第119話 ヘアピンカーブでドリフト
「皆も心配していたよ。早く戻ろう」
「あ、はい、あの」
「ん?」
「じ、実は、足を挫いたみたいで」
「足? 見せて」
リリアの靴を脱がせる。確かに足首が腫れあがっていた。そうそう、これが
とすると、ここまでは乙女ゲームの筋書き通りだ。
ロベルトは彼女を背負って夜通し歩いてロッジまでたどり着くし、他の攻略対象の場合は2人で夜を明かすことになる。
私の場合、登山道への戻り方も覚えているし、彼女を抱えてロッジまで行くのは難しいことではない。
リリアが足を挫く展開を知っていたので、ハンカチを割いて包帯代わりにする方法も予習済みだ。
手際よく手当てをする私を、リリアは俯き加減でじっと見つめていた。
「とりあえず固定はしたけれど、動かさない方が良い。私が運ぼう」
「で、でも」
「大丈夫。リリアは羽のように軽いから」
立ち上がって微笑んで見せるも、リリアはまだ俯いたままだ。
「ば、バートン様」
彼女の小さな手が、私の服の袖をぎゅっと握っていた。
リリアは顔を上げ、意を決した表情で私に言う。
「あ、あの! ……この前は、すみませんでした!」
「リリアが謝る必要はないよ。私が悪かったんだ」
「い、いえ! わたしが、か、勝手に……勘違い、してたのに。勝手に、……傷ついた気になって。ば、バートン様の気持ちも、事情も、何も、ほんとなにも、知らずに」
リリアが目を伏せ、苦しそうに胸を押さえる。
もし本当に私の事情を知っていたら、きっとリリアは今そんな表情をしなかっただろうな、と思った。
知らない方が良いことも、世の中にはある。知らない方が幸せなことも、だ。
「わたし、いろいろ考えたんですけど! 男とか、女とか関係なくて! だって、バートン様がかっこいいことは、変わらないから!」
リリアが私を見つめる。彼女は顔を上げて、私を見ていた。
琥珀色の瞳が、まだわずかに涙で潤んでいる。
それでも彼女は、私から目を逸らさず……叫ぶように、絞り出すように、言葉を紡ぐ。
「友達がいないわたしを助けてくれたのも、学園で上手に振舞えるように教えてくれたのも、……出来るよって、頑張ろうって言ってくれたのも。なりたいわたしになれるって、言ってくれたのも。ぜんぶ、ぜんぶ……他の誰でもなくて、バートン様だから」
リリアの口から出る言葉は、ゲームの中で攻略対象に向けられる台詞とも、主人公のモノローグとも違っていた。
だからだろうか。
彼女が私を「攻略対象」ではなく、一人の人間として見ているような気がして。
私も彼女を、
初めて、一抹の罪悪感が胸を掠めた。
こんなに一生懸命で、素直で可愛い女の子を騙してまで、ひたすら利己的に幸せを追い求めることは、本当に幸せに繋がっているのだろうか。
そもそも、騙す必要などあるのか? 普通にふたりで、しあわせに暮らせばよいのではないか?
涙の浮かんだリリアの大きな瞳を覗き込んでいると、だんだんと脳が揺さぶられるような感覚に陥る。
そうだ、私だって、騙すつもりで近づいて、いつのまにか彼女に本気になっていたりしたのでは? 何か心のどこか、片隅のほうで。いや知らんけど。
だってこんなにも、顔が可愛い。
「CER○Bだし」
リリアがぽつりと呟いた。
何を口走っているんだ、この
絆されそうになった心がヘアピンカーブでドリフトを決めて戻ってきた。危なかった。
頭の中にかかっていた靄が晴れていく。
私の意志とは関係なく、何故だか「彼女を幸せにしなくてはいけない」という気持ちにさせられていた気がする。
これが
身震いしたところで、ふと気配を感じた。
どうしてこんなに近づかれるまで、気づかなかったのだろうか。
「だから、わたし、性別なんてどうでもよくて! バートン様のことが、す」
「シッ」
リリアの唇に人差し指を押し当てる。
リリアが一瞬目を見開き、頬を染めた。
彼女からしてみれば、もしかしたら「私から言うよ」的な展開を期待したのかもしれないが、残念ながらそれは違う。
私は心臓がバクバクと早鐘を打つのを感じていた。肺が窮屈になり、呼吸が浅くなる。背中を冷たいものが伝う。
「静かに」
「え?」
「ゆっくり、こちらに。私の後ろに」
「あ、あの」
そっとリリアの手を引き、じりじりと移動して、後ろに庇う。
私の背に庇われてから、こちらを振り向いたリリアは、きっと私を同じ物を見たのだろう。間抜けな声を出した。
「え?」
そこにいたのは、羆だった。
体長2.5mは優にある。何より横幅が人間の比ではないので、対峙するとその大きさは実測値よりはるかに大きく感じられた。
思わずリリアの顔を確認する。リリアの表情も驚愕一色という様子で、彼女にも予測不能の事態であることが容易に読み取れた。
それはそうだ。私だって羆が出てくるイベントなど覚えがない。
いくらイケメン補正があるからと言って、人間が剣の一本や二本で羆に勝てるものか。
猟銃があったって、近距離戦では勝てないというのに。
「リリア」
恐怖と言うよりほとんどパニックでへたり込んでいるリリアの手に、アイザックに渡された救助笛を持たせる。
「私にもしものことがあったら、これを。みんなが来てくれる」
「え? あ、あの」
「心配いらないよ。君は私が守るから」
リリアを背後に庇って、私は立ち上がる。
どうせ汚れるので、上着を脱ぎ捨てた。
羆は低く唸りながら、ぎらぎらと夕闇の中で眼を光らせ、私を睨んでいる。
正直、興味はあった。
「あなたを襲えるのは羆くらい」だと言われたあの日から。
一度戦ってみたかったのだ。
気になっていたのだ。
私と、どちらが強いのか。
脱ぎ捨てた上着が地面に落ちると同時に、私と羆の勝負……ステゴロの殴り合いが始まったのだった。
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