第11話 泣かれると、どうしてよいか分からない
中心街に近くなったところで、お兄様に肩を叩かれて立ち止まる。
「ここまで来ればもう急がなくても良いと思う。僕は降りて歩くよ」
「そうですか? もう遅いし、このまま私が走ったほうが速いと思いますが」
「妹に背負われているところを見られたら、いよいよお嫁に来てくれる人がいなくなってしまうよ」
「今更ですね」
本当に今更だと思う。
そのくらいで嫁に来るのを嫌がるような女性は端からお断りしてよいと思うのだが。
「あ、あの、じゃあぼくも……」
身じろぎをしたクリストファーの肩を、お兄様がそっと押し留める。
「たくさん歩いて疲れたでしょう? もう少しそのままでいたら? ね、リジー」
「私は構いませんよ」
クリストファーは困ったように私とお兄様を交互に見上げていたが、諦めたのかおとなしく私の胸に体重を寄せた。
「大冒険だったねぇ、クリス」
歩きながら、お兄様がクリストファーの顔を覗き込み、やさしく微笑む。
その声にも眼差しにも、咎めるような色はない。
「まだ小さいのに、こんなところまで一人で来られるなんて。クリスはすごいよ。とても強くて、立派だ」
「ぼくは、その」
クリストファーは、今にも泣き出しそうな顔で小さくなっている。
「……ごめんなさい」
「……ええと。どうして『ごめんなさい』なのか、理由を聞いても?」
優しい兄は、義弟の涙声に些か動揺したようだった。
いつもだってやわらかい声音を、さらに配慮にあふれたものにして、問いかける。
「お、おふたりに、迷惑を、かけたから……ぼくが、勝手に、出かけて」
ぽろりと、大きなはちみつ色の瞳から涙がこぼれた。
一度こぼれたそれは、堰を切ったように次から次へとあふれ出す。
私はまた、「勘弁してくれ」と思った。目の前で泣かれると、どうしてよいか分からない。
先ほど手を引く際に握ったクリストファーの、手のひらの小ささが何故か鮮明に思い起こされた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。お、怒らないで」
「うーん。怒っては、いないんだけど」
お兄様は困ったように笑いながら、クリストファーの頭をそっと撫でた。
「迷惑だとも、思ってないよ。でもね、すっごく心配したんだ。僕も、リジーも」
わずかに顔を上げた義弟の瞳が、お兄様の姿を映していた。彼もまた、どこか泣きそうな顔をしている。
「だから、『迷惑をかけてごめんなさい』も、『怒らせてごめんなさい』も必要ないけれど……『心配かけてごめんなさい』なら、もらっておこうかなって思うんだ」
目を細めて笑うお兄様に、しゃくりあげていた義弟が小さく息を呑んで、ほんの少しだけ頷いた。
それを見て、お兄様はクリストファーの髪をやさしく撫でる。
「今度からは、僕たちに相談してね。屋敷を抜け出すのは得意だから、きっと役に立つよ。リジーはとても強いから、用心棒になるし」
「お兄様、唆さないでください」
私が窘めると、お兄様は眉を下げた。そんな顔をしてもダメである。
危険なことをしたときは、きちんと叱らないと本人のためにならない。
「うーん……どうしよう。やっぱり僕は、誰かを叱るのって苦手だなぁ」
「私が代わりましょうか?」
「そうしてもらえると助かるけれど。でも、リジーはやりすぎそうでちょっと不安かな」
「ぼく」
ぽつりと、クリストファーが言葉を漏らす。
「ぼく、あの。お母様が、生きているって聞いて。それで」
「……そうか。それは、会いたいって思うよね」
お兄様の言葉に、クリストファーは頷く。それを横目に、私はそっと舌打ちした。
おそらく、ゲーム内の回想で出てきた「過去」が今日なのだ。
屋敷に出入りする商人が使用人と話しているのを聞いた、という設定だったはず。今日屋敷に訪れ、噂話をするような商人といえば、おおよそ特定出来る。
もともと我が家と取引したいという店は掃いて捨てるほどあるのだ。上客の子息の噂話を、うっかり本人の耳に入れてしまうような迂闊なやつは、出禁だ、出禁。
何でもないような振りをしていたつもりだが、私が穏やかでないことを考えているのはお兄様にも伝わってしまったようで、ちらりと非難するような目を向けられた。
クリストファーへの態度とずいぶん違うではないか。私の日ごろの行いのせいだろうか。
ダンスの練習相手として倒れるまで回しまくったのを根にもたれているのだろうか。
「でも、お母様は……もう、ぼくのお母様じゃなくなってた」
クリストファーの言葉に、お兄様は目を見開く。そこまでは、お兄様も知らないだろう。
知っていたのはきっと、お父様とお母様。そしてスチルを見たことのある、私だけだ。
「お、お母様……赤ちゃんを、抱っこして……知らない男の人と、楽しそうに、笑って」
クリストファーはまた、ぼろぼろと涙を落とす。
その後の言葉はほとんど、嗚咽になってしまって聞き取れない。
あふれ出る涙を手で拭おうとしているようだが、一向に止まる気配はなかった。やっと聞き取れたのは。
「ぼくの家族、誰も、誰もいなくなっちゃった」
そんな小さな、悲鳴のような呟きだけだった。
その言葉に、お兄様も俯きながら、痛ましそうに胸を押さえている。
さっきから、ほんとうに勘弁して欲しい。私は天を仰ぐ。どうすればよいか、分からない。
兄弟として過ごした期間は一年にも満たないが、お兄様にとっては疑いようもない、大切な弟である。
そしてお兄様ほどではないが、私は私なりに義弟をかわいく思う気持ちもある。
