第55話 私の嘘

 ダンスパーティーも終わり、だいぶ空気が冬の色になってきた。

 日課の夕方のランニングをこなしていると、辺りが暗くなるのが早くなっていることに気が付く。


 屋敷に戻り、汗を拭いて着替えていたところ、焦ったようなノックの音が部屋に響いた。

 ドアを開けると、慌てた様子のお兄様が部屋に転がり込んでくる。


「リジー」


 お兄様は息を切らして、私の肩を掴む。


「どうしよう。クリストファーがいなくなった」

「いなくなった?」


 お兄様は顔を真っ青にしていて、瞳には不安が揺らめいていた。

 もちふわの身体を支えるようにして、私はお兄様をそっとソファに座らせる。

 お兄様に追いついてきたらしい侍女長に視線をやると、彼女は小さく頷いてお茶の支度を始めた。


「一緒に、王城での会合に参加したんだ。僕はお父様の名代として、クリスは僕の補佐として。会合の時から何だか様子がおかしかった気はしていたんだけど、僕はそのあと王太子殿下のところに行くことになっていたから……そこで別れたんだ」


 私もお兄様の向かいに座り、彼の話を聞く。

 お兄様の前に、侍女長が良い香りのする紅茶を置いた。 


「一応、一緒に行くか聞いたんだけど、『あとは帰るだけですから』って言うものだから……それもそうかと思って、彼を一人にしてしまった」


 お兄様は頭を抱えて俯いた。

 表情から仕草から、すべてから、自分を責める後悔の気持ちが伝わってきて、見ているこちらの胸が痛くなる。


「ところが、待たせてあった馬車の御者は、クリスが『用事を思い出したので、兄上と一緒に帰ります。先に帰って下さい』と言ったというんだ」


 用事? クリストファーが、王城に?

 私は首を傾げる。お兄様――と、謎に時折呼びつけられる私――はともかく、クリストファーは王城に知り合いなどいないはずだ。用事などあるはずがない。

 私だって用事がない方がありがたいくらいなのに。


「妙ですね」

「だろう? しかも、僕が仕事を済ませて迎えを呼んだら『あれ? 坊ちゃんお1人ですか?』と言われて」

「つまり、クリストファーは馬車に乗っていない」


 私の言葉に、お兄様は頷いた。

 彼は俯いたまま、ぎゅっと組んだ自分の手を見つめていた。クリームパンのような手に食い込む爪が、悲愴さを際立たせている。


「でも、もしかして少し、街を見て帰るつもりだったのかも、と思って。ほら、クリスももうすぐ学園に入学するんだし、少しくらい1人で外に出たいと思っても、不思議はないと。いつも、僕かリジーと一緒だったから。……だけど」

「帰ってきても、クリストファーは家にいなかった」


 苦しそうにするお兄様に代わって、続きの言葉を引き取った。

 ひどく小さく、消え入りそうなお兄様の声は、だんだんと嗚咽交じりになっていく。


「馬鹿だな、僕は。クリストファーはそんな子じゃないのに。僕たちに心配を掛けるような子じゃないのに。いつだって、僕やリジーのことを案じてくれる子なのに」


 お兄様のサファイアブルーの瞳から、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。


 私もずいぶんと大人になったと思うのだが、お兄様に泣かれると、やはり困ってしまう。

 この前はクリストファーに泣かれてしまったが、家族に泣かれるのは気分の良いものではない。私以外が原因となれば、尚更だ。


 お兄様の涙が一つ二つと零れていくたびに、すっと心が冷えていくのを感じる。お兄様が取り乱した分だけ、私は冷静になっていく。

 誰だろうな、お兄様にこんな顔をさせているのは。


「何か、心当たりは?」

「……確証は、何もないけれど」

「構いません」


 私が即答すると、お兄様は少し躊躇ってから、声を潜めて答えた。


「会合の時、クリスの様子がおかしかったのは……彼の、元々の家の人が来ていたからじゃないかと、思うんだ」

「元々の家?」

「うちに来る前にいた……クリスと血の繋がりのある、ウィルソン伯爵家」


 その名前には聞き覚えがなかったが、クリストファーの実の親には覚えがあった。今世ではなく、前世で。

 私は顎に手を当てながら、今後の動きを脳内で組み立てていく。


「もし、それが関係しているなら、ウィルソン伯爵家の方なら、何か知っているかもしれない」

「なるほど」

「でも、何も確証がないんだ。本当に何の関係もないかもしれない。なのに、疑うようなことはできないよ」


 お兄様は小さく首を横に振る。

 人望の公爵様らしい答えだ。

 そして、貴族としてはそれが正解だ。証拠もないのに、みだりに他の家との軋轢を生むべきではない。


 そういった仕事は、私がやればよいのだ。


「リジー? まさか、ウィルソン伯爵家に乗り込んだり、しないよね?」

「なるほど? その手がありましたね」


 不安げな様子で聞いてきたお兄様に、おどけて肩を竦めて見せる。

 私が殴り込みをするところでも想像したのだろうか、涙が引っ込んだようだ。

 冗談ですと苦笑いすれば、お兄様の表情もほんの少しだけだが和らいだ。


「さすがに、私もそこまでは致しませんよ。これでも貴族令嬢の端くれです。最低限の弁えはあります」


 にこりと微笑んで立ち上がると、ジャケットを手に取ってドアへ向かう。

 さっと侍女長が後ろに回って、ジャケットを着るのを手伝ってくれた。


「騎士団の詰め所に行って、警邏の騎士たちにクリストファーを探してもらえるよう、頼んできます。顔見知りの私が行った方が、きっと話が早い」

「なら、僕も……」


 お兄様の言葉に、私は首を振る。


「お兄様は、家で待っていてください。もしかしたらひょっこり帰ってくるかもしれませんし……ウィルソン伯爵家のことは、私も気になります。そちらをお願いしたい」


 神妙な表情でそう返せば、お兄様も真剣なまなざしで頷いた。


 お兄様は冷静さを欠いていた。

 だから、気づかなかったのだ。

 いつもだったら、絶対に気が付くはずの、私の嘘に。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る