第2話 ロゼッタとミリエル―1
我が愛すべき兄上が現母上殿に対して冷淡な態度を取っているのには訳がある。
そもそも現母アンジェリカと父上の結婚は,父上の強い希望で成立したものだった。端的に言えば一目ぼれだったそうである。彼女の美貌に惚れ込んだ父上が是非にと彼女の実家に迫ったのだという。
侯爵家当主の熱望により実現した婚約だったが,これにはかなりの反対があったそうだ。というのも,アンジェリカは伯爵家の娘であり,侯爵家からすれば格下の家であることと,アンジェリカの実家であるブラッカー家は家格から言っても我がブラドスキー家と比して格下であったためである。
ブラッカー家はここ百年において海運で財を成し興った新しい一族で,社交界では成金の新参者である。一方のブラドスキー家は建国当初から存在する大貴族で,王家との間にも古い恩義のある歴史ある一族だ。広大なブラドスキーの土地と壮麗な大邸宅ルネス邸とを背景に社交界でも相当な存在感を示している。今世において我が家を粗略に扱えるものなど例え王家を含めても存在しない。
その両家の婚約である。当然,父上は親戚のみならず我が家の属する派閥の家々からも猛反対を受けた。それでも,彼は反対を強引に押し切ってまで婚儀を進めたそうだ。それだけ彼女を愛して止まないのだろう。
そうなると,不幸なのは当人である現母上殿だ。当然,歴史ある侯爵家の人間として相応しい振る舞いを強要されるだろうし,その言動には常に侯爵家の人間やその派閥の者たちから厳しい視線が投げかけられる。そのような窮屈を彼女に強要する者たちの一人が,我が兄マリウスということだ。
兄上がこのような偏屈に育ってしまった最大の原因は,彼の元教育係である大叔母にある。侯爵家の家系図を複雑に辿らないと行きつかない非常に面倒な関係にあるため,便宜上,大叔母様と呼ばれるこのばあさまは,祖父父上兄上の侯爵家三代の家庭教師を務めた「侯爵家の象徴」である。当主といえども強くはモノ申せない,一族でも一目置かれた存在である。その御年については諸説あるものの,少なくとも百を超えるともっぱらの噂だ。
この妖怪じみたばあさまは権威主義の権化のような存在で「侯爵家たれ」がモットーである。現母上殿を侯爵家に相応しくないと言ってはばからず,婚約に最も反対したのは,誰あろう,このばばあである。兄上に要らぬ考えを吹き込んだのも,このばばあである。今は体調を崩したため家庭教師の役を辞して療養中である。
そんな訳で,当家に家庭教師はしばらく不在だった。それが,つい一月ほど前に大叔母様の代わりとしてやって来たのが,ミリエル・キャンベルである。彼女は上流階級の人間ではなく中流階級の医者の娘だ。
ミリエル嬢は,王国の有名な高等学校を飛び級して次席卒業を為したほどの才女である。真面目でその学識を一生懸命に我々に教えようとしてくれる。
ミリエル嬢は去年高等学校を卒業したばかりで今年十八になる。母上殿とは歳の近いこともあって仲がよい。その母上殿の子供であるジーンやアンたちとも,まだ一月ほどの関係であるものの,大分打ち解けて来たようである。
問題は我ら継子らである。
私はまだよい。良識と学識ある若い令嬢を私が邪険にする理由はない。むしろ積極的に親しくしたいものであるが,彼女の方は私が苦手であるらしい。まあ,そこらの
困り者は兄マリウスと姉ロゼッタである。あの敬愛すべき兄上は,侯爵家の家庭教師として大叔母様以外の人間は認めないようだ。母上殿に対するように,ミリエル嬢にもそっけない態度を取っている。ばあさまが死んだらどうするつもりなのだろうか,あの兄上は。
ただこちらは可愛いもので,思春期特有の反抗的な態度だと思えば,どうということはないだろう。そこはミリエル嬢もわきまえていて,必要以上に彼に干渉しない。適度に距離を取っている。
問題なのは我が姉ロゼッタの方である。彼女は他人を拒絶するから接しづらいというのもあるだろうが,問題の本質はもっと根深いものである。それが原因した小事件が,今,まさしく,私の目の前で繰り広げられていた。
「お嬢様,お待ちになってください!」
私がテラスのベンチで読書をしていた時である。珍しくミリエル嬢が大声を出しているのが聞こえた。直前に,二人の驚いた声と盛大に物を落とした音が聞こえたから,おそらく運悪くぶつかり合ったのだろう。その相手は,これまた珍しく昼間に姿を現した姉上であるらしい。
事態が事態だけに,私は急いで廊下に向かった。
「お嬢様……,その,先ほどは……」
急ぎ二人の元に駆けつけると,狼狽するミリエル嬢の姿があった。顔面が異様なほど蒼白である。
しかし,そうなるのも無理もないことだ。この息苦しいまでの威圧感の中では。特に,魔力への感応が人一倍敏感な彼女であれば,なおさらであろう。
美しいブロンド髪を持つ者の多いブラドスキーの一族にあって,我が姉ロゼッタは生まれつき
一族の者たちは一人毛色の違う子供が生まれたことに驚いたらしいが,同時に歓喜したともいう。なぜなら,黒い髪を持って生まれたことは,この世界では特別な意味を持つからだ。それは,常人に比して格段の魔力を秘めているということ。そして,その黒髪が一族の子供として生まれたことは,従来ブラドスキーの人間が要職の席に座ることの叶わなかった王国魔術師の席次を,我が一族が手中同然としたことを意味するからである。
