失う怖さ

 木漏れ日が突き刺す森の中を石竜子とかげは慎重な足取りで進んでいた。初めて見る外の世界に彼は内心、胸を躍らせていた。


 もし仇討ちが目的じゃなければ気ままに外界を探索していただろう。静けさが漂っている森の奥に進んでいくと、辺りに薄い霧が立ち込めて来た。


 この場合、霧が濃くなると視覚はあまり役に立たないことが多いため、嗅覚と聴覚を研ぎ澄ましながら周囲を警戒する。


 すると立ち込める霧の一箇所が徐々に影を帯びていく。何かの気配が近づいてくるのを感じて、身構える。


 霧の向こうからかめの雄が必死の表情で息を切らしながら勢いよく飛んで来た。


 唐突の出来事で驚いていると、亀は彼の目の前に懇願するように頭を下げて来た。



「頼む! 助けてくれ! 獣に追われているんだ。捕まったら食われてちまうよ」


 亀が声を震わせながら、助けを要求して来た。霧の向こうからは獣の咆哮のような鳴き声が聞こえてきた。鳴き声は足音ともに凄まじい速度で近づいているのが分かった。


「こっちに来て!」


 石竜子は亀を側にあった木の根元に隠した。匂いで発見される可能性もあるため、亀の甲羅に土を塗り、落ち葉をかぶせる。


 霧の中から一体の獣が姿を見せた。細長い口と鋭い牙。黒い体毛で覆われた手足と突き殺すような眼。野犬だ。


 空腹なのか口の端から唾液が細く垂れ下がっていた。


 その恐ろしい姿を目にして、彼の心臓の鼓動が急激に早まっていく。すると獣がこちらに近づいてくる。


 足音とともに心臓が破れそうなほど激しく鳴り、全身に警報を鳴らしている。


 亀に目を向けると頭を甲羅に隠しながら、必死に息を殺していた。


 獣の口から血生臭いが漂ってくる。牙は黄ばんでおり、血垢と思わしきものもこびり付いていた。鼻の神経が機能不全を起こしそうなほどの悪臭だ。



 あまりの激臭に頭痛がしてきた。すると獣は諦めたのか、低い鳴き声を出して走り去っていった。


 解放されたように森の新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。


「あー、臭かった。死ぬかと思った。この世のものじゃないよ。あれ」

「ほんとだね」

 石竜子は彼の甲羅についた土や落ち葉を払い落としていく。


「ありがとう。石竜子くん」

「いいよ。気にしないでくれ」


 石竜子は亀が無事で良かったと心からそう思った。あのまま自身と出会っていなければ獣の鋭利な牙と爪で八つ裂きにされて、今頃、胃袋の中だと思うと背筋が凍りつきそうになる。


「あのさっきから気になっていたんだけど、その背中にあるものは?」


「これはお手製の鉈だよ。ある奴を仕留めるために作ったんだよ」


「ある奴?」


「黒い毛並みの虎さ。そいつのせいで僕の親友や故郷のみんなが殺されたんだ。奴に報いを受けさせるために旅をしているのさ」



 石竜子の胸の内側から黒虎に対する言葉では言い表せないほどの万斛の怒りが沸々と音を立てて、湧き上がってくる。


「そ、そうなんだ」


 石竜子から漂う尋常ならざる気迫を感じたのか、亀が僅かに顔を引きつらせながら石竜子を見つめる。


 すると亀が大きく深呼吸をすると、口を開いた。


「ねえ、良かったら君の旅に僕も連れて行って欲しい! 今日の恩返しがしたいんだ」


「えっ?」

「君は自分の命を顧みず、僕を助けてくれたんだ。ならそれ相応のお礼がしたいんだ。きっとその旅には危険も伴うだろう。僕も命をかけて君を手助けしたいんだ」


 突然の申し出に石竜子は驚いて、目を丸くした。確かに仲間がいることに越したことはない。何より亀の真っ直ぐな瞳から覚悟のようなものを感じた。


「っつ」

 言葉を出そうとしたが、上手く出ない。石竜子のうちから果てしない恐怖が蛇のように這いずり出て来た。


 失う怖さである。親友を失い、大切な存在がまた失われてしまうのではないかと言う思考が彼にまとわりついていた。親しくなればなるほどそのショックは大きい。


 改めて、亀の方に目を向けた。先ほどと変わらない硬い芯のように突き刺さる視線である。

「君は怖くないのかい?」


「怖いよ。でもそれ以上に君に恩返しがしたいんだ」


 先ほど命の危機に晒されたというのに、これから何度も同じ目に遭うことになるはずだというのに亀は恐怖に立ち向かおうとしているのだ。


 なら自分も失う怖さとも戦うべきだ。いやそれ以上に手放さない強さを身につけなければならない。


「わかった。これからよろしく」

 石竜子は亀と旅を共にすることを決めた。そして、今度こそ大切な存在を失わないために強くなろうと固く決心した。

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