第6話 嘘つきのアン―2

 それからというもの,アンは私と顔を合わせてはくれなかった。


 廊下ですれ違うことがあっても,彼女は顔を伏せたままこちらを見ようとしない。そればかりか、話しかけようとすると彼女は逃げるように私の前から立ち去ってしまう。以前は,私が声をかければどんな話でも,いつもの無表情と愛らしい翠色の瞳とを向けて,じっと耳を傾けてくれていた。アンは決して嫌がりはしなかった。


 彼女は私のことを嫌いになってしまったのだろうか。顔も見たくないというのであれば,私はどうすればよいだろうか。このまま仲違いをしているのは,あまりにも心苦しい。なにより,私を慕ってくれていた彼女から冷たい態度を向けられ続けるのは堪える。


 だから,もし,彼女の心のうちにまだ私を慕ってくれる気持ちが残っているのならば。アンを,私の妹を,今度こそしっかりと理解しよう。彼女に疑いの目を向けるのではなく,信頼を向けよう。慕ってくれていたあの子に今度は私が返さなければいけない。


 とにかく今はアンの様子が知りたい。しかし,彼女に拒絶されている今の状態では直接様子を伺うのは難しい。隠れて観察するわけにもいかない。そこで,私はある人に頼ることにした。


 我が頼もしい協力者アンジェリカは事情を聞くと快く協力を引き受けてくれた。


「申し訳ありません,私が不甲斐ないばかりにアンを悲しませてしまいました」

「起こってしまったことを悔やんでも仕方ありません。それにルシアさんが悪いわけではありません。アンの口数の少なさはわたしも心配しておりましたが,どうにかするわけでもなく今まで過ごして来てしまいました。母であるわたしの至らなさです」


 母上殿は瞼を閉じて首を振る。自分を責めるような物言いに,私は申し訳なくなった。


「そんな,母上のせいでは。妹のことを信じ切れなかった私の責です」

「……ルシアさん,あなたの気持ちは大変うれしく思います。ですが,何も語らない相手を信じるのは誰にとっても難しいこと。信じて欲しいと願うなら,あの子は自分の想いを言葉にしなければならなかったのです。そうしなけば,信じ合うことなどできないでしょう」

「おしゃるとおりではありますが……」


 母上殿も厳しいことを言う。アンだってまだ七つだ。相手に求めすぎるところがあるのも当然ではないだろうか。しかし,実の母親としては思うところがあるのだろう。あえて突き放すような物言いをしている。


「ふふ。アンはきっとルシアさんに甘えているのでしょうね。言葉にしなくともルシアさんなら分かってくれる,と思ったのでしょう。それが違うと分かって,あの子は拗ねてしまったのですよ」


 拗ねている,という表現はいささか事態を軽く見すぎているような気がした。アンにとって私の態度は裏切られたような思いがしたのではないか。


「母上,あの子はきっと傷ついています」

「ええ,そうでしょう。でも,本当のところは,むくれているだけの部分も多いと,わたしは思います。一緒にお茶をしても,ときどき不機嫌そうな顔をしています。ほとんど表情を変えないあの子が,ですよ。それがジーンの拗ねたときにとってもよく似ているの。やっぱり双子ね。きっと優しいお兄様が思い通りにならなくて,いじけているのだとわたしは思います」

「ほんとうですか」


 驚いた。あの子が普段から感情を表に出すなど滅多にないことだ。


「ええ。ルシアさんは真剣にアンのことを想ってくれています。それが分からないあの子でもないでしょう。だから,本当にあなたのことを嫌いになったわけではありませんよ。ですから,仲直りにしてあげて下さい」


 そう言って彼女は笑った。慈愛に満ちた翠色の瞳は容易に私の躊躇を見抜いた。


 そうだ。私はあの子に嫌われてしまったのではないかと思って怖気づいていたのだ。初めてアンの見せた反応が強烈で,私は動揺してしまった。こんなことで怯んでいないで,早々にアンを捕まえて話をすればよかったのだ。結局のところ,顔を突き合わせて言葉を交わしてみなければ,彼女を知ることなどできないのだから。彼女の周囲で起きる不可思議なことも彼女と話をしなければきっと分からない。アンジェリカは流石に人の母だ。これはかなわない。


