閑話 エドワード視点(1)
近衛の騎士たちから、愚弟の様子がおかしいと聞いたのはいつだったか。
傍目に見ても、見る見る様子が変わっていくのが分かった。
髪型もだが、顔つきが変わっていった。俯きがちだった視線は上がり、背筋も伸びた。
堂々と歩く姿を見かけるようになった。
話によると、訓練場で出会った教官に心酔しているらしい。
確かに愚弟に変化が現れたのは、西の訓練場に通うようになってからだ。時期としても矛盾はない。
ただ信じられないのは、その教官が愚弟の婚約者、エリザベス・バートンであるという話だった。
こちらは公爵令嬢が騎士団候補生の教官という時点で既に矛盾しかない。
だが、こんなつまらないことで王太子に嘘の情報を伝える意味はないはずだ。
ロベルト付きの護衛たちから、愚弟がどれだけ彼女に入れ込んでいるかの情報がこれでもかと伝わってきた。
馬鹿らしい、と思った。
婚約者に惚れこんで人が変わるとは、何とも単純なものである。
ずっと私のことを恨んでいると思っていた。私と比較ばかりされることで、いつも悩んでいる様子だったからだ。
だが、色恋沙汰で変わる程度の悩みなら、所詮その程度のものだったということだ。
どいつもこいつも、つまらない。
◇ ◇ ◇
試しに呼びつけて会ってみれば、拍子抜けするほど普通の男だった。
いや、女だという点では確かに普通ではなかったが、それを除けばどうということはない。
確かに服装は変わっているかもしれないが、貴族社会には変わり者はたくさんいる。
ハイヒールしか履かない男もいるし、幾人も愛人を抱える女もいる。
少し変わっている程度で興味を持つほど、世間知らずではないつもりだ。
貴族らしく挨拶をしたし、頭も下げた。こちらの機嫌を取るための世辞も並べる。
ほかのつまらない連中と、何も変わらなかった。
私は弟ほど簡単な人間ではない。
もしこちらの呼び出しを蹴りでもすれば、面白いと思ったかも知れないが……とんだ期待外れだった。
「一度話してみたかっただけだ。もういいよ」
そう言ってドアを示せば、笑顔で挨拶をして出ていった。
他の貴族と、何ら変わりない。きっともう、こうして会うこともないだろう。
私は窓の外を眺めて、ため息をついた。
◇ ◇ ◇
もう会うこともないだろうと思ったのに、私は再度、愚弟の婚約者を呼び出していた。
先日愚弟と話してからというもの、ひどく頭痛がする。
私に対して臆さず話してきたのには驚いたし、生き生きした表情も意外だと思った。
だが、問題はそこではない。
今までたいして話したこともなかった弟だ。
私が少し思い違いをしていたのも無理からぬことだろう。
まさか、あそこまで馬鹿だったとは。
「私はひとつ勘違いをしているんじゃないかと思ったんだ。いや、まさかとは思うのだけど……私の愚弟は、きみがエリザベス・バートンだと知らないのではないかな?」
「……ええ、まあ。おそらく」
私の前に立った彼女は、あっさりと頷いた。
何ということだ。私は頭を抱える。
面白いのはこの女ではない。
我が愚弟の方だったのである。
「……それどころか、女性だと気づいていない可能性もあるのでは?」
「そこは、どうでしょう。しかし、ありえる話だとは思います」
「きみはそれでいいのか? 自分の婚約者が、自分を認識していないということだぞ」
「私も最初は気づきませんでしたから。今はさすがに承知しておりますが」
淡々と答える彼女に、どんどんと眉間に皺が寄っていくのを感じる。
さすがに第二王子への不満を堂々と言えるわけもないだろうが、似た者同士の可能性もある。
「きみまでそんな調子だから、不仲説が出ているんじゃないか……」
「不仲説」
