第2話 七海遥の日常

 七海遥ななみはるかの日常は、隣にいる男の観察から始まる。


 隣の男――鈴村風太すずむらふうたが起きるのは、朝7時。


「お、今日勃ってるな」


 そして下腹部のチェック。前に勃っていたらズボンを下ろすと言っていたが、あれは嘘だ。元気じゃなかったら、元気になるまで弄る。

 それが朝6時半に起きる七海のルーティーンだった。


 意味はない。ただなんとなく、自分に興奮している風太の姿が面白かったり、ちょっと触ると反応する風太の姿が面白かったり、まあつまり面白がるためにやっているだけだった。


 そしてひとしきり満足したら、今度は自分の服をわざとはだけさせる。

 ポイントは、布団から出ている部分に衣服部分を残さないこと。そうすることで、はたから見たら裸に見える。

 そして寝たふりをすれば十分だ。腕を上げておけば、その色っぽい腋が風太に見えるはず。準備おっけー。


 朝7時。風太、起床。


「ふぅ……んっ」


 風太は意外と寝起きが弱く、一度七海に抱き着いてくる。

 そして腋に頭をうずめ、何かがおかしいと気が付く。そして次第に意識が覚醒してくると、今度は七海の裸(っぽい)姿が視界に飛び込んでくる。


「――ッ⁉」


 風太は飛び上がる。そしてそこで布団が持ち上がるので、七海が服を着ていることに安堵する。


 だが、すぐさまに不安に陥る。もしかしたら、ねぼけて自分が彼女の服を下げてしまったのではないか、と。


 そんな風太がとる行動。それは、七海に気が付かれないように服を元に戻してから、隠れてベッドを出ることだった。


 頃あいだ。


「――んっ。んん、おはよう、風太くん」


 忍び足で歩いていた風太の背中がびくりと震える。

 それから彼は恐る恐る振り向いて。


「あ、ああ、な、七海。お、おはよう」


 何事もなかったかのように挨拶をしてくるのだった。

 もちろんごまかしは全然上手くない。声がどもっているし身振りがいつも以上に多くなっている。


 それを七海は心の中でほくそ笑みながら、追い打ちをかける。


「あれ、わたしのブラ、どっかいっちゃったんだけど、知らない?」

「――っ⁉」


 そこで風太の心の内を説明すると、彼はもしかしたら自分が寝ている間に七海を襲ってしまっていたのではないかと考える。襲うだけ襲った後に、服を元に戻そうとして、その時に下着をつけ忘れてしまったのではないかと、そういう発想になる。


「し、知らないなあ? つけずに寝たんじゃないか?」

「いや、最近ちょっとしなさすぎて形が崩れちゃいそうだから、寝る前にもきっちり着けたんだよね」


 もちろん嘘である。七海という女は自分の胸に確かな自信を持っているし、それ以前に美意識というものが存在しない。楽をしたいがために、風太の家に来てから1か月後にはブラジャーをしなくなり、それから一度も着けていない。


 だが、こう言っておくことで、風太はさらに焦る。

 あったはずのものがなくなったのは、自分のせいではないかと疑心暗鬼になる。


 しかしそろそろ、七海も満足をしきったところだ。


「あ、昨日寝る前に外したんだった」


 そうネタばらしをして、風太が大きく安堵するところを見るまでが、一連の流れだった。






 それから一緒に風太と朝ご飯を取る。

 朝ごはんはいつも風太が作ってくれ、どれも栄養バランスを考えた料理だ。七海としてはあまり味にこだわらない風太に少し不満があったが、風太とご飯を取るようになってから引きこもっているくせに体の調子が良くなったから文句は言わない。