 とにかく,アンと面会する機会を作らなければ。そこで,母上殿に頼んで,二人で話をする場を設けてもらうことにした。少し強引ではあるが,こうでもしないとアンと一対一で話せない。


 私は多忙なところを時間を割いてくださった母上殿に礼を言って,アンのことを丁寧に頼んだ。


 私は純粋な疑問としてアンの周囲で起こることが分からなかった。しかし,だからといって,彼女の責任を明らかにしよう,などという安易な発想に飛びつく気はない。それよりも,私は彼女の周囲で生じる不可思議な出来事の原因を究明したかった。明らかに,それはアンの意思とは無関係に物事を生じさせているようである。


 しかし,事の詳細が分からないから原因究明も何も無い。まずは,目撃者に事情を訊くのが先決だろう。そう思って,私はアンにまつわる事件を調べてみることにした。

 アンに関する出来事に最もよく遭遇するのは使用人たちである。そこで私は彼らから話を聞く事にした。


 使用人たちの仕事場かつ生活圏である階下は,貴族の子供にとっては遊び場でもある。坊ちゃんお嬢ちゃんがうろついていても,使用人たちは雇い主の子を無碍にせず可愛がってくれるものだからだ。ジーンなどは度々メイドに菓子をねだっているらしい。もちろん,あまり頻繁に足を踏み入れるのは行儀が悪いし,成人するにつれて階級意識が芽生えれば,そうした場に足を運ぶことも無くなる。現に我が兄上殿などは階下なんぞには一切降りない。一方の私は,体裁は九つの子供であるから,問題なく使用人のテリトリーを歩き回れる。そういう訳で,探索に支障はなかった。


 私は手の空いていそうなのを捕まえてアンのことを聞いてまわった。


「お嬢様がお皿を割ったときの話ですか?」

「ええ。あの棚の皿を取り落として割ったということですね」


 突拍子もなくアンのことを聞かれたためか若いメイドはやや怪訝そうな顔をして私を見つめた。彼女は,アンが皿を落として割ったという現場に居合わせた一人である。

 メイドは当時のことを思い出して呆れたような声で言った。


「お嬢様はやっていないと仰るけれど,その場に居たのはお嬢様一人でした。他に誰が皿を落とすというのでしょう」

「しかし,落ちた皿は食器棚の高いところにしまわれていました。あの子には手が届かないのでは?」

「梯子か台でも持ってきて棚を登ったのでしょう」


 彼女は,他の使用人たちと同様,アンが犯人だと決めてかかっているようだった。アンのことに関しては使用人たちの中で彼女に味方するものはほとんど居ない。唯一の味方であった庭師の老人は「お嬢さまはあ,どこかわしらと違ごうたところのある方ですからて。人が見てヘンなことも起こるんも不思議でねえ」などと言って要領を得なかった。


 そうこうしてアンに関する話を集めると,どれも不自然な点があるものが多かった。皿の話のように,アンには届くはずのない場所のものを落として壊したという話や,アンが興味を持つはずもない安物のペンや手ぬぐいなどの使用人の持ち物を盗んで隠したという話など。皆一様にアンがやったと決めつける。確かに状況だけ鑑みればどう考えてもアン以外に犯人はいない。


 しかし,使用人たちから集めた話は,故意にアンを陥れるために誰かが偽装したのではないかと思えるほど,疑問点が多かった。彼女をよく思わない人間の仕業だろうか? 家格の劣るブラッカー家の娘の子供だから,使用人に粗略に扱われるのか? そうであれば,ジーンだけメイドたちに優遇されるのはおかしい。我が弟は傍目から見ても屋敷の者たちから愛されているのがわかる。あの天真爛漫さが人を惹きつけるのだろう。