「不仲説が出ていなかったら、きみはとっくに王妃教育を叩き込まれているはずだ」
「……どういうことでしょう。私は王子妃にはなるかもしれませんが、王妃になる予定はございません」
顎に手を当てて、彼女は首を傾げた。本当に知らないのか、知らないふりをしているのか。
一見しただけでは、分からなかった。
「いや、……何でもないよ、忘れてくれ」
「はい、殿下の命とあらば忘れます。忘れました」
私の言葉に、彼女はにっこり笑って答えた。貴族らしい、貼り付けたような笑顔だ。
「これ以上お忙しい殿下のお時間を頂戴することも心苦しいことですし、私はこのあたりで」
そしてさっさと礼をすると、部屋を退出していく。
一瞬ぽかんとしてしまったが、すぐに理解する。
これは前回の、「もういいよ」に対する意趣返しだろう。やられたらやり返すタイプらしい。
もしくは……他言無用の話を聞かされそうになったのを察知した? いや、それはさすがに買いかぶりだろう。
少し悪戯心が首をもたげる。私の頭を悩ませた挙句、意趣返しまでされたのでは、割に合わない。
もう一度呼びつけてみれば、彼女は表面上は笑顔で現れた。
だが少しだけ、面倒くさそうな雰囲気が漏れている。いい気味だ。
「きみは、ロベルトをどう思う?」
「どう、といいますのは?」
私の問いに、質問が返ってきた。目を細めて、推し量るように彼女を見る。
「王に向いていると思うか?」
「……私の口からは、何とも。不敬になってしまいますので」
返ってきたのは、いかにも貴族らしい答えだった。
「……その返答自体が不敬だとは思わないのか?」
「心配されなくても、ロベルト殿下は王位など狙っておられませんよ。王になるのは貴方様です、殿下」
私の問いを黙殺し、彼女は私に世辞を言う。貼り付けたような笑顔に、反吐が出る。
誰も彼も、皆そうだ。腹の内で何を考えていても、そうして笑う。
そこに真実があるのか、分からなくなるほどに。
「……私は、王にはなれない」
彼女の瞳を見返す。その頭の中を見透かすように、探るように。
「私は、病で先が長くないんだ。医師には持ってあと2、3年だと言われている」
私の言葉に、彼女は驚かなかった。
ああ、やはり。
私は得心する。
やはり皆、知っているのだ。
私の説明を、彼女は聞いているのかいないのか分からない顔で受け流した。
嘘でも良いから心配するのが貴族として正しい反応だと思うのだが、それを取り繕うつもりはないようだ。
「先日の試合、結果こそ負けていましたがよい動きでしたよ。とても病に侵されているとは信じられないですね」
「……君が信じようと信じまいと、私が病だという事実は変わらない」
「ふむ、それはそうですね」
わざとらしく顎に手を当てて頷く。そしてぱちりと目を開くと、私に向かってにやりと笑う。
「殿下、お忍びで城下に出たことは?」
「……ない」
「では行ってみましょう」
「は!?」
予想していなかった提案に、思わず咄嗟に反応してしまった。
人前で取り繕うのを忘れたのは、久しぶりのことだった。
彼女はてきぱきと計画の説明をすると、私に候補生の訓練着を押し付けてさっさと帰っていった。
◇ ◇ ◇
「きみは、どうやって」
「どうやっても、何も」
翌日、当たり前のように窓から入ってきたエリザベス・バートンに、私は数歩後退する。
どういうことだ。
ここは王城だ。警備体制は生半可なものではない。
その目をかいくぐって、部外者が王太子の執務室に侵入するなど、あってはならないことである。
「壁を登ってまいりました」
「壁を!?」
「今日び、どこの騎士も壁くらい登れますよ」
彼女は驚く私に、やれやれと呆れたように肩を竦めた。
そう、なのか? 私が知らないだけなのか?
