第120話 vs. 羆

 結論から言おう。

 引き分けだった。


 もう何度殴り倒したか分からないし、何度投げ飛ばされたかわからない。

 私も羆もへとへとになって、地面に倒れ込んでいた。

 立つどころか、腕も上がらない。指の一本を動かすことさえ困難だ。


 羆はその鋭い爪で私を引き裂くことも、強靭な牙で噛み付くこともしなかった。私も懐のナイフを出すことはしなかった。

 私たちはただただ殴り合い、蹴り合い、組み合い、投げ合った。


 投げられるうち、私は気づいた。この羆は、この乙女ゲーム世界の機構だと。


 ロベルトでいうところの、兄のように。

 クリストファーでいうところの、過去のように。

 エドワードでいうところの、病のように。

 アイザックでいうところの、家族のように。


 乗り越えねばならない試練。克服しなければならない苦痛。向き合わねばならない障害。

 私にとってのそれが、この羆だ。


 それを理解して、やっと確信できた。私は、私のルートを作ることに成功したのだと。

 ここまでやってきたことは間違いではなかったのだと。


 ずっと不安だった。自分を磨き、攻略対象にふさわしい自己を作り上げた。

 他の攻略対象のイベントを横取りして、主人公ヒロインの寵愛を一心に受けた。

 それでも、私はまだ、不安だった。

 当たり前だ。もとの乙女ゲームに私という攻略対象が存在しないことは、私が一番良く知っているのだから。


 だからこそ、羆のからくりを理解したとき、私の心は喜びで震えた。

 この世界が、私を攻略対象として承認したことの証左なのだから。


 だから私は、持てる全力で正々堂々、羆に挑む。

 勝てないと分かっていても、愚直に挑む必要があった。


 いや、それすらも徐々にどうでもよくなっていたのかもしれない。

 世界の機構が用意した「私が決して勝てない相手」との戦いを、如何にして堪能するか。それに私は心を砕いた。

 鍛えた己の肉体を限界まで利用する。

 遠慮の要らない相手など、久しぶりだった。


 そう。この羆は、「私が決して勝てない相手」だ。

 学園の教師が、お兄様が言ったように。この世界ではそう定義付けられた機構だ。


 そしてそれは、乙女ゲーム世界の機構らしく。

 主人公ヒロインの助けなしには打ち勝てないと、決まっているのだ。


 ……あれ?

 思わず首を捻る。実際のところ、疲れ果てていて首はまともに動かないのだが。


 途中から楽しくなって引き分けてしまったが、これはもしかして、善戦しすぎたのではないだろうか。

 もうちょっと序盤で打ち負かされそうになって、主人公ヒロインのなんかすごい愛の力的なものを受けてから、立ち上がらなくてはならなかったのでは。


 いや、まぁいい。やってしまったものは仕方がない。

 幸いまだ引き分けだ。勝っていない。

 ここでリリアが、倒れる私に聖女の力を使ってくれるのだろう。


 かすり傷程度しか治せなかったはずのリリアが突如大聖女の力に目覚めるとか何かして、私は主人公ヒロインの愛の力で再び立ち上がり、乗り越えられなかったはずの試練を打ち倒すのだ。

 これが、この世界が作り出したエリザベス・バートンルートの筋書きだ。


 ああ、でも正直私がリリアだったら、とっくに帰っているな。

 いくら恋は盲目と言っても、目の前で突然羆と殴り合いを始めたら。

 そしてそれが何時間も続いたら。


 序盤は守ってくれたと感じてときめいたり、私の身を案じたり、応援したりするだろう。

 しかし現時点で、私自身もどれだけ戦っていたのか分からないくらいの時間が経過している。辺りもすでに真っ暗だ。

 することのないリリアは飽きて当然である。しかもイマイチ命懸けの戦いというほどの緊張感はない。

 100年の恋も冷めそうなものだ。


 しばらく待ってみたが、リリアが動く気配を感じない。

 羆の方も今のところはまだ身じろぎをしている程度だが……もし今襲ってこられたら勝てる気がしなかった。


 さて、どうしたものか。

 倒れたまま思案していると、遠くに人の気配を感じた。

 次第にがさがさと足音が聞こえて、地面を通じて振動も感じられる。


 人数は、……4人といったところか。

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