第32話 人間の腕は2本しかないんだぞ?
季節は廻って、冬が来た。警邏の間も手が冷えるので、手袋を着けている。
騎士の制服に、黒手袋。感じる。女子ウケの波動を感じるぞ。
警邏が終わって訓練場に着替えに戻ろうとしたとき、何者かの気配を察知した。
素早く気配の主の後ろに回り込み、首筋に短剣を突きつけて挨拶をする。
「やぁ、こんにちは」
わずかに息を呑む音がした。
気配の主は、臙脂の制服。顔はよく見えないが、背格好から見て何度か私を呼びつけに来た近衛騎士で間違いないだろう。
「はは、やっと捕まえられた。警邏の成果だな」
ずっと後ろを取られていた。最初は気配すら感じ取れなかったし、辛うじて気配に気づいても、その時にはすでに声をかけられていて、後ろを取るなんて出来なかった。
それはつまり、そのレベルの人間が敵になったとき、私は対処できないということだ。暗殺者を相手取らなければならないというのに、これではいざという時主人公を守れない。
警邏の時、周りの空気を、気配を感じ取ることに神経を集中させていた。
何か異変があったとき、それを素早く知ることが結果的に一番コストパフォーマンスがよいと気づいたからだ。
初動を早くし、こちらが有利に戦える状況を作り出す。そうすれば、実力が拮抗する程度の相手には負けることがない。
それを続けているうちに、感じ取れる気配の範囲が広くなった。
自分の肩に触れられたら、誰だって気づける。それと同じことを、自分の身体の外でも出来るように広げていく。空気に溶け込み、「自分」の範囲を広げるような感覚だ。
人の視線を感じ取れるようになった。
視線を向ける人間の仕草から、敵意の有無を推測できるようになった。
普段と違う様子から、異質なものを感じ取れるようになった。
近衛騎士の来訪を察知できるようになったのは、そして先んじて後ろを取ることが出来るようになったのは、その成果である。
成果が出るのは嬉しいことだ。
機嫌よく短剣をしまう私に、近衛騎士は表情を変えなかった。だが、その身体からわずかに緊張が緩んだのが分かる。
彼はそんなことはおくびにも出さず、いつもと同じ台詞を口にする。
「エドワード殿下がお呼びです」
◇ ◇ ◇
「よく来たね、エリザべス」
部屋に入った私に、殿下がにこやかに椅子を勧める。長居をする気はないので、辞して殿下の次の言葉を待つ。
近衛騎士の後ろを取れたことでご機嫌になって忘れていたが、殿下を前にしてみれば呼びつけられたことへの不満と疑念が勝ってくる。
何故だ。もう呼びつけられることはないと思っていたのに。
「呼びつけて悪かったよ」
「本当に悪いと思っています?」
「いや? そんなに」
「…………」
試しに聞いてみたら、楽しそうに笑ってそう返された。何と厚かましい奴だろう。何様のつもりだ?
……まぁ、王太子様なのだが。
「今日はきみにこれを、と思ってね」
「これは?」
殿下から渡されたものを手に取る。
本当は王族から下賜されたものはもっと丁寧に受け取らなくてはならないのだが、公式な場でもなし、咎める者もいないので良いだろう。
受け取ったのは、白いレースで出来たコースターと、テーブルクロスだ。
コースターに、なんとなく見覚えがある。そうだ、手芸屋に飾ってあった見本のものとよく似ている。
……いや、正直レースの模様の違いとか分からないので、色と大きさが似ている、くらいのざっくりした印象なのだが。
「私が作った」
「殿下が?」
「ああ」
「すごいですね!?」
殿下が、誇らしげにそうだろうと頷く。剣の腕を褒めたときよりも、王になれると言ったときよりも、嬉しそうだった。
「このコースターは、少しバランスは悪いが、初めて目を落とさずに編めたんだ。ドイリーの方は少し大きいが、実は鎖編みと細編み、長編みだけで出来ているから意外と簡単でね。だが、1つ1つは簡単でも、その組み合わせでこれだけ複雑な模様を描くことができるんだ。それが何百通りも、何千通りもあるんだよ」
私がテーブルクロスだと思った物は「ドイリー」なるものらしい。何だそれは。テーブルクロスとは違うのか。
殿下が熱く語ってくれるが、分からない単語が多いので耳を滑っていく。たぶん私にはそれの価値が如何ほどのものなのか分からない。
おそらく材料費を出した私にもお裾分けをしてくれようとしているのだと思うが、価値の分かる人が使った方が物も喜ぶのではないだろうか。
「ご自分で使われては?」
「どこから手に入れたのか聞かれるだろう? 自分で編んだなどと言えるものか」
確かにそれはそうかもしれない。
手に入れた場所であれ、自分で編んだということであれ、正直に話すなら私と抜け出したことを言わなくてはならない。
だとすれば、ある意味共犯者である私が預かるのは必然であろう。文句を言わずに頂戴しておくことにする。
繊細なレースを引っ掛けないように注意しながら、鞄にしまう。
私の手元を満足げに見ていた殿下が、ふと声を上げた。
「エリザベス、袖のボタンが取れかけているようだけれど」
「え? ああ、そういえば」
また忘れていた。
言い訳をさせてもらえば、教官の制服は何着かをローテーションしているので、一度洗濯に出すと次に着るまでに時間がかかり、すっかり忘れてしまうのだ。
「そのうち直します」
「……貸せ」
「はい?」
殿下が私に向って手を差し出している。
意図を測りかねて殿下の顔を見返すと、殿下はいつもの余裕たっぷり王太子スマイルを顔面に貼り付けて、再度手を突き出した。
「次にきみが来るまでに直しておいてやると言っているんだ。貸しなさい」
「……さすがに、王太子殿下にボタン付けを頼むのは」
「王太子命令だ」
そこまで言われては、身分差が絶対の貴族の身ゆえ逆らえない。
しぶしぶ、制服のジャケットを脱いで殿下に渡す。
「代わりと言っては何だが」
ジャケットを渡した瞬間。
ぐいと手のひらに、紙を握らされる。
「その時までに、そのメモにあるものを持ってきてほしい」
しまった。嵌められた。
気づいた時には、もう遅い。ボタン云々は体の良い言い訳だ。実際のところ、私の制服を人質に使いっ走りをさせる気なのだ。
ちらりと紙を見ると、やれ何号の糸だ、編み棒だと手芸に使うであろう品々が几帳面な字でたくさん書かれている。
「試してみたい編み方があるのだけど、それには鈎針ではなく編み棒が5本必要なんだ。前にきみが入れてくれた分では足りなくてね。あとは糸も太さが違うとそれだけで出来上がりの印象が変わるんだ。いろいろと試してみる価値がある」
殿下がまた何やら説明をしてくれるが、右から左だ。
何だ、編み棒5本って。正気か? 人間の腕は2本しかないんだぞ?
「頼むよ。先の短い私の、数少ない楽しみなんだ」
「はぁ」
ただでさえ興味がなかったのに、一瞬で顔が死んでしまった。そうか。被害妄想が落ち着いても、「病弱深窓の令嬢(男)ムーヴ」はまだ残っているのか。
誰か、私以外の転生者が突然現れるなどして、お前は死なないよと教えてやってくれないだろうか。
「よろしくね?」
そう言って微笑まれると、身分の低いこちらとしてはもう断る術がない。
どうやらまた呼びつけられそうだと、私は項垂れながら返事をした。
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