大きな魔力を持つ者に対面すれば,誰であろうと”魔力の圧”のようなものを感じて多少の緊張を強いられる。それが魔力持ちの敬遠される理由でもあった。ただ,その威圧感も,相手と接する数秒の内に薄らいでしまうのが普通であるらしい。しかし,我が親愛なる姉ロゼッタは,あまりにも大きな魔力を持って生まれてしまった。その魔力量は当代随一とさえ評されるほど膨大なものである。
それをどうやって測ったのか? 簡単だ。彼女と相対してみればよい。今,重圧とまで言って良い程に,私の両肩を押さえつける力。これが我が姉ロゼッタの魔力であった。
ましてや,常人より感応に優れるミリエル嬢にとっては,姉上の魔力はもはや恐怖であろう。ミリエル嬢はその場にへたりこんでしまった。腰が抜けたようである。
そんな彼女を姉上は一瞥すると,
その一族の中での立ち位置と人と接することを厭う態度とから非常に誤解を受けやすいが,彼女は心優しい方なのだ。手も差し伸べず声も掛けずこの場を立ち去るのは,原因である自分を遠ざけない限り,ミリエル嬢の苦痛はいつまでも続くことを理解しているためだ。
立ち去ろうとする彼女の表情にあるのは悲観と諦めだろうか。少なくとも十二の少女がして良い表情ではない。
私はミリエル嬢の肩を叩いて,彼女の顔を覗き込んだ。怯えに震える彼女の瞳と視線を合わせ「大丈夫」と安心させるつもりで一つ頷いた。彼女は頷き返してくれた。私は,ひとまず彼女をその場に残して,姉上の後を追った。
「
姉上は立ち止まってこちらを振り向いた。この人も妹と同様に表情の少ない人であったが,妹よりかは豊かな感情表現をする。今,その美しい碧眼は悲しみの色に染まっていた。
彼女から発せられる威圧感は,目前まで来ると確かに恐怖を感じるほどだ。だが,私は恐怖心を抑え込んだ。どうして我が敬愛する姉上に,彼女を恐れるような素振りを見せられようか。今まで彼女は散々恐怖された。先ほどのように,屋敷でばったりと使用人と出くわすと,彼らは一様にミリエル嬢と同じような反応を示した。使用人ばかりではない。ブラドスキーの一族の者でさえも,彼女を恐れ,彼女を化け物と呼んで
「どうしたの,ルシア。私に近づいてはダメと,前にも言ったのに」
「……中庭でご一緒しませんか。とても天気の良い日ですから」
姉上は突拍子もない提案にきょとんとした。姉上の忠告を聞く気はない。だいだい私は,たとえ父上から姉上に近づくなと言いつけられても,それを無視するだろう。
しばらく問答をしているうちに姉上の方が観念して,庭の散策を共にすることになった。
我が屋敷の庭園は見事な造園の技で整えられている。種々の花々が彩る花壇と生垣の回廊を歩くとき,まるで名美術館の画廊を渡るような気分がする。私は新しい植物を見つけるたび,あれは何ですか,これは何ですか,と無邪気に姉上に尋ねた。姉上は草花に詳しかった。一日の大半を自室で読書に費やす彼女は,色々なものを知っている。
私があれこれと無邪気に尋ねたのが功を奏したのか,姉上の緊張が和らいだようだ。彼女は元来人付き合いを苦手としている。それでも今は,先ほどまで強張っていた表情に小さな微笑が浮かんで,訊きたがりの弟に優しい眼差しを向けながら,丁寧にその返事をしてくれている。そこに余所余所しさは感じられない。
少々歩き疲れたので,庭の一画にある東屋で休憩することにした。正方形の小さく簡素な建物である。四本の無装飾の白柱とそれらが支えるこじんまりとした三角錐の屋根があるのみで,他に内外を遮るものはない。いわゆるガゼボと呼ばれるパビリオンだ。庭園のやや小高い場所にあるので,備え付けのベンチに座って外を眺めれば,中庭を一望できた。
初夏の風が新緑の合間を抜けて来て,我々兄妹の
姉上の庭園を見つめる眼差しは穏やかである。私にはそれが何よりもうれしかった。多少強引にでも外に引っ張り出してきた甲斐があったというものだ。
ところが,しばらくすると,彼女の表情が陰った。それまで穏やかに中庭を眺めていた瞳は,いつの間にか憂いを帯びていた。どこか落ち着かない様子で,私に何か言いたいことがあるように見えた。私は彼女の言葉を待った。
「ミリエル先生には悪いことをしてしまったわ」
姉上がぽつりとつぶやいた。
「ああする他なかったのですよ。先生には後で私から謝罪を伝えときます」
彼女はかぶりを振った。仕方ないでは片付けられないようだ。
「私がもっと上手に魔力を抑えられたらよかったの。それが出来ないから,みんなに嫌われているのよ」
彼女は微笑しながらそう言った。まただ。また,こうやってこの人は諦めをにじませて悲しむ。私は姉上のこうした表情を見るのが嫌いだった。
「私は姉上を敬愛しています。嫌われているなどと仰らないで下さい」
「……ルシア」
「私は姉上ともっと仲良くしたいのです」
「気を使わなくていいのよ。あなただって恐ろしいはずなのだから――」
「怖くありません」
私は言葉を遮った。これは確かに強がりかも知れない。今だって彼女から感じる威圧は恐ろしい。だが,それは,本質的なことではなく,表面上の問題だ。恐怖の対象は彼女の魔力であって,彼女自身ではない。だから,怖くないと言ったのは半分は嘘で半分は本当だ。
「ルシア……ありがとう。あなたはいい子ね」
姉上は曖昧に笑みを浮かべた。
どれだけのことが伝わっただろうか。きっと姉上は私の強がりに気付いている。気付かないはずがない,
夏の日差しは中庭の輪郭を一層明瞭にしている。
ガゼボの日陰の下で,血のつながった私たち二人は,お互いの距離を測りかねていた。
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