第5話 嘘つきのアン―1
ミリエル嬢には家庭教師として個室の寝所と専用の教室とが宛がわれている。食事なども自室に給仕されるというから,階下で共同生活をしている他の使用人とは一線を画す生活をしている。
彼女の授業は専用の教室で行われる。屋敷の二階にある日当たりのよい小部屋である。いたるところに教材が積まれているため,五人も入れば手狭に感じるこの部屋には,現在,私と腹違いの弟妹ジーンとアン,それと教師であるミリエル嬢の四人が中央の長机に着席している。今は帳簿などを付けるための計算を習っているところだ。ちなみに,兄上と姉上はすでに勉強部屋を卒業しており,より進んだ内容を習うために各教科ごとの教師がついている。
さて,日本での学生時代にうんざりするほどやらされた手計算をいくつもやって懐旧の念とともにうんざりしている私とは対照的に,我が寡黙な妹アンは黙々と手持ちの黒板に計算式を連ねている。顔には出ないが算数は結構好きなようである。一方,ジーンは私と同様うんざりした表情をしていた。そうして大して時間も経たない内に授業に飽きたようで,黒板にラクガキをし始めていた。いくらなんでも辛抱なさ過ぎる。それをミリエル嬢に見咎められると,今度は不貞腐れた顔をした。
「ジーン坊ちゃま,そのようなことでは立派な紳士にはなれませんよ」
「いいよ,なれなくって。ボクはずっとブラドスキーのお屋敷にいるもん」
我が弟は故郷から一歩も出るつもりがないらしい。なんということだ。
「何をおっしゃるんですか。坊ちゃまは三男でいらっしゃるから,お兄様方がご壮健であれば,いずれこのお屋敷をお出になる日が来ます。今はその準備をしなければならないというのに,そのようなことでどうなさるのですか」
「……はーい,先生」
「返事はしっかりと」
「はい,先生……」
まったく気のない返事である。たしかに,我が弟ながら将来が不安になる態度である。この点についてはミリエル先生に頑張って頂かなければならない。
「ルシア様,手が止まっておりますよ」
「終りました」
「むっ,ほんとうですね。……答えも合っております。では次はこの問題を解いてみて下さい。すこし難しいですよ」
そう言って私の黒板に新たに問題を書き加える。幾何の問題であった。私が四則演算に飽きるのを見越して用意したらしい。こういう点については頑張らなくてよいのだが。仕方なく,私は問題に時間をかける振りをして余った時間を過ごした。
「少しこの場を外しますが,皆さんちゃんと勉強なさっていて下さい。さぼってはいけませんよ」
ミリエル嬢は参考書を取りに書斎へ行くらしい。今は計算の時間が終わって外国語の時間である。この時間に関しては私は真面目に取り組んだ。外の国語を知ることは大事だ。将来においてプラスになることはあってもマイナスになることはないだろう。
そんな訳で比較的真剣にフェシリカ語の音読をしていた私であったが,我が弟は集中が途切れたらしい。妹アンにちょっかいを出し始めた。真面目に書き取りをしているアンの黒板に落書きをし始めたのだ。
「へへ,けむしー」
「やめて」
「やだよー」
アンはジーンの手を何度も払うが我が愚弟はしつこく妹の邪魔をする。
「ジーン。アンが困っているでしょう,止めなさい」
「もう一匹かいちゃおう」
私が注意しても,この悪戯ッ子は聞く耳もたずである。
「あっ」
そのとき,アンが小さく声をあげた。せっかく書いた文字をジーンに消されたらしい。そのとき,彼女の瞳に鋭い光が差した。
「やめてって言っているの!」
彼女にしては大きな声を出してジーンの腕を乱暴に払った。ばしん,とジーンの腕をたたく音がした。
すると,ジーンは突き飛ばされたかのように席から転げ落ちた。鈍い音がした。
「アンがなぐったー,アンがぁ」
我が弟はわんわん泣いている。これだけ泣く元気があるならば,ぶつけた頭は大丈夫だろう。
そこに,騒ぎを聞きつけたミリエル嬢とメイドが駆けつけて来た。
私がミリエル嬢に状況を説明すると,彼女はアンに向かって厳しい表情を向けた。
「邪魔をしたお坊ちゃまも確かに悪いです。でも暴力はもっといけません。ケガでもしたらどうするのですか!」
「殴ってない」
アンが消え入りそうな声で言う。表情は相変わらず無表情だが,どこか落ち込んだ様子である。
「アンの嘘つき! ボクを突き飛ばしたじゃないか!」
「お嬢様,坊ちゃまはこう言ってますよ」
「殴ってないもん……」
アンは顔を俯かせて黙ってしまった。
「まあまあ,ミリエル先生。ジーンは腕を払われて姿勢を崩したんですよ。不幸な事故です」
「しかし,ルシア様,坊ちゃまは殴られたと」
「違うよにいさま! ボクは殴られたんだ,ここを!」
そう言ってジーンは自身の上着をめくって肌を見せた。胸のあたりが何かをぶつけたように赤くなっていた。
「……たしかに」
これはどういうことだろう。私には,アンがジーンの腕を払っただけのように見えた。しかし,実際,突き飛ばした
「坊ちゃま,はしたないので服をお戻し下さい。アンお嬢様,神に誓って正直にお話しなさい。嘘をつくのは淑女としてあるまじきことですよ」
「……」
ミリエル嬢は怒っている。しかし,アンは無言のままである。
「お嬢様!」
