの屋敷は熱が籠もりやすいから,日当たりの好い部屋など最悪である。あんなのは五分と居られない。とはいえ暑いのは日中だけで,早朝や夜は風が吹いていれば何とか凌げるものだ。アスファルトなど無い世界であるから,地面の熱も早々に夜空へ消えるのだろう。こればかりは寝苦しく無くて有り難い。エアコン付けっ放しでないと寝むれない日本の夏が懐かしいものだ。


 屋敷から離れて少し小高い所に来た。見晴らしも多少よい。見渡すかぎりの田園風景である。遮るものなどない,ひたすらに緑の大地が広がっている。その中にぽつねんと,このルネス邸だけが取り残されたかのようにある。しかし,これでも王都まで馬車で二時間,最も近い町までは三十分程度で行けてしまう。つまりは,取り残されているのではなく,屋敷が人家を遠ざけているのだ。この風景を独り占めするために。まったく我が先祖も欲張りである。しかし,その欲張りにも感謝しなければならないだろう。この緑豊かな土地と美しい屋敷とを残してくれたから,今こうして,青々とした緑をとこにして,気持ちのよい青空を眺めていられるのだから。


 そうしてぼうっと朝の時間を過ごしていると,私の元へ近寄ってくる足音がした。草を踏み分ける音はゆっくりで,ジーンみたく荒っぽくないし,兄上みたくせわしくない。女性的な感じだなあ,などと半身も起こさずにいると,私の顔面に影が差した。きたる人は日傘を持っていたようだ。


「こんな所で横になったら服が汚れるわ,ルシア」

「姉様。別に気にしませんよ」

「マリウスが知ったら怒るのよ。せめて体を起こして」


 我が姉ロゼッタの方に顔を向けると,わざとらしく厳しい表情を作って,私を見下ろす彼女のかんばせがあった。私は渋々半身を起こした。


「お早いですね,姉様も散歩ですか」

「朝から屋敷の周りをうろついてる人影が見えたから確かめに来たのよ」

「おやおや,お一人でそれはいけない。不逞の輩でしたらどうするのです」

「そんな輩はこんな所で不貞寝しないわ」


 クスクス笑いながら姉上は冗談めかして言った。しかし,不貞寝とは心外であ

る。


「別に,不貞寝ではありませんよ。ただ考え事をしていただけです」

「悩み事でなくて?」


 からかうような,試すかのような目を向けられて私はどきりとした。図星だった。なぜこの人は私の内心をこうもたやすく当ててしまうのだろうか。


「最近,あなたの表情が読めるようになって来たの。意外にルシアは顔に出易いのね」

「……降参です」


 これにはお手上げである。まったく姉上にはいつも驚かされる。


「それで,どんな悩み事?」


 姉上は私の横に一緒になって座った。いきなり核心を突く質問に私は苦笑せざるを得なかった。結論を先に求めるせっかちなところが彼女にはある。私は渋々答える他なかった。


「……私は将来どうするべきか,と思っておりまして」


 なんとなく歯切れの悪い言い方になってしまった。要は兄上に感化されたのだ。彼の真剣な態度に接して,自分も将来を真面目に考えねばならない気がしたのだ。単なる九歳の子供だったら,こんなことは考えなかったかもしれない。貴族の,しかも,侯爵家の次男坊である。将来など,どうとでも出来るような身分だ。しかし,私はどうも転生した身であるらしいから,およそ普通の貴族の子弟ではない。生前の記憶を持って生まれてきてしまった。この記憶は,きっと,私を普通の貴族のままにはさせてはくれないだろう。


 ちらりと姉上の方を見る。彼女は何やら随分驚いた表情をしていた。目を丸くしこちらを見つめている。そんなに驚くようなことを告白したつもりはないのだが……。


「なぜ,そんな顔をしているのです」

「ルシアも,将来のこととか考えるんだなあ,と思って」


 意外や意外,とでも言いたげな口調である。


「そんなに意外ですか」

「だって,ルシアはいっつも達観してるから」

「そんなことは……」

「そんなことあるの。だから,きっと,あるがままに暮らしていくのだと思っていたわ。あなたは……そう,雨粒みたいな人だから」


 彼女は悪戯っぽく笑った。


「雨粒?」

「ほら,渓流に落ちた雨滴は水流と一体となって谷間を下るでしょ? それで,やがて,小川に会って大河に運ばれて海に出るの」


 姉上がからかうように笑っているのは,彼女の話が私が以前読んでいた童話のあらすじその物だからだ。彼女もいつの間にか読んでいたらしい。――雨滴の冒険。かの雨滴くんは大海原にたどり着くと,雲になり,風に運ばれ,再び故郷に雨となって戻った。私もそうして広い世界を知ると言うのだろうか。


「私はあの主人公みたく呑気になれませんよ。ただ流れに身を任せるだけなんて」

「だから意外だったの,ルシアはそれを良しとする人だと思っていたから。……でも,そうね,あなただって不安になることもあるのよね」

「そうですよ。まったく,姉上は私をなんだと思っているのですか」

「ふふ。でもね,私はやっぱり,ルシアはあの物語の主人公みたいに,流れを見つけて遠くへ運ばれてしまうのだと思うの」

「なぜですか」

「姉としての直感よ」


 彼女は得意げにクスクスと笑った。

 

 姉上は,もう暑くなってきたから屋敷へ戻るわ,と言って早々に帰ってしまった。私は一人取り残され,丘の上で仰向けになって呆然と青空を眺めていた。いくつか,ちらほらと空を流れる雲は,強い日差しに照らされて白色がまぶしい。あれらは,たゆたいながら,どこまでも流れていくだろう。己の行く先など知らずに。


 姉上がおかしそうに笑いながら語った話が,どこか不穏な響きを持って,私の頭の中を反響して止まなかった。

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