第20話 浅瀬を探して渡る謎の老人
「待て」
いきなり呼び止められるまでもなく、ナレイの足はすくんでいた。
轟轟たる河の流れが、その目の前にあった。
ナレイが口も利けないでいると、その声は更に険しくなった。
「ここを渡すわけにはいかん」
そうは言っても、舟など見当たらない。
だいたい、向こう岸までの幅は、それほど広くはなかった。
歩いて渡れるなら、たいした時間はかからないだろう。
「構いません、それなら……」
それだけ答えて、言葉に詰まった。
ヨファは、そんな浅瀬があるとは言っていない。
人が歩いて渡れるところに、獰猛なカワヒトカゲは棲まない。
そう言っただけだ。
ナレイは、河の水面を食い入るように見つめる。
渡るか、渡らざるか。
顔をしかめた鼻先に、長い杖が突き出された。
「踏み込めば死ぬぞ」
そう言うなり、声の主は何やら肉の塊のようなものを放り込む。
荒々しい波の間に、水柱が上がる。
いくつもの黒い丸太のようなものが現れては重なり合い、水の中に消えた。
「ひっ……」
微かな悲鳴と共にナレイが目を背けた先には、顔に深い皺の刻まれた老人の姿があった。
髪は真っ白だが、袖と裾の短い服からは、逞しい腕と脚が伸びている。
「あの、誰……ですか?」
ナレイがおそるおそる尋ねると、老人は杖を引きながら答えた。
「この河の渡し守よ。たったひとりで先のケイファドキャの王から仰せつかって、何十年になろうか」
そう言いながら、胸に提げたメダルを掲げてみせる。
ナレイはそこで、老人の足下にひざまずいた。
「お願いです! 一艘でいいから、舟を出してください!」
老人は、にやりと笑った。
「ものの頼み方を知っておるようだの。雑兵ごときが勝ち戦に乗って居丈高にものを言うようなら、こうしてくれるところじゃった」
そう言うなり、何かが横薙ぎに一閃した。
だが、杖は動いていない。
ぱちん、と音がして、その中に刀が収まったばかりだ。
いわゆる、仕込み杖である。
細かい髪の毛が、ぱらぱらと小雨のごとく降り注いだ。
しかし、ナレイに怯んだ様子はない。
「じゃあ……」
だが、老人は乱杭歯を剥き出しにして意地悪く笑った。
「生憎と、出払っておる。ケイファドキャの軍勢が、全部使うてしもうたからの」
それでも、ナレイは食い下がった。
「じゃあ、どうするつもりだったんですか? もうすぐジュダイヤの軍勢がやってきますよ」
「捕虜になろうが拷問にかけられようが、ないものはない。舟が欲しければ自分たちで作るがいい」
「逃げればいいじゃありませんか。まだ、間に合います」
「そうもいかん。逃げたと知れれば、河の向こうで息子夫婦も孫も命がない」
「どうして、人質なんかに?」
「もともと、ここはジュダイヤでもケイファドキャでもなかった。河沿いに住んでおった民の土地よ」
話を聞けば、この河一帯に住み着いた民は、二つの国の間で、取った魚介類を売ったり交易の仲立ちをしたりして、生計を立ててきたのだという。
ところが、先の王の間で戦が起こり、河の民はケイファドキャに征服された。
そこで定まったのが、現在の国境である。交易による利益を失った河の民の多くは、ケイファドキャへと去っていった。
やがて、ジュダイヤで現在の王が即位したが、他国を征服しても、河の手前の土地を取り返そうとはしなかった。
老いて戦をする気力の萎えたケイファドキャの王から、より有利な条件による交易の申し出があったからだという。
だが、最近になって後を継いだ若い王は、それが面白くなかったらしい。
戦が起こったのは、今まで割りを食ってきた分を取り返そうとしてのことのようだった。
馬の口取りに過ぎなかった少年には、難解に過ぎる話であった。
「そうでしたか……」
再び顔をしかめて考え込んだのを、老人は何か誤解したらしい。
険しい顔が、少し緩んだ。
「おぬしにも、親兄弟はあろう。舟を出すわけにも、逃げるわけにもいかん気持ちは分かろう」
そこでナレイは、再び老人の足下にひれ伏した。
「お願いです! 父さんに……父さんに会わせてください!」
老人の膝が、まっすぐに落ちた。
ナレイの顔を両手で挟んで、持ち上げる。
「では、おぬしの父はケイファドキャに……」
「はい、行商に、行ったきり、こんなことに、なってしまって……」
もちろん、口から出まかせである。
その場で思いついたことを言うしかない。
言葉を考え考え、息を止めて、溜めに溜めてから吐き出す。
それは、いかにも悲しみで声を詰まらせているかのように聞こえた。
老人も、涙を流して同情する。
「そうか、気の毒になあ……」
しゃがみ込んだまま、しばらくむせび泣いていた老人は、やがて意を決したように立ち上がった。
河沿いに歩きだす。
「来い、若いの」
言われるままについていくと、老人は河の中に杖を差し込んで深さを測った。
よし、とつぶやいて足を踏み入れた。
「舟を残らず渡してしまうこともある。そういうときは、こうするのよ」
決して背の高い老人ではなかったが、その膝から上が濡れることはなかった。
ナレイがその後に従うと、老人は杖で浅瀬を探りながら、少し進んでは右に、あるいは左に、何度となく曲がって歩いていく。
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