私が飢え死にするとかでなければ、1つしかないお菓子を半分に割って分け与える程度には情もある。ただ、我が身のほうがかわいいだけで。
目の前で、いや、腕の中で泣かれると、困るのである。
助けを求めて、お兄様に目を向ける。お兄様はそれをどう解釈したかは分からないが、きゅっと表情を引き締めて、頷いた。
そしてそっと、クリストファーの手を握る。話しやすいように、私は足を止めた。
「ねぇ、クリストファー」
その声音はやはり、驚くほどやさしくて、聞いているこっちが泣きそうになるような声だった。
「僕たちは一緒に暮らすようになってからまだ日が浅いし、クリスはまだ、そんな気持ちにはなれないと思う。なろうと思って、なれるものではないと思うから」
でもね、と、お兄様は続ける。
「僕たちは、いつか君と、家族になりたいと思っているんだ」
俯いて涙をこぼし続けるクリストファーの身体が、ぴくりと動いた。
抱き上げている私にしか分からない程度の、小さな変化だったが。
お兄様の言葉は、確かにクリストファーに届いている。
「一緒にご飯を食べて、おいしいねって笑ったり。心配したり、心配されたり。困ったときは相談したり、助け合ったり。お父様やお母様には言えない秘密を、こっそり作ったりとかね」
お兄様はそう言って、私にウインクをする。はて、何のことだか分からない。
「リジーは心配することがたくさんあるし、秘密は増える一方だし。僕も仲間が出来たら嬉しいなぁ」
冗談めかして言うお兄様。それではまるで、私がお兄様を振り回しているようではないか。
心外である。時折、物理的に振り回すことはあるけれど。
お兄様のふくふくの手が、クリストファーの小さな手を包みこむ。クリストファーはお兄様の手を握り返すことはしなかったが、振りほどくこともしなかった。
「だからね。クリスがちょっとでも『そうなるのも、いいな』って思ってくれるように、僕たちは頑張るから。急がずゆっくり、待っていてくれるかな?」
問いかけに、返事はない。
それでも、お兄様はそれで十分だと感じたようだった。
そっと手を放すと、私の隣に並んで歩き出す。
クリストファーが泣いている間、いたたまれなくてやたらと早足で歩いていたので、じきに見慣れた屋敷が見えてきた。
そこまで大人しかったクリストファーが、急に慌てた様子で声を上げる。
「あ、あの、エリザベス様。ぼく、降ります、歩けます」
「おや。クリストファーまで乗り心地に文句があるようだ」
「えっ、ち、ちが」
「冗談だよ。このまま帰ったらみんなも心配するだろうからね」
屈み込み、抱えているのを忘れそうなほど軽い義弟をそっと降ろしてやる。そして立ち上がると、何やら視線が横顔を刺した。
横目に見れば、クリストファーが私を見上げている。頬を染めて、何か言いたげなような、何かを堪えているような、そんな顔で。
また私は困ってしまう。
こういうとき、どうするのが正解なのだろうか。
お兄様のような優しい言葉も、気の利いた台詞も出てこない。そんなもの、期待されても困る。
咄嗟に浮かんでくるのは、女性を口説き落とす甘い言葉ばかりである。偏った学習の成果と言えよう。
しばし逡巡した後、私はそっと跪き、義弟に向けて騎士の礼を取った。
結局私には、他人のことはよく分からない。だからここは、私よりも他者を理解しているだろう、理解しようと努力しているだろうお兄様のアイデアを借りることにする。
男の子は誰でも――女の子もかもしれないが――騎士に憧れるものだ。
「私は君の騎士だよ、クリストファー」
騎士の作法は覚えたてだが、十分練習したおかげで自然な動作ができたと思う。
「私は女だから、国に忠誠を誓い、国を守る騎士にはなれない。だから私は、家族を……自分の大切な人を守る騎士だ」
クリストファーの手を取り、そっと指先に口付けた。
彼を救うはずの主人公を、私は奪うことになる。それは揺らがないし、悪いとも思わない。
だが曲がりなりにも姉として、主人公に愛されなかったとしても、彼が幸せであればよいという気持ちはあった。
私が損をしない範囲で、私に実害のない範囲で、適度に幸せになっていてほしいと、そう思う。
だから、せめて。
義弟は口をはくはくと開け閉めしながら、私を凝視している。お兄様を真似て、出来る限り優しく微笑んで見せた。
「私に、君を守らせてくれるかな?」
「ひゃ、ひゃい!」
顔を赤くして、ぶんぶんと頷くクリストファー。さすがはヒーローに憧れる年頃の男の子、騎士様効果は抜群だ。
そのまま立ち上がって、彼の手を引いて歩きだす。お兄様はしばらく私たちを微笑ましそうに、嬉しそうに眺めていたが、そっと隣に並ぶと、クリストファーのもう片方の手を取った。
3人で一列に並んで、ゆっくりと屋敷を目指す。
「お兄様は気にしていないようだけれど、勝手に抜け出すのは感心しないな」
「あう、ご、ごめんなさい」
「リジーが言うんだね、それ」
「罰として、屋敷の外周30周!」
「ふえぇっ!?」
「リジー……」
「あれ? 30周では少なすぎましたか?」
「リジー! 僕の可愛い弟をいじめないで!」
慌てるお兄様を見て、私はにやにやと笑ってしまう。私の顔を見て冗談だと分かったのか、少し遅れてお兄様も噴き出した。
クリストファーは私たちの顔を交互に見上げていたが、やがて繋いだ手を少しだけ、握り返してくれた。
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