閑話 クリストファー視点(1)
おとぎ話のなかの、騎士様。
強くてかっこいい、騎士様。
ぼくの家には、おとぎ話の騎士様がいる。
◇ ◇ ◇
7歳のとき、お母様がいなくなった。
その時のぼくには、詳しい事情は分からなかったけれど、「生まなければよかった」というお母様の言葉だけは、ずしりとぼくにのしかかった。
お母様は死んだのだと、そう聞かされた。
ぼくのせいだと思った。
ぼくのせいで、お母様は死んだのだ。
ほどなくして、ぼくは新しい家に養子に行くことになった。
当たり前だ。家に、ぼくの居場所はなかったのだ。
新しい家族は、ぼくにとても良くしてくれた。暗い塔に閉じ込めることも、食事を抜くことも、ぼくを詰ることもなかった。
特に、兄になった人は優しかった。
ぼくを遊びに連れ出してくれた。おいしいお菓子を分けてくれた。いろんな話を聞かせてくれた。
6つも年上だと聞いたけれど、そんな感じはしなかった。
常にぼくに目線を合わせていてくれて、その微笑みを見ると、胸の重さが不思議と少し和らいだ。
だけれどそれは和らぐだけで、それだけだった。
胸に空いた穴は、埋まらなかった。
◇ ◇ ◇
新しい家に来て半年ほどが経ったある日、ぼくは偶然、死んだはずのお母様の消息を耳にする。
いてもたってもいられなくなり、ぼくはお屋敷を抜け出して、母に会いに行った。
ぼくを迎えに来てくれなくてもよかったのだ。
生きていてくれさえすれば、それでよかったのだ。
ぼくのせいで死んでしまったのではないと分かれば、それで。
この胸の穴は、埋まるような気がしていた。
だいたいの場所しかわからなかったけれど、行く先々で親切な人がいて、ぼくはついにお母様のいる場所にたどり着いた。
生垣の隙間から覗いた、小さな家の窓。
離れていても聞こえてくる、楽しそうな声。
窓の向こうのお母様は、とても楽しそうに、幸せそうに笑っていた。
男の人と、腕に抱いた赤ん坊に話しかけながら。
ぼくは知った。
この胸の穴は、もう二度と、埋まることがないのだと。
呆然としているところに、怪しい男に声を掛けられた。
親切で声をかけてくれたわけではないことが、すぐにわかった。叔父と、同じ目をしていたから。
必死で逃げ出したところで、ぼくを探しに来てくれた新しい義兄姉と合流する。
義姉は自然な様子で義兄を背負ったし、義兄もまた、自然に義姉の首に腕を回した。
端から見れば、逆だろうと思う。
それでも彼らにとってはそれが当たり前だということが分かるやり取りを見て、何故だかすごく遠い世界の出来事のように思えた。
それがそのときのぼくにとっては、家族の絆のように見えたからかもしれない。
だから。
「クリストファーも、早く」
そう言われても、咄嗟に動けなかった。
反応しないぼくを軽々抱き上げて、義姉は暗い街を走っていった。
勝手に屋敷を抜け出したのだから、怒られて当然だと思っていた。
これからどうなるのだろうと不安が首をもたげる。追い出されたとしても、行くあてはない。
しかし、義兄はぼくを叱り付けることはしなかった。
むしろやさしい言葉をかけられて、ぼくは涙をこらえきれなくなる。
「ぼく、あの。お母様が、生きているって聞いて。それで」
「……そうか。それは、会いたいって思うよね」
「でも、お母様は……もう、ぼくのお母様じゃなくなってた」
言葉にしたら、またどんどんと涙があふれてくる。
生きてさえいてくれたらと、そう思ったはずなのに。
「お、お母様……赤ちゃんを、抱っこして……知らない男の人と、楽しそうに、笑って」
生きていると知ったら、幸せそうにしているのを見てしまったら。
証明されたような気がしたのだ。
ぼくさえ生まれなければ、お母様は幸せだったのだと。
