第7話 嘘つきのアン―3

 次の日,屋敷の裏庭にテーブルを設置してアンと二人だけのお茶会を催すことになった。裏庭はプライベートな場所だから,来客の多いこのルネス邸でも部外者が入っていくることは無い。


 裏庭には母上殿の私的な花壇があり,珍しい花々が色とりどりに咲いている。彼女の趣味で方々の草花を集めているという。特に目立つのは,東方から取り寄せたらしい,何とかいう花だ。一度姉上に教えてもらったのだが名前を忘れてしまった。見た目は薔薇によく似ている。色の種類は大分豊富で,それらが植わっている花壇は初夏の日差しを受けて随分と賑やかだった。その花壇をちょうど眺められる所にテーブルを設けてもらった。


 しばらく待っていると,アンジェリカに付き添われたアンがやってきた。彼女は相変わらず表情に乏しいが,今はなんとなく不承不承という雰囲気を漂わせていた。その様子は何だか不貞腐れた子供のようである。母上殿の言うとおりかもしれない。大分拗ねていらっしゃる様子だった。


 アンは母上殿に促されて席に座った。


 彼女は私と目を合わせようともしない。ひたすらに花壇の方を向いてこちらに一瞥も与えない。そんなに無視されると兄としては悲しいものがある。


 母上殿はこのあと予定があるとのことで室内に戻った。給仕の者にはお茶を用意して貰い,それが終わったら下がってもらった。ここでの話は,アンと私,二人だけの秘密としておきたかった。


 アンは相変わらずこちらに顔を向けない。だが,私は構わず口火を切った。


「この場は先日のことを謝らせて頂くために設けました。妹の言葉を信じ切れなかった愚かな兄を許してください。私はあなたを信じると口にしておきながら,心のどこかであなたを疑っていました。アンは賢い子ですから,兄の嘘など容易に見抜けてしまうのでしょうね。ですが,誓います。今度こそあなたのことを信じます。だから,あなたの話を聞かせてください。私はあなたのことをもっと理解したいのです」


 言い切ると,そっぽを向いていた顔は正面を向いた。しかし,その若草色の瞳はどこか不安そうで,視線はテーブルの上のカップに落ちて揺らいでいる。私の言葉に偽りのないことが伝わっただろうか。私はアンの反応を待った。


「……にいさまは,アンがジーンを殴ったとおもう?」


 しばらくするとアンがか細い声でそう訊いた。私の答えは決まっている。


「いいえ。何度思い出してみてもアンが殴ったようには思えません。しかし,ジーンの胸には何かに叩かれたような痕が残っていました。それが今考えてみても不思議なのです」

「じゃあ,アンが人のを盗んだりしたとおもう?」


 アンは私の回答に特別反応を示すことなく,同じ調子で次の質問に移った。私はアンの意図が読み取れず少し困った。とはいえ,答えは返さなければならない。私は階下での探索を思い出しながら答えた。


「これも,いいえ,です。人の物を隠したとか,皿をいたずらに割ったという話も,よくよく調べて見れば奇妙でした。どれもあなたには届かない場所に置いてあった物なのです。使用人たちはアンが梯子か台を持ってきて取って行ったのだろうと言います。しかし,あなたが持てるような丁度よい大きさの梯子など,我が屋敷にはありません。なら,棚をよじ登ったのかと言えば,あなたにそんな体力はないでしょう?」


 アンはこくりと頷く。私のように木登りして読書するのが趣味なら別だが,アンはいたって一般的な貴族の令嬢の生活を過ごしている。もし食器棚をよじ登ろうものなら,もっと盛大な枚数の白磁が破片と化しただろう。


「あなたの周りでは,あなたを中心として,あなたの意思とは無関係な出来事がよく起きる。そうですね」


 アンは頷いた。相変わらず感情が読めない。彼女の頷きは単に事実を肯定しているだけなのだろうか。


「かと思えばあなたの感情に答えるかのように,何かしらの力が周囲に働くことがある。ジーンの件がそうですね」


 アンは肯定も否定もしなかった。確かに,アンはジーンに直接暴力を振るったわけではない。だから,彼女にジーンを殴ったかと問いかけたとき,彼女は否定したのだ。しかし,今の質問に対しては首を横に振らなかった。彼女自身にも判然としないが答えか,あるいは,返答するか迷っているのか。


「あの時,あなたはジーンに怒りの感情を向けていた。もちろん,あれはジーンが悪いのですから,あなたが怒るのも無理はありません。しかし,その怒りの感情に反応してしまったものがあった。……まるで意思ある存在かのように」


 ここでも,彼女は何らの肯定も否定も返さなかった。しかし,その瞳には,明らかに,ためらいの色が見て取れた。


 きっとここが分かれ道だ。ここで,間違った選択をすれば彼女は自分のことを語らず,私は一生アンを理解できないかもしれない。それは何としてでも避けねばならなかった。年長者のなかで,一番年の近い私が彼女を理解してやらなければ,このブラドスキーの屋敷で誰がこの子に味方してやれるだろうか。この美しいルネス邸で,周囲の人間から軽蔑の瞳を向けられて,彼女は一体どれほどの孤独を味わってきただろうか。この屋敷は彼女の生家なのだ。自分の家はどんな時であっても安心できる居場所でなけばならない。


 逡巡は一瞬だった。


「あなたは,その存在について何か知っていますね」


 一陣の風が私たちの間を吹き抜けた。アンはその透き通るような翠眼を大きく見開いていた。


 これまで調べたことや経験したことから,私はアンの力の正体について一つ思い当たるものがあった。これは前世の知識のおかげでもある。ファンタジー物の創作では定番の存在。ときには人間を惑わせ,ときには力を貸して人々を助ける,無邪気で小さき超常の存在。妖精や精霊と呼称される特別な人間にしか見えないという,独自の意思を持ったあの者たちがこの世界に実在するならば,アンの周囲で起きる出来事にも説明がつく。