ミリエル嬢が鋭い声を発する。アンの肩がびくりと震えた。それでも,彼女は押し黙ったままである。ミリエル嬢は厳しい表情で彼女を見つめたが,アンは一向に口を開かなかった。
「……先生,こうしていても仕方がないですよ。あなた,ジーンの胸を冷やしてあげ
て下さい。痣になったらいけませんから」
私はミリエル嬢と共に駆けつけたメイドにジーンのことを頼んだ。彼女は,かしこまりました,と言って彼を部屋から連れ出してくれた。部屋を出る際に往生際の悪い我が愚弟は「嘘つきアン!」と恨み言を残して行った。
「ルシア様,これは曖昧にしてはいけないことです」
ミリエル嬢は厳しい顔のまま言った。
彼女には彼女の使命がある。我々を紳士淑女に育てあげるという使命を全うしようと,アンを叱ろうとする彼女は正しい。しかし,いささか裁定が一方的すぎるような気がした。
「分かっています。ですが,アンばかりを責めるのも良くない。ジーンにも後で説教が必要でしょう」
「それは,そうですが……」
ミリエル嬢自身も頭に血が昇っていたのだろう,動揺して落ち着かない様子だった。自分が熱くなっていることに気が付いたのか,彼女は表情を曇らせて語気を弱めた。
「アンは私が連れて帰ります。ジーンの件,よろしくお願いします」
「え,ええ」
「それでは」
戸惑うミリエル嬢に挨拶して,私は押し黙る妹の手を引いて勉強部屋を後にした。
ジーンはアンのことを嘘つきと呼んだ。もちろん,我が弟については子供ゆえの幼稚な罵倒でしかない。しかし,アンをそのような不名誉な肩書で呼ぶのはジーンだけではなかった。
皿を割った,庭の花壇を荒らした,使用人の物を隠した,などはアンの起こした事件のほんの数例に過ぎない。彼女は周囲の大人たちに責められるたびに,アンじゃない,アンはやってない,と小さな声で否定する。状況から考えて彼女以外の犯人などありえないのにもかかわらず。彼女はいつも首を振る。そうしたアンの傾向は彼女が物心ついた頃からそうだったという。周囲の人間が彼女に虚言癖があることを疑ったのも無理はない。しかし,仮にも当主の娘である。当人に向かってあからさまに病気だとも言えず,揶揄して「嘘つきアン」と屋敷の者があだ名した。それを面白がってジーンが真似しているのだ。
しかし,私にはどうしてもアンが嘘をついているようには思えない。嘘をついて自分を取り繕うような子には見えなかったからだ。彼女の静かな若草色の瞳には物事に対する思慮深さがあった。それは虚言を弄する必要のない人間が持つ光である。
「にいさま……」
彼女の部屋の前まで来たとき,黙って手を引かれていたアンの手に力が込められた。つられて私は立ち止まった。彼女は再び,か細い声で,にいさま,と私を呼ぶ。私は振り返って彼女と目を合わせた。
「どうしました,アン」
「にいさまも……」
アンは何事かを言いたそうに口ごもった。相変わらずの無表情である。しかし,きっと,その動かぬ表情の下では,様々な感情がひしめき合っているだろう。不安げに泳ぐ彼女の視線がその内面を物語っている気がした。
「にいさまも,アンのこと,うそつきって言う?」
彼女の問いかけは,か細く震えていた。廊下の床をジッと見つめるその綺麗な翠色には,どこか怯えの色を含んでいるような気がした。
私は返事に困った。彼女の言葉を肯定するはずもない。しかし否定の言葉は空々しく聞こえるだろう。私は否定するだけの根拠を持ち合わせていないのだから。それゆえ結局曖昧に返事をするほかなかった。
「いいえ。……しかし,あなたにまつわる出来事も不可解なのです」
「アンは,うそ,言ってない」
「そう思います。しかしですねアン。私やジーンや先生,他の皆はあなたの心を覗けるわけじゃありません。あなたの言葉を信じたい。しかし,本当のことは,あなたが言葉にしてくれないと分からないのです」
アンは極端に口数の少ない子だから,自分の気持ちや意見を人に伝えるのが難しいのだろう。実際,彼女が,嬉しい,とか,悲しい,とかの気持ちを口にしたことは今までになかった。だから他人に,あの子は何を考えているのか分からない,と言われてしまう。不名誉なレッテルを貼られてしまう。しかも,アンはそれを覆せる言葉を持たない。その結果が”嘘つきアン”なのだ。
だからこそ,彼女には自分のことを話してほしかった。
しかし,私の言葉に,どうしたことだろう,彼女はいつも無表情であるはずのその
私は絶句して,息をつくのも忘れてしまうほど衝撃を受けた。
「にいさまも,信じて,くれないの……」
だから,突然駆けだした彼女を咄嗟に追うことが出来なかった。
「アン!」
しかし,時すでに遅く,私がようやく足を動かした頃には,アンは自室のドアをしめ切っていた。
ドアノブが動かない。鍵を掛けた音はしなかったはずなのに。
扉越しに彼女の嗚咽を押し殺す声を聞いてはっとした。私はとんでもない間違いをしたのだ。気に掛ける言葉を口にしておきながら,心のどこかで彼女のことを信じ切れていなかった。
ドア一枚を挟んでくぐもった嗚咽の声が聞こえた。私はその場に棒立ちとなって一歩も動くことが出来なかった。
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