「私が他の誰かにこのことを告げるとは思わなかったのか? 私が今、扉の外の兵を呼んだら貴様の首など簡単に飛ぶんだぞ」
「ははは、それは困りますね」
「困ります、ではなく」
「しかし、律儀に着替えてらっしゃるところを見るに、そのつもりはなさそうだ」
言われて、思わずぐっと押し黙る。
そう、私は彼女の指示通り、候補生の訓練着に着替えていた。
少しだけ、興味があったのは否定しない。病気のせいで、城下に降りたことはほとんどなかった。彼女が何を企んでいるのか、気になったのもある。
「では、行きましょう」
「どうやって行くつもりだ? 扉は近衛騎士が見張っている。カーテンとシーツで縄でも作って窓から降りるのか」
「ご冗談を。ここは3階ですよ」
試しに問いかけてみれば、彼女は肩を竦める。
その様子に、私は少しほっとした。いくらなんでも、王太子にそのような無茶をさせるはずはないか。
「たかが3階です。飛び降りるだけで十分ですよ」
笑顔を貼り付けていたはずの顔が強張るのを感じた。
飛び降りる? 何を言っているんだ、こいつは。
「馬鹿を言え、3階だぞ」
「失礼します」
彼女は私の膝の裏に腕を回すと、軽々と私を抱き上げた。
当然、2人の身体は密着する。視線を上げると、すぐそこに彼女の顔があった。
「な、なん、き、きさまっ」
「舌を噛みますよ」
澄ました顔で私を黙らせた彼女は、有言実行とでも言うようにあっさりと窓から飛び降りた。
ぎゅっとつぶっていた瞳を開く。
彼女は私を抱いたままで音もなく着地し、もう走り始めていた。
心臓がばくばくと音を立てている。
思わずその横顔を見つめる。すっと通った鼻筋に、涼し気な目元。きりりと結ばれた薄い唇。
その顔を見上げていると、何故だか不思議と落ち着かない心地になる。胸が高鳴るし、頬が熱くなる。
いや、これは吊り橋効果だ。
生命の危機に晒されたときのドキドキと、恋愛のドキドキを勘違いする、というやつだ。
そうに違いない。
だから彼女の横顔を見て、こんなにも胸が高鳴るのだ。
こちらに視線を寄越した彼女と目が合った。
ふっと、挑戦的に口元を綻ばせる。
その表情に、心臓が一際大きく跳ねた。
「もうお帰りになりますか? 殿下」
「ば、かを、言うな」
黒い馬に座らされて、その後ろに彼女が座る。私の脇から彼女の手が回って、馬の手綱を握っている。
近い。非常に距離が近い。
近すぎる。
こんなもの、ドキドキするなという方が無理だ。
どう考えても男女が逆である。
「細かいことは良いではありませんか。私にエスコートさせてください」
必死で抗議するも、彼女は私に向かってウインクを投げただけだった。
気障ったらしくて嫌味なはずのその仕草に、不思議と顔が熱くなった。
彼女は道行く先々で女性たちから声を掛けられていた。愛想よく笑って、彼女は返事をする。
貴族らしい貼り付けたような笑顔とは違う、楽しそうな、嬉しそうな微笑みだ。
……しかし、声を掛けられすぎではないだろうか。そして、甘い言葉を言いすぎではないだろうか。
「……きみ、騎士ではないのか?」
彼女をじっと見上げて声を掛ける。自分で思ったよりも低い声が出た。まるで、怒っているような声だ。
彼女は私を一瞥すると、曖昧に笑って答える。
「まぁ、騎士団候補生の教官の末席にはおりますね」
「それにしては、ずいぶんと軟派な真似をするんだな」
その言葉に、彼女はきょとんと目を見開いた。
見慣れない表情に、また胸がどきりと高鳴る。
何なのだろう。さっきから、おかしい。
軽く頭を振ってから彼女を見上げると、彼女は何故かにやにやと笑っていた。
「何をにやついているんだ?」
私の問いかけに、彼女は「いえ別に」と答えて無理やり顔を真面目なものに戻していた。
彼女は女性だけでなく、街の者に次々と声を掛けられていた。
差し入れだと渡されたスコーンを見遣る。
意識しないようにしていたのに、先ほどスコーンの受け渡しをされたときのことを思い出してしまう。
後ろから私を押しつぶすようにしてきた彼女のせいで、期せずして身体が密着した。
分厚い騎士の制服越しなので、身体の感触どころか温かさすら伝わってこない接触だったが、それだけのことで私の心臓はやかましく騒ぎ立てる。
何なのだろう、さっきから。
考えながらスコーンを眺めていると、彼女が後ろから身を乗り出して、私の手にあるスコーンにかぶりついた。
唖然とした顔で彼女を見上げると、彼女は口の端についたジャムをぺろりと舐め取るところだった。
ぎらぎらした獰猛さすら感じるその仕草に、ごくりと喉が鳴った。
彼女は私の心中などお構いなしに、何でもないことのように告げる。
「ご馳走様です」
ふっと微笑みながら告げられたその言葉に、また胸がときめいた。
……ときめいた?
