大海に夢を馳せて
「きゃああああ」
静けさが漂う朝の森にけたたましい悲鳴が響き渡る。声は蛙がいた方角から聞こえた。
唐突の出来事に石竜子と亀は頭を叩かれたような衝撃で飛び起きた。急いで
現場まで駆けつけると、石竜子は言葉を詰まらせた。
石垣が見るも無残に倒壊していたのだ。周囲には瓦解した事で崩れた石ころが転がっている。そして、その当事者と思われる存在が蛙の前にいた。
土色の鱗に覆われた細長い胴と鋭い瞳。
「彼女は僕の大事な友だ! 見逃してはくれないか!」
石竜子が必死の思いで蝮に語りかける。
すると蝮の動きが止まり、静かに石竜子達の方を向いた。縦に伸びた瞳孔と目が合い、石竜子の背に寒気が走った。
先端が二つに分かれた細い舌。時折、見える下に向かって伸びる細く透明な牙。あの牙には猛毒があるため噛まれれば一溜まりもない。
「こいつの仲間か? 俺はなずっとこの時を待っていたんだよ。安心という名の愉悦に浸っている時を壊してやりたいのさ。楽園からの追放さ。こいつが俺に怯えていたのはなんとなく分かっていた。だからしばらくあいつのことを観察していたんだよ。そしたら小石で囲いなんか作り始めたから思わず笑いそうになったぜ」
蝮が狡猾な笑みを浮かべた。その表情と性根の悪さに嫌悪感と胸糞悪さを覚えた石竜子は鉈を取り出して、構えた。
石竜子は鉈を取り出して、蝮に打撃を加えて彼女から注目を外す為にとある手段に出た。
「おりゃー!」
石竜子は蝮に向かって精一杯の力で鉈を振り下ろした。痛みにより石竜子の方に意識を寄せようとしたのだ。しかし、引き締まった筋肉質の体と鱗のせいで少ししか傷を付けることが出来なかった。
尾に伝わる痛みに気づいたのか、蝮が静かにこちらに首を向けた。
「ん? なんだハエでも止まったか?」
全く効いていなかった。蛇の体は細身だが、鱗の下は引き締まった筋肉の集合体。彼の腕力ではまるで歯が立たない。
蝮が口を大きく開けた瞬間、目にも止まらぬ速さで襲い掛かって来た。石竜子は後ろに下がって間一髪で躱すことが出来たあと少し、遅れていれば確実に餌食になっていた。
あの牙には猛毒が含まれているため、石竜子のような小動物が噛まれていたら一溜まりもない。
石竜子の筋力と鉈の威力では他の生物の胴体にあまりダメージがなかった。出来るとすれば体の大きさに限らず生物が弱点とする箇所。
鼻や目を狙うのが得策ではあるが、蝮の素早い動きのせいで狙いが定まらない。
「どうする!」
「このままだと彼女が!」
手に持っていた鉈で対処しようと考えたが、相手は自身よりも遥かに大きな蝮。とても叶うとは思えない。
石竜子は脳に電流を走らせて、思考を巡らせる。すると一つの案が頭に浮かんだ。
「亀さん。耳を貸して」
石竜子は耳打ちすると、亀は僅かに驚いたような様子だった。
「どう? 大丈夫? ダメなら他の案でーー」
「いや、それでいこう」
亀が覚悟を決めたように固く了承した。石竜子は作戦決行のため、亀をどこかへと行かせて、蝮の注意を引くことに決めた。
「おーい。こっちだ!」
石竜子は大声を出して、蝮の注目を自身に向けようとする。しかし、蝮は一瞥した後、鼻で笑い、再び蛙の方を向いた。
「そうか! 僕みたいな小さい存在もろくに捕まえなれないからいつでも食べられるような存在に目を向けちゃうんだねー。ようは自信がないわけだ。なんだ蝮って案外、大したことないんだな! さっきの攻撃もウスノロだったしな」
石竜子は大声を出して、挑発行為を繰り返していると蝮はするすると這いずるように迫って来た。
その目は殺意がこもっているようにも見えた。しかし、好都合だ。感情で動いている場合は視野が狭くなり周囲への注意が散漫になる。つまり石竜子の考案した作戦の成功率が上がるのだ。