「ぼくの家族、誰も、誰もいなくなっちゃった」
あふれ出る涙を手で拭おうとしても、一向に止まらない。
嗚咽交じりの聞き苦しいぼくの言葉を、義兄はしかし、やさしい声で受け止めてくれた。
「ねぇ、クリストファー。僕たちは一緒に暮らすようになってからまだ日が浅いし、クリスはまだ、そんな気持ちにはなれないと思う。なろうと思って、なれるものではないと思うから」
でもね、と、義兄は続ける。ぼくを見つめる瞳は、きれいな青色をしていた。
「僕たちは、いつか君と、家族になりたいと思っているんだ」
家族、という言葉に、ぼくは僅かに身体が強張るのを感じた。
ぼくには縁遠いものに思えたし……もしまたいなくなってしまうくらいなら、そんなものはいらないとさえ、思ったからだ。
「一緒にご飯を食べて、おいしいねって笑ったり。心配したり、心配されたり。困ったときは相談したり、助け合ったり。お父様やお母様には言えない秘密を、こっそり作ったりとかね」
義兄のやわらかな手が、ぼくの小さな手を包みこむ。
ぼくはどうしてよいかわからずに、ただその手をじっと見つめた。
屋敷が近づくにつれ、ぼくを抱いて速足で歩く義姉のことが気になってきた。
義兄と違って、義姉がどう思っているのか分からない。
会えばやさしいし、こうして抱いて歩いてくれたのだから、嫌われているわけではないとは思う。
だけれど、ぼくは少し、義姉のことが怖かった。
思えば、ぼくは人間不信になりかけていたのだ。
義兄のように言動すべてから、「大丈夫だよ」「信じて良いよ」と言ってもらえて、どうにかそのうちの少しを受け取れる程度だった。
だから、義兄よりも接する機会の少ない義姉のことが、時々何を考えているかまったく分からない義姉が、少しだけ苦手だったのだ。
ぼくの視線に気づいたのか、義姉がぼくの方を見る。義兄よりもくすんだブルーグレーの瞳が、わずかに揺れた。
義姉はぼくの前に、すっと膝をつく。
ずっとぼくより高いところにあった義姉の瞳が、ぼくを見上げている。たったそれだけのことで、苦手意識がふっと和らいだ気がした。
その姿はまるで、おとぎ話の、王子様のようだと思った。
「私は君の騎士だよ、クリストファー」
義姉はぼくの手を取り、こちらをじっと見つめる。
「私は女だから、国に忠誠を誓い、国を守る騎士にはなれない。だから私は、家族を……自分の大切な人を守る騎士だ」
義姉が、そっとぼくの指先に口付けた。
とたんに、顔に熱が集まってくるのを感じる。ばくばくと耳の奥に鼓動が鳴りはじめた。
彼女は今まで見たことがないくらい、蕩けるようなやさしい微笑みで、ぼくに言う。
「私に、君を守らせてくれるかな?」
ぼくは、頷くのがやっとだった。
かっこいい。
ぼくには義姉の姿が、おとぎ話の中から抜け出てきた存在のように見えた。
義姉と義兄に手を引かれて、ぼくは歩き出す。
今から帰る公爵家のお屋敷が、お城のように思えた。それだけで、足取りが軽くなる。
義兄と義姉は、仲よさそうに顔を見合わせて笑っている。
ぼくは、繋いだ手を少しだけ、握り返した。
◇ ◇ ◇
そこから、ぼくは時間をかけて、少しずつバートン家の家族になっていった。
姉上が騎士団の訓練場に通いたいといったとき、ぼくは一も二もなく賛成した。
だってあんなにかっこよくて、強いのだ。
絶対に、騎士になったほうがいいに決まっている。
兄上と一緒になって、父上に頼みに行った。
ぼくの姿を見た父上は、涙ぐみながらぼくのことを抱きしめてくれた。
そのとき、ああ、ぼくもこの家の一員だったのだと、何となくすとんと腑に落ちた。
このころになると、姉上の身なりにもすっかり慣れてしまって、疑問を持たなくなっていた。どんな格好でも、姉上は姉上だ。
