第3話 ロゼッタとミリエル―2

 廊下の窓ガラスには雨粒がぶつかりしずくとなって垂れている。今日は天気が悪い。これでは屋敷の外に出るわけにもいかず,私は屋内で暇を潰すしかなかった。とはいえ,テレビがある訳でもなし,暇つぶしなどボードゲームか読書くらいしかない。しかし,カードで遊ぶには手頃な相手が居ないので,私は仕方なく書斎へ向かった。

 このルネス邸の図書室は大きく,数千冊の書物を蔵している。部屋の四方の壁には重厚な書棚がそびえ立っており,立派な背表紙の書物が隙間なく仕舞われている。なので読むには困らない。ただし,蔵書のジャンルは詩や語学,哲学,歴史といったお堅いものが多く,子供向けの本はあまりない。普通の九歳児ならば食指の動かない品揃えだが,幸いルシアの中身は無駄に年を食った人間である。書物の好みも雑食なので本が読めれば何でも良かった。私は棚から適当な歴史書を引っ張り出して,部屋の暖炉前に備え付けられてあるソファに向かった。

 フカフカのソファに飛び乗ろうと画策して暖炉前に来た私だったが,その目論見は先客の存在で潰えてしまった。ミリエル嬢である。手には分厚い書物を持っているが,目線は明らかに字を追っておらず,虚空を見つめて物憂げである。何やら考え事をしているらしい。私の存在に気が付いていないようだった。


「ミリエル先生」

「きゃっ!」


 遠慮なく声を掛けると,ミリエル嬢は期待通りの反応を示してくれた。驚いた表情を書物からこちらに向けると,ようやく私のことに気が付いたらしい。


「ル,ルシア様,驚かせないで下さい」

「何やらぼうっとしておられましたから。珍しいですね」


 私が笑いながらそう指摘すると,彼女はきまりの悪そうな表情をした。


「……お許しください。少し考え事をしておりましたものですから」

「考え事ですか。ずいぶんと落ち込んだ顔をしていましたね」

「お見苦しいところを……」

「見苦しくなんてないですよ。誰でも気の沈む時があります。私だって,ジーンが私のおやつを取ってしまうことやアンとの話題に悩んでいるのですから」


 私が軽口を言うと彼女は少し笑ってくれた。緊張が多少はほぐれたようだった。


「……お気遣いありがとうございます」


 微笑しながら言うが,その笑顔はどこか元気がない。


「元気がないですね。もしかして,この前の姉様とのことを気にしています?」


 もしかして,などと言ったが十中八九そのことだろう。現に,ミリエル嬢はまたしてもバツの悪そうな顔をした。


「私は若様やお嬢様方の家庭教師として,皆さまがしっかりとした紳士淑女へご成長なさるよう導く義務があるのです。それなのに,お嬢様に対してあのような態度を……」

「仕方ないことですよ,姉様は特別な方ですから,普通に接するのが難しいのはよくわかります」

「でも! ルシア様はお嬢様とお話になられるではないですか!」

「……実際のところ,私も恐ろしいのを抑え込んで姉様と接しています。ただ,そうすることが出来るのも,私が姉様自身を敬愛してるからです。だからこそ,強大な魔力に耐えられるのです」

「耐え,られる……のですか。あの恐ろしい重圧に」


 ミリエル嬢が信じられないと言った表情で呟いた。それはそうだろう。私と彼女とでは魔力への感応が違う。私がギリギリ耐えられる威圧感でも,彼女にとってはこの世のものとは思えないほどの恐怖なのだ。


「先生は魔力を感じる能力に大変優れていらっしゃるから,余計に当てられてしまうのですよ。もちろん,気の持ちようも大事ですが,私とは違った対処の仕方をするしかなさそうですね」

「でも,そんな方法は……」

「ええ,簡単なことではありませんね」


 実際どんな方法が有効なのか,あまり検討がつかない。姉上にコントロールの技を身に着けて貰うか? それはすでに本人が訓練しているが,あまり成果を上げていない。魔力操作の技術でどうにかなる問題ではないのだ。あるいは魔力を抑える封印具を使うか? しかし,封印を定着させる過程は過酷だと何処かで聞いた。それは非常な痛みを伴うという。

 結局のところ,姉上次第となってしまうだろう。ミリエル嬢がどうこう出来る問題ではない。対魔力の装備といったものもあるらしいが,それは魔法の術の威力を削るためのもので,膨大な魔力に対する恐怖心を消し去ってくれるものではない。彼女の感応力を抑えるというのはもっと無理だろう。そもそも需要がないので,方法が知られていない。

