第21話 老いた名も無き古強者が去る
だが、河の底に沈んだ石には、藻や苔がまとわりついている。
慣れた老人には何でもないことでも、城から外に出たことのないナレイが足を取られるのも無理はない。
「うわっ!」
滑って転んだところで、身体が水の底に沈んだ。
河の中程で、浅瀬を踏み外したのだ。
これでは身体に巻き付けたシャハロの手紙が濡れてしまう。
がが、それよりも大変なことが起こってきた。
たちまちのうちに、見覚えのある黒い丸太が流れてくる。
「バカモン!」
引き上げた老人の力は、思いのほか凄まじいものだった。
だが、生きた餌を見つけたカワヒトカゲの群れは諦めない。
水しぶきを上げて水面上に跳ね上がると、次々にナレイめがけて襲いかかってきた。
「剣、剣、剣!」
腰から引き抜こうとするナレイの手は震えている。
とても間に合いはしない。
だが、その頭上で眩しい光が何度となく閃いた。
二つに切られたカワヒトカゲの身体が、河に押し流されていく。
老人は、仕込み杖の刃を収めてつぶやいた。
「これが、河の民の技よ」
何事もなかったかのように歩きだす。
その後を、ナレイは恐る恐るついていった。
浅瀬はやはり、右に振れ、左に振れ、時には向こう岸から遠ざかりさえする。
それでも、本当に何も起こりはしなかった。
変わったことといえば、舟が一艘、ひっくり返って向こう岸の岩場に引っかかっていたくらいだった。
それが見えたところで、ナレイは老人の後ろから尋ねた。
「他の舟はどうしたんでしょうか?」
ケイファドキャの兵士たちが、逃げるときに乗っていったはずだった。
老人が、苦々し気に答える。
「流されてしもうたのよ、慌て者どものせいで」
やがて、ナレイは老人と共に河を渡り切って、ケイファドキャ側の岸までたどりついていた。
「ありがとうございました」
素直に頭を下げると、突然、何かが風を切る音がした、
足下に、突き刺さったものがある。
手紙をくくりつけた矢だった。
老人がつぶやいた。
「向こう岸からだな」
そちらを見やれば、もう、ジュダイヤ側の岸には、遠目にも分かるヨファの兜が煌いていた。
頭のてっぺんに不死鳥をあしらった、派手な造りの兜である。
輝く鎧に身を固めた偉丈夫が跨る白馬が、凄まじい速さで流れる河を前に、不安げにいなないた。
その後ろには、弓を構えた兵士たちが控えている。
ナレイは地面から矢を引き抜いて、手紙を開いた。
呻き声を漏らす。
「これは……」
「何と書いてある?」
老人は、字が読めないらしい。
ナレイは答えようとしなかった。
老人は、鼻で笑う。
「言わんでもええ。見当はつく。こっちへ送り返せというんじゃろう。浅瀬を知るために……」
そう言うなり、老人は再び河を渡りはじめた。
ナレイは、慌てて呼び止める。
「待ってください、そっちは……」
言い終わる前に、老人は背を向けたまま答えた。
「構わん! あるべきところに帰るだけじゃ!」
瀬を噛む河の逆白波が立てる轟音をも凌ぐ大音声で答えた。
「行ったら捕まります!」
ナレイは叫んだが、老人は聞かなかった。
「捕虜になろうが拷問にかけられようが、持ち場を離れるわけにはいかん!」
見る間に、老人は河の中程にまでやってきた。
さっき、足を踏み外した辺りだ。
だが、そこからは動こうとしない。
ナレイは、更に老人を呼んだ。
「戻ってきてください!」
声を張り上げると、もっと大きな声が返ってくる。
「敵の前から逃げれば、息子夫婦も孫も命がない! 分からんか、何を言うておるのか!」
喚き散らすなり、老人は、逆手に握った仕込み杖から刀を抜いた。
弓兵たちが一斉に、矢をつがえた弦を引き絞る。
太陽の光に、ヨファの抜いた剣が閃いた。
「射たないで!」
ナレイの悲鳴は、荒れ狂う河の面にかき消される。
放たれた矢が、一塊の雲のように宙に浮かんだ。
それはすぐに、老人の頭上へと覆いかぶさる。
だが、老人が河の中に倒れることはなかった。
刃の閃きと共に、甲高い音が鳴り響く。
二つに斬られて倍の数になった無数の矢は、瞬く間に押し流されていった。
老人は、なおも啖呵を切る。
「ここは通さんぞ、舟が一艘でも残っておるうちはな!」
そのときだった。
老人の手が、胸元にひとつ、飛んできた矢を押し立てたのは。
だが、その身体がカワヒトカゲの餌食になることはなかった。
仰向けに倒れたところに流れてきたのは、ただ一艘、岩場に引っかかっていた舟だった。
老人の身体を載せて、あっと言う間に川下へと流れ下っていく。
向こう岸から、どっと歓声が上がった。
そこで、ナレイの足下に、手紙を括りつけた矢が再び突き刺さった。
「急ぎ帰還の上、味方を誘導して渡河せよ……」
かすかな声で命令を読み上げたナレイは、ジュダイヤ側の岸を眺めた。
怯えてうろうろする白馬をなだめながら、鞍の上のヨファがこちらを見つめている。
ナレイは動かなかった。
ただ、河の冷たいざわめきが聞こえるばかりである。
だが、ナレイは再び、その中に足を踏み入れた。
向かう先には、もともと槍担ぎに雇われた庶民の新兵たちがいる。
浅瀬を渡らせなければ、カワヒトカゲの泳ぎ回る深みに叩き込まれるかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます