黒虎
姿を目にした瞬間、たちまち既視感を覚えた。数ヶ月前に味わった屈辱。打つべき怨敵が目の前にいた。
「黒虎」
石竜子は体の芯から沸々と怒りが湧き上がってくるのを感じていた。
「ん? なんだ? お前達は?」
黒虎が不思議そうな目を石竜子達に向けた。自分の行いに一切の恥を抱いていないような口ぶりである。
「お前のせいで、僕の親友が死んだ! 故郷のみんなもたくさん死んだ! それだけじゃない! 無差別に生き物を殺し、住処を壊して何がしたいんだ! お前によって殺された者達はお前に何かしたのか!」
石竜子は腹の底でマグマのように熱く煮えたぎる怒りを解き放った。すると黒虎が呆れたような態度で、深くため息をついた。
「いや。何もされていないさ。ただ気に入らないと思った奴を手当たり次第、殺したい。それだけだ。弱者が強者に踏みつけにされるのは自然の摂理だ。悪いのは俺に対して何も出来なかった無力な奴らだ。そして、俺は虎だ。食物連鎖の頂点で、俺はその中でも多くの同族を屠って来た。つまり俺に勝てる生物はいない。この世で最も力のある生物は神と同等の存在なんだよ」
鉈を握る力が強くなり、体が震える。あまりの傲岸不遜な態度に呆れを通り越して、言葉も出てこなかった。
この時、石竜子の頭によぎったのはたった一つのシンプルな思想だけだ。
私腹を肥やすために生き恥を晒し続ける極悪非道な獣を断罪する。この一つの思考に心血を注ぐことのみだ。
「そうか。良かった。これで何の遠慮なくお前を傷つけられる」
黒虎にも悲惨な生い立ちがあり、それで今のような凶行に走った。
それでも決してこれまでの行いが許されるわけではないが、情状酌量の余地は与えようとした。
しかし、この怪物にはそんなものはない。自分以外は低劣な存在と見下している。
良心の呵責など端から存在しないのだ。周囲から仲間達の唸り声が共鳴し合う。
石竜子は鉈をゆっくりと構えた。鉈には鳥兜の毒が染み込んでいる。これを叩き付けて、この世界で最も穢れた獣の駆除を行うのだ。
「行くぞー!」
石竜子は叫び声とともに駆け出した。それと合図に仲間達が一斉に大地を揺らさんばかりの勢いで黒虎の方に走って行く。
これで一網打尽にして終わりにする。
しかし、現実は非情だった。
「ぎゃあああ!」
「ぐあああああ!」
あちらこちらから血飛沫が上がり、断末魔がそこら中から聞こえてくる。黒虎が韋駄天の様な早さで仲間達を蹴散らしているのだ。
あまりの速度に走った後に稲妻形の光芒が引いていた。
石竜子の読みが甘かったのだ。勇敢に立ち向かう戦友達が黒虎の鋭利な牙と爪の餌食になっていく。
「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ! 虐殺! 殺戮! 弱肉強食万歳! あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!」
辺りは惨殺された仲間達の死体と血の海が広がり、この世とは思えない凄惨な光景だった。目の前に広がる地獄絵図に彼は壊滅した故郷を思い出した。
石竜子は黒虎の圧倒的な実力に恐怖を抱いた。しかし、故郷での出来事を脳裏で駆け巡らせると目の前の恐怖をかき消した。
あの時、金蛇を救えなかった悔しさに比べれば、こんなもの屁でもない。
この日の為に自分は強くなったのだ。挫けるな、折れるな。石竜子は自身に何度も訴えかける。
「雑魚がどれほど、集まろうと所詮はこの程度よ。弱い者ほど、群れたがる。なんとも惨めだな」
黒虎は血みどろの牙を見せながら、高らかに笑った。怒りのあまり、石竜子の体が芯から燃え上がるように熱くなる。
「あひゃひゃひゃひゃ! 笑いが止まらん! 止まらんぞ! 勝てもしないくせに自ら首を差し出すとは愚かすぎて笑える! 滑稽だ! 実に滑稽だ! あひゃひゃひゃひゃ!」
黒虎が戦死した仲間の亡骸を何度も踏みつけながら、下卑た笑い声を上げた。
耳障りな声が聞こえるたびに自身の顳顬に青筋が立っていくのが手に取るようにわかった。
「大口を叩いていたわりには大したことないな!」
怨敵の足の裏で原型をなくして、地面と一体になった仲間の事を思うと胸が張り裂けそうになる。
「その足をどけろ」
「えっ? どの足?」
黒虎が馬鹿にしたように口ぶりで、先ほどよりも強い力で何度も踏みつけ始めた。石竜子は怒りで気が狂いそうになった。
「冷静になるのだ! 焦りは必ずミスに直結する!」
兜虫の声が突然、脳内に響いた。目先の感情に惑わされて思わず、忘れてしまうところだった。安い挑発に乗ってはいけない。
冷たい空気を鼻から吸い込んで、怒りが熱を持っている頭を冷やしていく。
冷却した脳をゆっくりと動かして、思考を巡らせる。
「八つ裂きにしてくれる!」
黒虎が土を蹴り上げて、風を切るような速さで接近してくる。
黒虎の攻撃は凄まじい速さである。しかし、兜虫との厳しい修行の成果もあり、攻撃をなんとか躱していく事ができた。
そして、修行で学んだ相手の攻撃を予測して動くというのも実践する事で回避率が格段に上がって行くのだ。
「くそがああ!」
黒虎が唸り声を上げながら、石竜子に飛びかかる。急加速した黒虎の動きに驚愕した石竜子は反応が遅れてしまった。
「ぐっ!」
運悪く黒虎の爪が石竜子の左目を掠め、半端に生えた尾も切断してしまった。左目の視界は一気に黒く染まった。
尾がプツリと引き千切れた瞬間、突然、背中に鉛が降って来たように体が重くなる。そして、左目が焼けるような痛みを感じた。
「うっ!」
違和感が心の淵から登ってきたが、瞬時に冷静さを取り戻して、黒虎の方に目を向けた。
彼の前まで黒虎の鋭利な爪が迫っていた。
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