石竜子はすかさず、踵を返して全速力で駆け出した。作戦を提案したとはいえ、自身が食われてしまえば意味がない。
蝮が長い舌を出し入れして、迫ってくる。蛇行の速度もなかなかのもので、捕食への意志の強さが窺えた。
石竜子は目的地に着いた。そこは石垣だった。石竜子の身の丈よりも高く、登るには一苦労しそうである。
振り返ると、蝮が猛毒の牙を見せながら、迫って来ていた。
「いまだ!」
石竜子の叫び声とともに蝮の頭上に亀が丸まった状態で落下して来た。亀の甲羅がまるで隕石のように急降下して蝮の後頭部に衝突した。
「グヘッ!」
「どうだ!」
石竜子はおそるおそる、蝮の方に近くと白目をむいてグッタリと倒れていた。どうやら気絶しているようだ。
「申し訳ない。ここで少しの間、眠ってもらう」
「さあ、あの子の元に言って報告しにいこう」
石竜子は蝮に謝罪の言葉を告げると、亀とともに蛙の元に向かった。
崩れた石垣を駆け上がると壁内で蛙が後ろを向いていた。背中からは哀愁が漂っており言いようのない空気が流れていた。
「貴方の言う通りだったわ。結局、現状にかまけて自分が出来た気になっていた。自分を守るための石の壁がまさか、私の行く手を遮る壁になったなんてね。情けない話ね」
蛙は小さく笑っていた。おそらく自嘲しているのだろう。石竜子に対して大見得を切っておきながら、何も出来なかった自身に対してだ。
「君はただ、怖かっただけなんだ。恐怖は誰にでもある。そして、背けたくなることも」
石竜子も黒虎を初めて、目にした時は恐怖で慄いたのを覚えている。もちろん、あのまま何もせずに森の中で静かに暮らすこともできた。
いつの日か、黒虎が老衰やなんらかの形で死ぬ事を祈りながら、生きることも選択できた。しかし、友を殺された彼にはそんな事を待つなど出来なかったのだ。
「足りないのは能力でも、障害を打ち倒す力でもない。ただ勇気が足りないだけさ。大丈夫。誰でも勇者になれるんだ」
「勇気?」
「うん、例え君が誰かに傷つけられたとしてもそれは目の前にいる相手との相性が悪いだけで世界全てがそうじゃない。現に僕は君にこうして接しているんだからさ」
蛙は目から大粒の涙を流した。この世界は残酷なものだけではない。それを証明する存在が目の前にいることにこの上ない感動を覚えたのだろう。
「じゃあ、元気で。蝮は気絶しているから今のうちに逃げるといい」
石竜子は蛙に胸の内を開けて立ち去ろうとした時、彼女に呼び止められた。
「あなたはどうして、旅をしているの?」
「僕の旅の目的は仇討ちだよ」
「仇討ち?」
「ああ、僕の故郷に黒い虎が来て、親友の金蛇と他の生き物達を皆殺しにしたんだ。僕は彼らの仇を討つため、そして、これ以上被害を出さないため、旅をしている」
脳裏に故郷で起こった凄惨な光景が映し出される。怒りがこみ上げてきそうとだったので軽く深呼吸をして息を整えた。
「僕だって君と同じだったんだよ。亀くんを旅の仲間にするのが怖かった。故郷にいた友達みたいにまた失ってしまうんじゃないかと思ってさ。でも逃げていても何も始まらない」
石竜子も蛙と同じである。失う怖さと他者への恐怖と戦い続けている。いつか必ず乗り越えられると信じているのだ。
「ねえ私も一緒に連れて行って欲しい。この世界が見たいの」
「いいの? 危険な旅になるよ」
「確かに怖いけど、この世界はもっと綺麗なものがあるのならこの目で見たい」
そう語る彼女の目は亀と同じく、嘘偽りのない勇気に溢れたような目だった。
石竜子は静かに頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます