ジレンマ
石竜子は木陰の下で昼食をとっていた。昼食は虫や野イチゴ、川で捕らえた小魚である。
どこに向かうか思考を巡らせていると、近くで草木が激しく揺れる音が聞こえた。
もしかしたら獣かもしれない。石竜子の脳裏に緊張感が伝わる。
「行こう」
石竜子の提案に、二匹が頷いた。音を立てないように忍び足で接近していく。
音の大きさから自分達の近くにいることは明白である。
鴉の雛だった。鴉の雛が右の翼から血を流していたのだ。傷が痛むのか、苦悶に満ちた表情を浮かべて、石竜子は心を痛めた。
「大変だ。鴉の雛が怪我をしている!」
「待って! 近づいたら食べられるかもしれないよ!」
「でもほっておけない。あんな様子じゃ襲う気力もないはずだ」
石竜子は手助けに否定的な亀の言葉に背を向けて、雛の元に向かっていく。
「君、大丈夫かい!」
「うー、翼が痛い」
雛は苦悶に満ちたような表情を浮かべながら、傷口に目を向けていた。
「んー、ほら乗って」
石竜子の優しさに折れたのか亀が甲羅の上に雛を乗せて、水辺まで運んでいく。
石竜子が雛の患部に水をかける。傷口にしみたのか。雛の体がビクンと跳ねた。
「ごめんね。我慢しておくれ」
「どうして怪我をしたの?」
「お父さんの真似をして、飛ぼうとしたら転んだの」
「お父さん?」
「うん、お父さんは凄いんだよ。ものすごく高く飛べるの。いつも気持ちよさそうに空を飛ぶから私、それが羨ましかったの」
雛の純粋な眼差しに石竜子は胸を揺さぶられた。なんてひたむきなのだろう。
子供は成熟した大人とは違い、出来ることが限られている。それゆえに苦しみ、葛藤する。
かつて、石竜子も同種の大人が自分と同じくらいの虫を捕らえたときは衝撃が走った。
いつかそれが出来ると分かっていても、心の中で燃え盛る情熱の炎を消えてしまうのを恐れるのだ。
「石竜子さんにはお父さんはいないの?」
「僕にはいないよ。ずっと一匹で生きてきたからね」
石竜子には親はいない。卵から孵ったその日から虫などと捕らえて、一匹で生きてきたのだ。それを寂しいと思ったこともなかった。
しかし、親友である金蛇と出会い、知った。他者と関わる楽しさと失った時の喪失感。
すると、上空から甲高い鳥の鳴き声が聞こえた。空を見上げると一羽の
鴉が夜の帳のような漆黒の翼とはためかせて、ゆっくりと地上に降りてきた。
石竜子の体に緊張感が走り抜ける。
「あっ、お父さん!」
鴉の雛が嬉しそうな声音を上げた。目の前に雛の倍以上はある巨大な鳥が着陸した。
「あんたらか。俺の娘を助けてくれたんは?」
「はい。右の翼から血が出ていたので、軽い応急処置をしました」
すると鴉がゆっくりと石竜子達に頭を下げた。予想していなかった出来事に石竜子は目を丸くした。
「ありがとう! ほんまにありがとう!」
「いえいえ、とんでもない! なんで亀さんは頭引っ込めているの?」
「喰われるかと思った」
亀は捕食されるかと思っていたのか。石竜子の横で甲羅の中に首を引っ込めていた。
「ハハハ! 恩を抱いている相手にそないなことせえへんわ。それより」
鴉が雛の方に目を向けた。怒りや不安が混じったような目を自身の娘に向けていた。
「なんで、こんな真似をしたんや。石竜子さんにもお世話になって」
「そんなに怒らないであげてください」
「そうですよ。別に大した事していないですし、お子さんも軽傷でよかったじゃ無いですか」
石竜子は雛の父親をなだめていると、雛が小さな体がカタカタと震わせ始めた。
「だってお父さんみたいに飛びたかったんだもん! 早く空を飛びたいの!」
「焦らんでええんや。時期飛べるようになる。今は言うたらその準備期間なんや。父さんにもおんなじ時があったから気持ちは分かる」
鴉は雛を優しく抱きしめた。石竜子はその姿に羨望の眼差しを向けた。もしかしたら自身に親がいたらああして抱きしめてもらえたのかもしれない。そう考えるとどこか虚しさを覚えた。
「達者でなー!」
「バイバーイ!」
鴉の親子は石竜子達に別れの挨拶を告げると、夕焼けの空に消えていった。
「良かったね」
「うん」
旅は一期一会というのをどこかで聞いたことがあった。
最近は殺伐とした事が多かったため、石竜子にとっては心が温まる体験だった。
暗闇の中、石竜子は目を覚ました。風邪の音や物音一つしない暗黒の空間。
「おい、〜〜く、めー、んだくそ、ろーだ」
遠くの方から途切れ、途切れで声が聞こえてくる。何を言っているかは全く理解できないが必死に訴えているのは理解できた。
「お前は〜〜。ていた。愛しているぞ!」
そして、それを皮切りに声は一切、聞こえなくなった。
うっすらと目を開くと青みがかった空が広がっていた。横を見ると亀と蛙が寝息を立てている。
石竜子はしっかりと最後の言葉は耳にした。愛していると。あの声の主が両親なのか、はたまた自分に向けられていたかは定かではない。
しかし、石竜子にはその声がとても懐かしく暖かく聞こえた。東の空には地上を照らす朝日が昇っていた。
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