 では,アンは実は魔力を持っていて,うまくコントロール出来ないがために,意図しない出来事を生じさせてしまうのだろうか。それもありえないだろう。魔力を持っていれば誰もが気づく。それは人に隠せるものではないのだ。隠せるならば,我が姉ロゼッタは苦労しない。ならば,ファンタジー物でよくあるように,良くない物が取り憑いて悪さをしているのか。それも可能性は少ないだろう。姉上から聞いた話だが,そうした呪術的なものが作用しているのなら,魔力と呪術は近しい関係にあるから,魔力に対して感応の強い者にはすぐわかるという。ミリエル嬢が違和感を覚えないところを見ると,どうも憑き物ではなさそうだ。


 そうなると,一体なにがアンの周囲で起きているのだろう。気になるのは,アンが私の内心を見抜いて部屋に駆け込んだ後,部屋の扉がびくともしなかったことである。あの時,やはり,鍵はかかっていなかったはずだ。ドアが閉まると同時に間髪入れず私はドアノブをひねった。それにも関わらず開かなかったのだ。まるで,アンの意思を反映するかのように何かしらの力が働いたようにも思える。ジーンのときもそうだ。アンの怒りの感情に呼応するかのように,攻撃的な力がジーンに作用した。


 彼女が不可思議な力を持っている可能性は高い。しかし,その力は,時にはアンの意思とは無関係に周囲に作用することもあれば,時には彼女の感情に沿うような働きを見せることもある。全く道理が分からない。


 こればかりは本人に尋ねる他あるまい。彼女自身,己の力の正体を知っているか分からないが,何かしら気づいている所はあるだろう。それを話してくれるかは分からない。


 アンは慎重な子だ。今まで,自身の周囲で生じる出来事については,自分はやっていない,としか言わなかった。もっと言えることがあっただろう。小さい子供がよくやるように,空想上の存在のせいにしたってよかったのだ。動くはずのないぬいぐるみが勝手に人の物を盗ったのだと言ってもよかったのだ。彼女はそんなことを一言も口にしたことはなかった。彼女を取り巻く不可思議な現象の正体は軽はずみに言葉にしてはいけないものなのかも知れない。


 今まで言い訳らしい言い訳をしてこなかったアンである。七つの子供にしてはひどく重たく口を閉ざしている。彼女に真実を語ってもらうにはどうすればよいか。少なくとも,全霊を込めて彼女と向き合わなければならない。真剣に我が妹のことを案じなければならない。それが出来なければ,鋭い彼女のことだから,単なる興味本位の人間には何も語ってはくれないだろう。今度こそは違うのだ。私は信じると決めた。どれほど他人が彼女を悪し様に言おうと,私はアンの善性を信じると決めた。


 なぜなら,彼女の生まれた頃を思い出したからだ。


 アンが生まれて七年。私は二つの時からの付き合いだ。まだ物心つかなく曖昧な意識で彼女と接していたけれど,生まれたばかりの彼女はその愛らしい若草色の瞳を輝かせて一点の曇りだって持たなかった。透き通るような瞳は,まるで祝福を受けたかのように,美しく穢れなく私を見つめていた。その瞳の色を私は思い出したのだ。その美しい瞳の輝きはこの七年に一度だって曇ったことはない。それは兄であるこの私が誰よりも保証できる。


 ならばもう迷うことはない。彼女が本当のところを話してくれなくとも良い。私を信用できないというならばそれでも良い。そのときは,きっと私が間違っていたのだ。外面そとづらは確かに九つの子供だが,私自身は多少の苦労も味わったいい大人なのだ。ひどく後悔するような間違いだって何度もして来たのだ。そんな人間なのである。アンが拒絶するとしたら,きっと私のそういう部分だ。


 だから,もし,アンが受け入れてくれたならば。彼女がこんな私を許してくれるのならば。「ありがとう」と言おう。きっと心を込めて。

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