 そして朝の9時。

 ここで風太はスーツを着始める。


 なんでも、スーツを着ないと仕事モードにならないということだ。それが理由からか、家で執筆することはなくいつも喫茶店やファミレスを転々として書いているらしい。


「ん、風太」


 腕時計をしている風太に対し、七海が声をかける。


「ネクタイ、曲がってる」

「んあ? そうか」


 そうやって風太は従順に七海の前にやってくる。

 そこで七海がネクタイを微調整して、整えてあげる。


「はい、おっけー」

「ありがとな」

「いいよ」


 なんかこういうことをしていると夫婦になった気分になるが、それは風太には言わない。言うと二度とやらせてくれないからだ。


 そして9時半に家を出ていく。

 社会人としては遅い出勤だが、専業作家の中では比較的早いスタートではないかと七海は思っている。


 そしてここからがニートの真骨頂。


 七海は2万円の椅子に座って、だらっとパソコンを起動する。


 まずはツイッターのチェック。

 何か面白いことはないかなと探すが、大体いつも見てしまうのは芸能界のニュースだった。

 誰かが不倫したとか、誰かが結婚したとかそういうニュースを見て、面白いなーと思うだけだ。


「よし、ゲームするかあ」


 そして一通りして飽きると、今度はゲームをいじりだす。


 そうやってただただ無為に1日を過ごすだけだ。


 七海はこの時間が嫌いだった。

 ダラダラとしていると変な罪悪感がやってくる。何もしていなくていいのかと、良心の呵責かしゃくが起こる。


 だからと言って家を出たくはない。勉強もすることがないし。そして結局はダラダラと生活をして終わるだけだ。


 もう一ついやなことがある。


 それは、風太の帰ってくる時間がまばらであることだ。


 風太はああいうきっちりとした普通のサラリーマンのような性格をしているように見えるが、それでも売れっ子作家。

 それなりの気質というか才能はあって、筆が乗っているときは遅くに帰ってきてしまう。時間のことを忘れて執筆に没頭してしまうのだ。


 だからいつも夕方の6時くらいになると意味もなくそわそわしてきて、何にも集中できなくなる。それが七海にとっては嫌だった。



 午後7時。家の鍵がガチャリと開く音がして、七海の心臓は跳ね上がる。


「ただいまー」


 風太の声だ。今日はいつもより早い。


「おかえり」


 動揺を押し隠して、七海はトタトタと玄関まで裸足で迎えに行く。

 風太の顔を見ると疲れた顔をしている。


「ご飯にする? お風呂にする? それとも、わ・た・し?」

「お前はご飯も作れないだろうが。普通に今から飯作るから」


 冷静に返してくる風太は面白くない。

 まあそう言いながらもしっかりその視線が自分の太ももに向かっているのは確認したが。


 ただあまり疲れている風太を困らせすぎるのもよくない、そう考えた七海はおとなしく自分の引きこもりゾーンに戻る。

 ベッドの隣、部屋の角だ。


 昼とは違ってゲームのやる気もなぜか出てくる。心が躍ってきている。


 それから小一時間遊んで、風太に呼ばれる。

 そして二人で夜ご飯を共にする。


「ねえ風太」

「あ、なんだ?」

「引っ越ししようよ」

「引っ越し?」


 怪訝そうな顔をした風太だったが、それからすぐに申し訳なさそうな顔をする。


「やっぱ……狭いか?」


 なんで風太が申し訳なさそうな顔をするの、と七海は笑って「違うよ」と返す。


「ほら、ファミレスとか喫茶店行くと時間もお金もかかるじゃん? だからさ、家に仕事部屋を作るのはどうかと思って」

「はあ」

「それでさ、家賃が5万円くらい上がっても、そっちの方がプラスじゃん? 仕送りのお金もそんなに多くは変わらないしさ」

「まあ一理あるけど」


 七海の提案にちょっとなびきかけている風太に、ここぞとばかりに畳みかける。


「ほら、コーヒー飲みたいっていうならわたしが作ってあげるからさ。むしろそれくらいやらせてよ、人件費だと思って」

「でもなあ」

「なんなら料理も作ろっか? 今時、作り方なんて調べればわかるし」


 あまり積極的になりすぎないように、それでも七海は提案をする。

 だがしかし、風太は首を縦に振らなかった。


「なんかさ、そういうのはお金の問題っていうより、俺の気持ちの問題なんだよ。親とかきょうだいが質素な生活送ってんのに、自分だけそんな生活してていいのか、って思っちゃうんだよ」


 うむ、それはたしかにもっともな理由だ。真面目な風太ならそう考える可能性は確かにあった。

 しかし、その受け答えも七海にとっては想定内だ。


「でもそろそろ下の弟が仕事に就くって言ってなかったっけ?」

「ああ、まあそうだけど……」


 風太のいる鈴村家の次男がたしか今大学4年生だと聞いた気がする。


「それにさ、家に仕事場作ったら、もっと仕事できるじゃん。そっちの方が気持ちも楽にならない?」

「うーん、まあ、たしかに」


 風太にとって仕事をしているというのはある種、償いみたいなものなのだ。お金を稼いで親に返すため、そして仕事をすることで罪悪感を消す。そのために仕事をしていると言っても過言ではない。

 だから仕事をもっとするために引っ越すという建前さえあれば、風太の考えは傾いてくのだ。


「じゃあ、まあ考えとくか……」

「よし、決まりね! じゃあわたしが物件探しとくから、一週間後くらいに見に行こう!」

「一週間後って、やけに性急だな」

「いいの!」


 気分が良かった七海はそのまま勢いよくご飯を食べてお風呂に入ると、自分のパソコンで物件を探し始めた。

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