ぼくが同じ訓練場に通いたいと言ったときには、兄上と姉上が一緒に頼んでくれた。
姉上と一緒に学園に入学したいというわがままは聞いてもらえなかったけれど、ふとしたときに、自然にわがままを口にできる自分に気づいて、驚いた。
胸に空いた穴を気にすることは、もうほとんどなくなっていた。
……ときどき、やっぱり、痛むことはあるけれど。
兄上は学園を卒業して伯爵位を得てから、城に領地にと忙しく飛び回っていた。
城では王太子の補佐として、父上と一緒に仕事をこなしているらしい。
姉上は学園でたいそう人気のようで、毎日のように家に贈り物や手紙が届いた。
たいていが女性からだったので、侍女長が非常に気を揉んでいた。
このままだといつか刺されるのでは、と心配する侍女長に、ぼくも心の中でそっと同意した。
兄上にも、姉上にも、幸せになってもらいたい。そういう意味では、姉上のことはいつも心配だった。
兄上から「リジーをお願いね」と言われていたのもあるけれど……単にぼく個人の心情としても、心配だったのである。
歳を重ねるごとに、ますますおとぎ話から抜け出た騎士のようになっていた姉上。
もしこれがおとぎ話なら、ハッピーエンドがいいなとぼくは思った。
◇ ◇ ◇
ある夜、夢見が悪くて目が覚めた。内容は起きたとたんに忘れてしまったけれど、汗で寝巻きがぐっしょり濡れていた。
何か温かいものでも飲もうかと、食堂を目指して部屋を出る。
たまたま、父上と母上の部屋を通りかかったときに、二人の話し声が聞こえた。
「エリザベスの婚約のことは……」
「やはり、白紙に戻してもらったほうが良いだろう」
咄嗟に、ドアの脇に隠れた。
ドアはほとんど閉まっているので、隠れなくたって見つかるわけがないのだけれど……そんな当たり前のことさえ分からないくらい、ぼくは動揺していた。
姉上の、婚約を? 白紙に?
目の前がまっくらになった。
姉上の婚約者は、第二王子だ。
その相手から婚約を撤回される、というのがどういう意味を持つことなのか。
8年公爵家で暮らして来て、分からないわけがなかった。
次に浮かんできたのは、やさしくぼくの頭を撫でてくれる、姉上の笑顔だ。
その笑顔のやさしさの分だけ、ぼくの心はきつく締め付けられる。
そんな、じゃあ。
姉上は、どうなるのだ。
姉上は、幸せになれないのか?
ぼくには、それが受け入れられなかった。
ますます姉上のことが心配になった。ついつい、姉上の行動に口出しをしてしまうようになった。
どうしたら、姉上は幸せになれるのか。
ぼくはそればかりを考えていた。
そんなとき、学園のダンスパーティーが迫っていることを知る。
チャンスだと思った。
ダンスパーティーに行く前の姉上を捕まえて、きれいなドレスを着てもらおう。
男装している姉上は、それはそれはかっこいい。女の人の格好をしたって、きっと綺麗で、かっこいいはずだ。
そうすれば、きっと姉上のことを見直すはず。姉上がどんなに素敵でかっこいいのか、気づいてくれるはずだ。
そうすれば、きっと。
姉上は、幸せになれるはずだ。
そう思っていたのだけれど、なんとパーティー当日、姉上はぼくの目をかいくぐって家を出てしまった。
いつもは徒歩で学園に行くのに、今日に限って馬車で出たらしい。
野生の勘とでも言うのだろうか、姉上はそれを発揮して面倒ごとを回避することがままあった。
姿を見たものに聞くと、服装は騎士の制服だったとのことだ。ぼくは頭を抱えた。
すぐさま侍女長に相談すると、彼女は急いで支度をしてくれた。ぼくはドレスと化粧道具を受け取り、馬車に乗り込む。
待っていてください、姉上。
ぼくが必ず、ハッピーエンドを届けます。
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