 そうなると,


「面と向かって話をするのは無理ですねえ」

「そんな……」


 ミリエル嬢はあからさまに落胆した。結構顔に出る人だ。しかし,落ち込んだ彼女をそのままにしておくのは,なんだか居たたまれない。そこで一つ妥協案を出すことにした。


「だから文通にしましょう」

ふみですか」


 私の提案にミリエル嬢は虚を突かれたような顔をしている。それほど意外だろうか。


「ええ,お互いを知るために個人的なことをしたためてもよいですし,先生が課題を出して姉様が返答するのでもよいでしょう」


 つまり赤ペン先生形式である。根本的なことの解消にはなっておらず対症療法でしかないが,少なくともコミュニケーションはとれるだろう。

 ミリエル嬢は興味を持ったようだ。私の話に何度も頷いて感心している。大方,家庭教師の仕事は生徒と顔を合わせて行わなければならないとでも思っていたのだろう。


「なるほど,手紙とはとても良いお考えです」

「どうです,書いてみますか」

「ええ!」

「では,手紙は私に預けてください,姉様にお渡ししますよ」


 こうしてミリエル嬢と姉上との手紙のやり取りが始まることとなった。


「お手紙?」


 姉上は少し驚いた顔をした。弟の唐突な提案に面食らったらしい。

 私は早速,ミリエル嬢と姉上との橋渡しをするべく姉上の元を訪れた。彼女は自室で本の山に囲まれて読書しているところだった。


「ええ。先生と話すのが難しいなら文章でやり取りするのが良いかと思いまして」

「でも……」


 彼女は躊躇している様子だった。淑女ながら手紙を書くことのあまり経験がない我が姉上ロゼッタのことだから,ためらうのも無理はない。ただ,ここは勇気を出して貰わねばならない。


「先生に謝罪をお伝えしたいのでしょう?」

「それは,そうだけど」

「対面での会話は,残念ながら,現状困難だと思わなければなりません。しかし,手紙であれば心配も不要です」

「……そう簡単にいくかしら」


 姉上はまだ踏ん切りが付かない様子だった。どうやらまだ懸念があるらしい。


「なにか不安でも?」

「私が書いたお手紙なんて読んで下さるかしら。この間はひどいことをしてしまったから先生も迷惑に思うんじゃ……」


 何かと思えばとても可愛らしい理由だった。我が姉上のことだからもっと深刻な悩みかと思えば,なんとも年相応な初心うぶな理由だった。まるで喧嘩してしまった相手に,ごめんなさいと手紙を書こうとする少女のような物言いだった。私は肩の力が抜けるとともに,嬉しくも思った。我が姉ロゼッタにはこうした感情をたくさん経験して欲しいと思った。


「大丈夫ですよ。姉様と一番話したがっていたのは先生なのですから」

「そう,かしら」

「ええ。先生もきっと姉様の手紙を喜んでくださいます」

「そう。そうなら,嬉しい」


 彼女はそう言って微笑した。多少は乗り気になってくれただろうか。


「書いてくださいますか」

「ええ。もともと謝らないといけないと思っていたから,書きます。でも,その後は何を書けば良いのかしら」

「姉様の好きなことを」

「私の? 良いのかしら。先生のご興味とは全然違うでしょうから……」

「よいのです。先生は姉様のことを知りたがっているのですから」

「ルシアはそう言うけど」


 人付き合いの苦手な我が姉上は不安げだった。助言を求めるように私の表情を伺ってくる。姉上にとっては初めての試みなのだから不安なのだろう。しかしながら,私だって手紙を書く相手は多くない。書いても年の近い親戚や付き合いのある家の子息くらいである。だが一方で,私には前世の経験がある。だからこそ悩める少女に助言できることも,無くはないのだ。


「この前,姉様と中庭でご一緒しましたね」

「え,ええ」


 急に話題を変えたためか,姉上は少しまごついた。


「私がなぜお誘いしたのか分かりますか」

「……落ち込んでる私を気遣ってくれたのよね」

「それもあります。ですが,庭園であれこれと植物についてお聞きしたのは,気遣いのためばかりでもないのです。では,そのときの私の気持ちを当ててみて下さい」

「いじわる。私に分かるわけない」

「ふふふ,簡単ですよ。ただ,姉様のことを知りたい,それだけです。私は植物のことに,それほど興味がある訳ではありません。それでも,姉様から聞く草花の話はとても面白かったのです。姉様が話してくださる植物の話を通じて,姉様がどんなお人か伝わってきたからですよ。だから,手紙には,お好きなことを書けばよろしい。貴女のことを知りたがっている相手にとって,貴女がご興味ある事の話は,どんな些細なことでも,心惹かれるものです。だからご安心ください」

「……そう。そういうものなのね」


 そう言って彼女ははにかみながら頷いた。少し照れたようなのは,私の言葉がいかにも直接的であったからか。これだけ親愛を込めれば,いくら姉上とはいえ誤解しないだろう。言った本人も照れくさい。だが,これで,この間の庭園で伝え切れなかったことが伝えられただろうか。


「わかりました。先生に手紙を書きます。ルシアには迷惑をかけるけど」

「迷惑などと。任せてください」

「ふふ,よろしくね」

「ええ,もちろんです」


 姉上は笑った。

 こうしている間は魔力への恐怖も,忘れていられるような気がした。

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