 だから私は”存在”という言葉を使って彼女に問いかけた。”力”という言葉には反応を示さなかった彼女であったが,この言葉には明らかな動揺を示した。それは,彼女が自身の周囲にいる力の源を一個の存在として認識しているためではないだろうか。


「話してくれますか。私があなたのことを知るために」


 私はアンに頭を下げた。それが,今私に出来る誠心誠意の表し方であるから。私は自身の思いがアンに伝わることを心の底から願った。

 

「にいさま,あたま上げて,ください」


 しばらくすると,アンは小さな声で,しかし,はっきりとした意思を感じさせる口調で言った。私は顔を上げて我が妹の顔を見た。翠色の瞳は力強く私を見つめて,一つの決意を秘めているかのようであった。


 アンは言葉を続けた。


「……アンも,ごめんなさい。ひどい,態度して」


 私は驚いた。彼女の謝罪は予想外だった。


「そんな,あなたが謝ることではありません」

「ちがうの。アンは,にいさまにきらわれるのが怖くて,ずっと,言えなかったことがあるの。もっとはやく言えば,にいさまを困らせなかったのに」

「……アン」


 ぽつりぽつりと紡ぎ出される言葉は,彼女の葛藤がにじむかのようであった。


 アンの告白で,私は彼女の内心を初めて知った。アンも怖かったのだ。私と同じく相手に嫌われるのではないかと。そんな思いに囚われて相手を遠ざけるようなことをしてしまった。


 私もアンも結局同じ過ちを犯していたのだ。二人して互いの機嫌を気にして右往左往していたとは,なんともおかしな話である。


 私は緊張がほぐれるのを感じた。アンと私とはやはり兄妹だなあ,と奇妙なところで認識させられた。そう思うと,笑えてきた。私はおかしいのを堪えながら言った。


「アン,私も同じでしたよ。アンに嫌われるのが怖くて,思い切ったことができませんでした。もっと早くあなたの話を聞けばよかった」

「にいさまも?」


 アンは目を丸くした。まさか私の方も自身と同じ考えであったとは思いもよらなかったらしい。


「ええ,私たちは,似たもの同士ですね」


 そう言うと,アンは驚いた顔を一変させた。表情から緊張が解け,その翠眼を細めて唇を綻ばせた。


 笑みであった。


 非常にわずかの微笑というしかない変化であったが,初めて,私の眼前で笑顔を見せた。それは私にとって,まるで福音のような,幸福そのもののような,愛らしく美しい笑顔だった。


 数枚の花びらが風に吹かれてどこからともなくテーブルに落ちてきた。それは何やら嬉しそうに私たちの眼前でひらひらと舞っていた。


 それからアンは自身のことを語ってくれた。


 幼い頃から精霊と呼ばれる伝説上の存在が見えること。それが他人には見えないこと。周囲の大人に見えると言っても信じてもらえなかったこと。精霊たちに好かれていること。そのために,感情を表に出すと精霊たちが反応してしまうこと。できるだけ感情を押し殺して生きてきたこと。そのために却って精霊たちが自分の気持ちを引き出そうとして周囲で色々な悪戯をするようになってしまったこと。無邪気な彼らはアンがそのために周囲の人間に責められることが分からない。次第に孤独になったこと。それでも話しかけてくれた兄のことが大好きなこと。


 正面切って言われたので,さすがの私もこれには照れた。


 その兄が自分のことを疑うような素振りを見せたためにひどく悲しかったこと。あとで謝ってくれて自分のことを知りたいと言ってくれて嬉しかったこと。正直に言わねばと思うものの信じてくれるか不安だったこと……。


 アンはか細い声でぽつりぽつりと語ってくれた。

 

 精霊のことは他の誰にも話していないという。それも仕方がない。見えないものが見えると言われて信じる人間は少ない。私はたまたま,そういう存在が有り得るかもしれないと思っていたから信じられた。アンにとって,精霊のことを告白するのはとても勇気のいることだろう。


 それでも,信用できる人間には精霊のことを伝えるべきだと私は思った。今のアンにとって,アンを理解してくれる他人の存在が必要不可欠だ。感情を押し殺して生きてきたこの子は,自分の気持ちを自然に表に出すやり方を忘れてしまっている。笑い方を忘れてしまったのだ。まだ七つだというのに,そんなのはあまりにも悲しすぎる。少なくとも,こうした超常の生き物に詳しそうな姉上の協力は得たい。そして何より,アンジェリカには,本当のところを伝えなければならないだろう。子であるアンにとって,実の母に対して隠し事をし続けなければならないことは大変な罪悪感だろうし,とても辛いことだろう。母上殿もアンの口数の少なさは心配していた。いつかはアンが真実を告げられるように,私も協力できることはしなければなるまい。


 ただ,それらは,後で考えればよいことだ。今はアンに言わなけばならないことがある。


「アン」

「うん?」


 私が改まって呼びかけたので,アンは不思議そうに首をかしげた。


「話してくれて,ありがとうございます」


 アンは無表情のままであったが「うん」と言って頷いた。そうして,ふと,彼女は何かを追うように花壇の方に視線を向けた。私もつられてそちらを向く。薔薇によく似た花たちがどこか嬉しげな雰囲気を醸し出しているのは,きっと,私には見えない精霊たちが,アンの気持ちを伝えてくれているためだろう。


 花壇は午後の陽光を受けて華やかである。微風の花々を揺らす様はなんとも長閑のどかだ。

 精霊たちは,花壇の上で,我々のことなど気にもとめずに,無邪気に戯れているのだろうか。

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