私はぶんぶんと頭を振って、脳裏に過ぎったものを振り払う。
その後慌ててスコーンを齧ったは良いものの、慌てたばかりに喉に閊えさせてしまった。
街の者が助けてくれて事なきを得、しばらくベンチで休憩することになった。
街を行く人は彼女の姿を見つけると、やはり親しげに声を掛けていく。
その様子を見ていて、私は理解した。彼女が私を連れ出した、その真意を。
「そうか。きみは私に、これを伝えたかったのだな」
私の言葉に、彼女は「ようやく気づきましたか」とでも言いたげに頷き返す。
「きみは街の者に愛されている。だから街の者はきみに優しいし、親切にする。身体を気遣ったりもする」
「ええ、そうですね」
「そしてきみと一緒にいる私にも、同じようにしてくれる」
私は街の者が善意で与えてくれた、スコーンと、紅茶の入っていたカップに視線を落とす。
「きっと、城の者もそうなのだ。父を……国王陛下を慕っていて、だからこそ私にも、親切にしてくれている。もちろん打算ゆえのものもあるだろうね。だからすべてを正直に受け止めるわけにはいかない。だが、それを頭から疑って……疑心暗鬼になって、すべての優しさを受け入れないことも、また同じくらい愚かな行為だ」
こんなに簡単なことなのに、私は気づかなかった。
こうして彼女が連れ出してくれなかったら、一生気づかなかったかもしれない。
「どうやら私は少し、過敏になりすぎていたようだね」
私の言葉に、彼女は大きく頷いた。
「きしさまー」
彼女の足元に、少女が駆け寄ってきた。
少女は私を見て、首を傾げる。
「そのひと、だあれ?」
彼女はそっと屈んで、少女に耳打ちする。
わざわざ耳打ちするとは、私のことをどのように伝えているのだろうか。
気になって見ていると、少女と目が合った。そして少女は、エリザベスに視線を戻して、言う。
「きしさま、うわきはだめよ」
「え」
「レイ、大きくなったら、きしさまとけっこんするんだから!」
その言葉に、私は驚いて何も言えなくなる。
浮気? 少女に浮気と思われるようなことを、言ったのか? そんなふうに思われるような紹介の仕方をしたのか?
ぐるぐると疑問が頭の中を回る。
「坊ちゃん?」
彼女の声にはっと我に返ってみれば、エリザベスと少女の背中は随分遠くなっていた。
その後、彼女の知り合いらしい少女と連れ立って、手芸店に向かった。
そこで見つけたものは、非常に興味深かった。
精緻なレースで出来たコースターが飾ってあったのだ。聞くと、初心者向けの編み図だという。
私でも、作ることが出来るのだろうか。
そんなことを考えているうちに、気づくと執務室に戻っていた。
そして、手にはずっしりと重い包みを持たされている。
「では、私はこれで」
「ま、待て、エリザベス嬢」
窓枠に足をかける彼女を呼び止める。
私は抱えさせられた包みを見せ、問いかけた。
「これは、何だ。どういうことだ」
「どうも、何も」
彼女が微笑む。
いつもの貴族らしい貼り付けた笑顔ではない。
自然にふっと、こぼれたかのような笑顔だった。
「やってみたいのかなと思ったので」
恋に落ちる、音がした。
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