閑話 アイザック視点(2)

変化は突然だった。



 バートンのリリア・ダグラスへの態度が変わった。


 以前の壊れ物を扱うように慈しむようなものから、打って変わって「気安い友人」に接するものになった。


 羆と争ったときの打ち所が悪かったのかと疑いたくなるほどの変わりようだ。



 彼女とダグラスの間に何があったのかは分からない。


 彼女がダグラスを「友達」だと言った瞬間はこの耳で聞いたが……それでも信じがたいくらい、彼女は……ダグラスに好意を向けているように見えたのに。


 僕の知ったことではないが、「運命」とやらはどうなったのだ、と思わないではない。



 だが僕は概ね、安堵していた。


 やっと彼女の隣に――今までの日常に戻れるのだろうと思っていた。


 そのはずだったのに。



「ワタシはアナタに一目惚れしましタ! どうかワタシと結婚してくだサイ!」



 あの男が跪いて彼女の手を取った瞬間。


 手の甲に口付けた瞬間。



 奔流のようにさまざまな感情が脳内を巡り、咄嗟に身体が動かなかった。


 ずっと、ずっと。


 僕がそうしたかった。



 ずっとずっと、耐えてきた。


 まだ足りないと。



 もっと彼女の信頼を手に入れてから。


 彼女の両親の承諾を得てから。


 彼女の家と釣り合うくらいの身分を手に入れてから。



 その思いでここまでやってきた。


 彼女がリリア・ダグラスに愛おしそうな視線を向けるのを間近で見ていても、嫉妬に駆られず、ここまでやってきた。



 運命などという非科学的なものに……積み重ねてきたものが、負けるはずなどないと。


 諦めなければ負けではないと。


 そう信じて、僕は進んできた。



 これからも、きっとそれは変わらない。今更、変えることは出来ないし……変えたいとは思っていない。


 それが僕に出来る最善だ。


 彼女にしてやれる最善だ。



 だからこそ、今目の前で僕のしたかったことに……ずっと夢見ていたことにやすやすと手を伸ばされているのが、我慢ならなかった。


 ああ、今そこでそうしているのが僕だったら、どんなに良かっただろうと。


 そう心の片隅で思ってしまうのを、止められなかった。



 先日のリリア・ダグラスの言葉が頭を過ぎる。


 もたもたしていると、誰かに横から攫われてしまうかもしれないと。


 あの男に対する彼女の態度を見るに、焦るほどのことではないだろうが……どうしても、不安が頭を掠める。


 一つ片付いたと思ったら、すぐにこれだ。本当に、心配させられてばかりだ。




 ◇ ◇ ◇




「な、アイザック!」


「は?」


「彼はアイザック。生徒会に所属していて、頭も良いし真面目だし眼鏡だし、私よりよっぽどいい案内役になるよ」



 考え事をしていたところ、急に肩に手を回されて、ぐっと引き寄せられた。


 予期していなかった接触に、一瞬置いて顔に熱が集まってくる。



 よく聞いてみれば、どうも僕にあの男の案内を押し付けようとしているらしい。



「おい」



 文句を言おうと彼女を睨むと、ぱちんと音がしそうなくらい見事なウインクが飛んできた。


 気障ったらしいだけのはずのその仕草が、くらくらしそうなほど様になっている。


 ああ、もう。



「……いいだろう。案内してやる。二度と質問する気が起きなくなるくらい、微に入り細を穿ち」



 僕は言った。


 どのみち、東の国の王子が彼女に馴れ馴れしいことが気に食わないのは事実である。


 みすみす2人きりになるようなことはさせたくない。



 僕の言葉に、彼女はにっと歯を見せて笑う。そして僕の耳元に唇を寄せると、そっと耳打ちした。



「サンキュー、アイザック! 愛してるよ!」



 冗談で告げられたその言葉にすら、どうしようもなく胸が高鳴る。



 分かっている。理解している。冗談だと言うことは、僕が一番よく知っている。


 彼女に他意がないことも、本意がないことも。


 それでも彼女の口から、彼女の声で――僕に向けてその言葉が紡がれたという事実だけで、鼓動がうるさい。



 同時に心臓が締め付けられるような心地がした。


 こんな冗談を気安く言えてしまうのが、今の僕と彼女の関係だ。


 いい意味でも、悪い意味でも。



「……僕もだ」



 搾り出した言葉に、彼女は一瞬目を丸くしてから、おかしそうに笑う。


 冗談にしかならない距離が、もどかしい。


 冗談でしか伝えられない距離が、もどかしい。



 彼女がその言葉を向けるのが僕だけならいいのにと、そんなことを考えた。



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