第26話 どこの騎士も壁くらい登れますよ

 窓を叩く。怪訝そうな表情でカーテンを開けた王太子殿下の瞳が、見る見るうちに大きく見開かれていった。

 何秒か呆然としていたが、再び窓を叩くと鍵を開けて中に入れてくれた。


「きみは、どうやって」

「どうやっても、何も」


 今、どこから入ってきたか見ているくせに、妙なことを聞く。


「壁を登ってまいりました」

「壁を!?」

「今日び、どこの騎士も壁くらい登れますよ」


 当たり前のように答えた私の言葉に、王太子殿下は「そうなのか?」と呟く。

 まぁ、登れない騎士もいるかもしれないが、頑張ったら登れる騎士もいると思うので、間違いではないはず。

 問題は、それを実践する騎士はあまりいないだろうということだけだ。


「私が他の誰かにこのことを告げるとは思わなかったのか」


 王太子殿下が、宇宙人を見るような目で私を見る。


「私が今、扉の外の兵を呼んだら貴様の首など簡単に飛ぶんだぞ」

「ははは、それは困りますね」

「困ります、ではなく」

「しかし、律儀に着替えてらっしゃるところを見るに、そのつもりはなさそうだ」


 殿下はぐっと押し黙った。どうやら図星らしい。

 彼は、私が昨日渡したグレーの候補生の制服を身に付けていた。袖が少々余ったのか、腕まくりをしている。


「では、行きましょう」

「どうやって行くつもりだ? 扉は近衛騎士が見張っている。カーテンとシーツで縄でも作って窓から降りるのか」


 殿下なりに、ここを出る手段を考えていたようだ。何だ、やっぱり乗り気じゃないか。


「ご冗談を。ここは3階ですよ」


 私は肩をすくめて見せる。その様子に、何故か殿下はほっとしたような表情になった。

 まぁ、それも私の次の言葉で強張ってしまったのだが。


「たかが3階です。飛び降りるだけで十分ですよ」

「馬鹿を言え、3階だぞ」

「失礼します」


 押し問答をしている時間がもったいない。

 私は断りを入れてから、ひょいと殿下を横抱きに抱き上げる。

 クリストファーよりは重いが、お兄様より軽い。普段訓練場で投げているロベルトたちと比べても軽い部類だ。

 感触も硬く筋ばっていて、筋肉というより骨を感じる。見た目どおりずいぶんと華奢であるらしい。


「な、なん、き、きさまっ」

「舌を噛みますよ」


 不敬と言ってもいい……いや、不敬でしかない私の行動に憤慨しているのか、殿下の白磁の肌が朱に染まる。

 大人びているように感じる殿下だが、こうして表情を変えていると年相応の幼さが垣間見える。それでいて、銀糸の髪が赤い肌に垂れる様はどこか妖艶でもあった。


 なるほど。これがギャップというやつだな。

 その技能を吸収すべく、ぱくぱく口を開け閉めする殿下を見下ろしながら、私は窓枠に足をかけた。


 跳躍は一瞬だった。

 ほとんど音も立てず着地した後、落下の勢いをそのまま身体のクッションに載せて駆け出す。

 腕に抱いた殿下にはたいした衝撃はなかっただろう。


「? ……?????」


 殿下が瞬きをする。

 睫毛が長すぎて、瞬きで起きた風が私にも届きそうだ。


 私に触れているところから、殿下のバクバクという鼓動が伝わってくる。たいそう驚いたらしい。

 それはそうだ。たいした高さではないが、万が一頭を打ったら命を落とす可能性もある。心臓の鼓動が早くなるのもやむを得まい。

 しかしその鼓動はまた、彼の身体が刻む生きたいという証左であると言えるだろう。


 信じられないという表情の彼に、私は挑戦的に笑って見せた。


「もうお帰りになりますか? 殿下」


 その瞬間、彼の肩と鼓動が跳ねる。


「ば、かを、言うな」


 搾り出された掠れた声に、私は笑みを深くした。

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