第60話 怒っている。やはり怒っている。

「エリザベス」


 家路を辿る馬車の中に響いたお兄様の声に、思わずびくりと身を縮める。

 いつも私を愛称で呼ぶお兄様が、きちんと名前を呼ぶのは決まって怒っている時なのだ。


「僕に嘘をついたね?」

「えーと。だって、お兄様は屋根伝いに家屋に侵入出来ないので」

「リジーが背負ってくれたら出来る」

「機動力が落ちます」

「僕を背負ったくらいで落ちる機動力じゃないよね? 僕の身の安全を考えて慎重に、それでいて素早く行動する……結果として、僕を背負っていないときよりパフォーマンスが向上するはずだ」


 しまった、その通り過ぎて言い返せない。さすが血を分けた兄弟。私が何を考えてどう動くかをよく理解してくれている。


「一歩間違えば、僕は君も、クリストファーも……2人とも失うところだったんだよ」


 お兄様はとても、とても怒っていた。その瞳からは、さっきは他人の手前なんとか我慢していたのだろう、涙がぽろぽろと零れ落ちている。


 お兄様に泣かれると、弱い。お兄様自身もそれはよく分かっているはずだ。

 私以外のせいで泣かれるのも気分が悪いのだが、だからといって私が泣かしているのだと思うと、それもそれで罪悪感が首をもたげる。勘弁してくれ、という気持ちにさせられる。

 お兄様の機嫌を取るべく、私は言い募った。


「お兄様、大丈夫です。私を襲える暴漢は羆くらいだと言われましたので」

「クリストファーが幽閉されている屋敷に羆が飼われていたらどうするつもりだったの!?」

「その可能性は考えていませんでしたね」


 万に一つもなさそうではあるが。いや、虎くらいならいるかもしれないな。


「リジー。君は僕のかわいい妹なんだ。いくつになっても、どんなに強くなっても、大切な妹だ」

「お兄様も私の大切な兄ですよ」

「君は、僕の大切な、君のことも、ちゃんと、大切にして。いいね?」


 ゆっくりと言葉を切って、釘を刺すように言われてしまった。理解しているし、大切にしているつもりなのだが。

 私ほど我が身がかわいい人間もそうはいないと思う。

 私が分かったような分かっていないような顔で肩を竦めると、お兄様はクリストファーに向き直る。


「君もだよ、クリストファー。君は僕の大切な弟だ。優しくて賢い、僕のかわいい弟だ」


 クリストファーは、はちみつ色の瞳を見開く。そして、涙の跡の残る顔をくしゃくしゃにして、泣き笑いのような表情をした。


「だからどうか、自分を犠牲にしないで。僕の大切な弟を、蔑ろにしないで」

「ぼ、ぼくも」


 消え入りそうな声で、また今にも泣きだしそうな声で、クリストファーは絞り出すように、答えた。


「ぼくも、兄上と姉上のこと、大切です」


 クリストファーの言葉に、お兄様と目を見合わせた。

 やがて、お兄様の頬が幸せそうにゆるむ。あまりに嬉しそうに笑うものだから、つられて私まで笑ってしまった。

 よかった。お兄様は怒っているより、泣いているより、その顔が良い。


「でも、ぼく。もらってばかりで、なにも返せてなくて。だからぼくは、お二人には……バートン家には相応しくないと思って……それで」

「クリストファー」


 自分の膝の上で拳を握りしめているクリストファーの手を、お兄様がぎゅっと上から包み込むように握った。

 顔を上げたクリストファーが、お兄様の顔を窺うように見上げる。


「ありがとう。僕たちのことを、大切だと言ってくれて。すごく、すごく嬉しいよ」


 やさしい表情から、本当に「嬉しい」という気持ちがあふれている。私にだって伝わるくらいだ。クリストファーにも、きっと十分に届いていることだろう。


「お互いが大切だと思っていたら、それが『家族』だってことなんだ。相応しいとか、そういうことじゃない。僕はそう思っているよ」

「兄上……」

「それでも、もし何か返したいと思ってくれるなら……この先もずっと、お互いがお互いを大切だと思える関係でいられるように、一緒に考えて、頑張ってくれたら嬉しいな」


 お兄様が微笑みかけると、クリストファーは小さく頷いて、お兄様の手に自分のもう片方の手のひらを重ねた。


「あ、あとはそうだね。リジーのお目付役を手伝って欲しいかも」

「え」


 ちらりとこちらに向けられた視線から、私へのお怒りが消えたわけではないことを悟る。今回私が嘘をついたことは、どうやらお兄様にとってなかなかの重罪だったようだ。


 クリストファーが私を見る。私に貼られた「手のかかる妹(姉)」というラベルを見透かされているような気がした。


「リジーはおてんばさんだろう? 僕1人じゃ手に負えないから。今まで通り……ううん、今まで以上に、クリスも協力してくれたら嬉しいな」


 私のことをおてんばさんなんて可愛い表現で済ませるのはお兄様くらいである。一歩外に出れば、鬼教官でナンパ騎士だというのに。


 今だって、ダンスパーティーにドレスを持ってきてしまうくらいの姉想いのクリストファーである。

 それ以上に進化したお目付け役が来年から学園に入学してくるとなると、私もいささか動きにくい。来年からが本番だというのに。


 とりあえず、お兄様の機嫌を大幅に損ねない範囲で抵抗を試みる。


「お兄様。クリストファーに不良債権を押し付けないでください」

「僕のかわいい妹を不良債権とか言うのはだあれ?」


 じろりと睨まれた。怒っている。やはり怒っている。


「姉上! ぼく、頑張ります!」

「クリストファー?」


 お兄様に抵抗する言葉を探していると、横からクリストファーに手を握られてしまった。

 その大きな瞳はたっぷりと馬車の中の明かりを取り込んで、やる気にきらきらと輝いている。


 何故だ。手のかかる姉の面倒を押し付けられているはずなのに、何故乗り気なんだ。兄姉想いすぎるのではないか。


「ぼく、本当はずっと姉上のこと、心配だったんです。このままではお嫁の貰い手がなくなってしまうんじゃないかって。姉上はこんなに強くて、かっこよくて、素敵なのに」


 曲がりなりにも婚約中の姉に向かってなんという言い草だ。いや、婚約解消できるものなら、する予定ではあるが。


「だから、姉上の魅力をもっとみんなに分かってもらえるように、がんばります! もしものときは、その、ぼ、ぼくが責任を取ります!」


 なんと。

 私は衝撃で言葉を失った。

 行かず後家になった姉の面倒を見続けてくれる覚悟だというのか。彼の兄姉想いがそこまでとは、さすがに思っていなかった。


 お兄様が継いだ家で、行かず後家の姉の面倒を見させられて一生独身の弟。

 かわいそうすぎる。

 というか私がその状況に耐えられない。それこそ完全に不良債権だ。

 クリストファーのためにも何とかして嫁に行こう。あてはないが。


「えーと。クリストファー、気持ちは嬉しいけれど……」

「ふふふ」


 普段は良い子の弟だが、時々妙に押しが強いというか、思い込みが激しくて困ってしまう。

 私がうろたえていると、お兄様が堪えきれないといった様子でくすくす笑い始めた。

 お兄様のお怒りはどうやら収まったらしい。が、別の問題が生じている気がしてならない。


「お兄様! 反対してください。彼のためです!」


 私が必死で異議を申し立てるも、お兄様はにこにこと機嫌よく笑うだけだった。

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