第42話 姫君との逃避行、再び

 ヨファはすでに、いつもの余裕を取り戻していた。

「たいした技と度胸をお持ちだ。しかし……」

 もったいをつけて、辺りを見渡す。

「サイレアの勇者だという名乗りも、シャハローミ様の出自も、畏れ多くも国王陛下の心の内も、全てあなたがおっしゃっているだけのこと」

 宮殿の周りは、囁きとざわめきに包まれた。

 ヨファは、すっかりうろたえている国王を見上げた。

「根も葉もない噂は、どこにでも、どこからでも流れるものです。人の口に戸は立てられぬもの、いずれ城の外へも流れ出ましょう」

 そのひと言に、生まれては広がる囁き声の波は、ぴたりと止んだ。

 ヨファはそこで、国王の立つバルコニーを背に、ハマを見据えて言い切った。

「ならば、この場で、噂の源を断つが肝要。陛下がどのように振る舞われたかが、事の真偽を定めるのです」

 その言葉が効いたらしい。

 ヨファの後ろから、国王は穏やかに命じた。

「そなたが正義と信じることをせよ」


 国王の言葉を受けて、ヨファが親衛隊を動かす。

「シャハローミ様に狼藉を働いた不逞の輩を、この場で成敗せよ!」

 親衛隊が、一斉に剣を振り上げる。

 ハマがつぶやいた。

「腹立つの通り越して……気の毒な連中だな」 

 身構えるそばから、次々に刃が降り下ろされる。

 もちろん、ハマが動じることはない。

 微妙な時間差で、紙一重の見切りを見せる。

 だが、背後からの一撃は見えるはずもない。

 騎士に羽交い絞めにされたまま、シャハロが叫んだ。

「危ない……お父様!」

 だが、ハマは最後にかわした剣を、巧みに奪い取っていた。

 身体を反転させると、叩きつけられる剣を片端から弾き飛ばしていく。

 その衝撃の凄まじさに、騎士たちは腕を押さえてうずくまる。

 ハマはそれを見下ろして、言い捨てた。

「お前らごときを、娘の前で殺したくはないからな」


 その間、ナレイはというと。

 巧みな威嚇で騎士たちを牽制し、攻撃を先読みしては剣をかいくぐっていた。

 だが、いかんせん、腕力では未だ及ばない。

 騎士たちを疲れさせることはできても、倒すことまではできなかった。

 未だに、包囲は続いている。

 業を煮やしたヨファが、その輪の中に割って入った。

「では、雪辱戦と参りましょうか。失われたサイレアの王子を騙る、ナレイ君?」

 憎悪を込めた神速の剣が、ナレイの喉元を襲う。

 それが届く前に退いて避けようにも、背後には騎士の構えた大剣の切っ先がある。

 立ち止まったところで、ヨファの振るう大剣が頭上から迫ってきた。

 とっさにかわしはしたが、その先には、包囲を狭めた騎士の剣がある。

 ヨファが横殴りに振るう剣は、もはや地面に伏せて避けるしかなかった。

 あの慇懃無礼な哄笑が、ナレイの頭の上から投げつけられる。

「おやおや、さっき見せてくれた奥義はどうしました? その気になれば、私を真っ二つにできるんでしょう?」

 尻からしゃがみ込んだナレイは、突きつけられる剣の先を見つめるしかない。

 

 屈強な騎士に動きを封じられたシャハロは、実の父親に助けを求める。

「お父様! ナレイを! ナレイを助けて!」

 だが、騎士たちを屈服させたばかりのハマは動かない。

 叫び声は、非難に変わった。

「どうして? サイレアの勇者なら、サイレアの王子を助けて!」

 そこで、ハマはつぶやいた。

 この城の中では、「地獄耳の処刑人」ナハマンと呼ばれた男である。

 だが、聞き逃さないのは、自分への悪口だけではなかった。 

「俺の娘なら、聞こえるはずだ……この声が」

「え……?」

 シャハロは目を閉じる。

 息を呑んで戦いの行方を見つめていた観衆の中から、静かなざわめきが沸き起こっていた。

 ハマは、その娘に説いて聞かせる。

「誰が、何のために、これだけの見物人を集めたと思う?」

「まさか……」

 シャハロは、騎士たちに囲まれたヨファと、目の前の父親とを見比べる。

 ハマは、自信たっぷりに頷いた。

「あのヨファめ、貴族も兵士も使用人も構わずかき集めて、ナレイを晒し者にしようとしたんだろう。だが、その使用人たちで、俺を知らんものはない……『地獄耳の処刑人』ナハマンをな」

「じゃあ、あの声は……」

 シャハロは、後ろから腕を抱え上げている騎士を見上げながら、父親に尋ねる。

 ハマの四角い顔に、不敵な笑みが浮かんだ。

「あとは、ナレイ次第だ。今だけじゃない。今までなにをしてきたか、これで試される」

 シャハロの身体が、微かに震えている。

 だが、恐怖に顔を歪めているのは、後ろにいる騎士であった。

 見物席の周りから、声が上がった。

「行くぞ! ナレイバウスを助けろ!」

「ケイファドキャでの恩を返すんだ!」

 貴族たちゅをかき分けて、兵士たちの群れが動き出した。

 真っ先にうろたえたのは、シャハロを捕らえている騎士である。

 その腕は、するりと抜け出した細い腕に抱えられた。

 瞬く間に投げ飛ばされ、地面に叩きつけられる。

 解放されたシャハロは、血のつながった父親にすがりついた。

「お父様……本当の、お父様……」

 娘の細い背中を、節くれだった指が撫でる。

「済まなかった……怖い思いをさせて」

 シャハロが目を向ける先では、うずくまった騎士たちが逃げ出し、ナレイを包囲していた騎士たちが大混乱に陥っていた。


 ヨファが、逃げる騎士たちを叱り飛ばす。

「何をしている! 騎士の誇りはどうした!」

 それに応える騎士はいなかった。

 代わりに、ヨファの手元から大剣が吹き飛ぶ。

 頭上からは、ナレイの声が響き渡った。

「それは、自分に聞くんですね!」

 身体をすくめたヨファの鼻先を、ナレイの剣先がかすめる。

 王女の婚約者だった男は、惨めにも尻餅をつく。

 かつて見下されていた使用人の少年は、その喉元に大剣の切っ先を突きつけていた。

「もう、これで充分ですよね?」

 そう言いながらも、足腰は疲れと大剣の重さとでふらついている。

 その手を引いて、シャハロが駆け出した。

 ナレイの耳元で囁く。

「私なしじゃ何にもできないんだから……あとは、お父様が……ハマさんが引き受けてくれるわ」

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