第19話 河の底から来た危険な罠
夜中にケイファドキャの軍勢が放棄していった陣地まで、たいして時間はかからなかった。
昼前にはもう、ナレイは命令を受けて、地面に倒された天幕や柵の後始末にかかっていた。
「まず、その辺を片づけようか、みんな」
火を放たれた天幕の燃えかすや、打ち砕かれて散乱した材木の破片が、あちこちに散らばっている。
張りつめた顔をしていた庶民の新兵たちは、安堵のため息をつきながら地面を這いずり回った。
確かに、ぼやく者も中にはいる。
「結局、これかよ」
その隣に屈んだナレイは、焼け焦げた材木を共に担ぎ上げながらなだめる。
「いいじゃないか、戦わなくて済むんだから」
「でも、何もしないで帰るのもなあ……」
そのとき、ナレイの肩の上で、材木が跳ね上がった。
新兵が悲鳴を上げる。
「ひいっ! 何だこれ!」
放り出されて地面に転がった真っ黒の杭が、4本の脚を踏ん張った。
身体をもたげると、その先にある真っ赤な口が、ばっくりと裂けた。
しばし茫然としていたナレイだったが、すぐに新兵を背中にかばった。
小剣を抜いて、低い声で囁く。
「……動かないで」
新兵は身体をすくめた。
焼け棒杭が変じた生き物は、喉の奥から鋭く吐き出す鳴き声で、ナレイを威嚇する。
「どうした!」
他の新兵も集まってきたが、ナレイの対峙した化け物をみて後ずさる。
誰ひとり、手にした棒を振るい、腰の短剣を抜いて加勢しようとする者はいなかった。
新兵とナレイと獣を中心に、大きな円を描くばかりである。
ナレイは、怪しげな生き物から目を逸らすことなく、周りの新兵たちに語りかけた。
「落ち着いて……みんなでかかれば、勝てるから」
だが、長い丸太のような黒い生き物は、甲高い威嚇の声を上げる。
ナレイの部下たちは縮み上がった。
だが、怯んだ人間たちに、化け物が襲いかかることはなかった。
「助かった……」
円陣の中心でつぶやいたのは、ナレイではない。
背中にかばった新兵だった。
小剣を構えたナレイの前で、黒い獣は白い腹を見せている。
ひと足ひと足、ゆっくりと近づいたナレイが小剣の先でつついても、動かない。
「さすがナレイ!」
「サイレアの勇者!」
部下たちの歓声を浴びながら、ナレイは荒い息と共に、その場に片膝をついた。
それからしばらくの後。
ナレイは小隊の部下たちを連れて、流れの速い河のほとりに佇んでいた。
その傍らには、鎧をまとったヨファがいる。
最前線の隊長からの命令を伝えに来たのだ。
「驚きました……君にあんな力があるとは」
それは、あの怪物を倒したことを言っているのだった。
ナレイは白く瀬を噛む河の水面を見つめながら、抑揚のない声で答えた。
「ああいうのが、この中にたくさんいるんですね?」
あの生き物は、カワヒトカゲ(川の火トカゲ)というらしい。
ケイファドキャの河川では珍しくないということだった。
真っ黒な身体で川底に潜み、魚などを捕食する獰猛な生き物らしい。
「水がなければ、あっという間にああなるらしいんですが」
陸に上がると仮死状態になるが、人が触ったりすると噛みついてくる。
この習性を利用して、河向こうに逃げるとき、残した陣地に放っておくのだということだった。
ただし、水のないところでは長く生きられないので、逃げ場がないとすぐに死んでしまうのだという。
「渡れっていうんですか? そんなのがいるところを」
その命令を伝えに来たヨファは、励ますように答えた。
「浅いところには棲めないらしいですよ。歩いて渡れるくらいの」
それだけ言い残して、さっさとその場を離れていった。
残された小隊の部下たちは、身を寄せ合って囁き合う。
「つまり……俺たちに浅瀬を探せっていうのか?」
「自分で歩いて?」
「食われるってことじゃないか! 深いところハマったら!」
ひとり残らず、すっかり腰を抜かして縮み上がってしまった。
だが、その背後からやってきた者たちがあった。
貴族出身の新兵たちだ。
「何だ、怖気づいたのか?」
「だったら、あまりいい気にならないでほしいね」
「ゆうべの度胸はどこへ行ったんだい?」
「頼むよ、河さえ渡れば、我々にも出番が来るんだから」
その挑発は、かえって庶民の新兵たちを奮い立たせた。
喧嘩っ早いのが跳ね起きると、貴族の子弟に食ってかかる。
「悔しかったら命張ってみろよ、てめえらも!」
だが、鼻で軽くあしらわれる。
「話を聞いてなかったのかい?」
「こんなのはね、貴族の死に場所じゃないんだよ」
庶民の若者たちが次々に立ち上がった。
凄まじい形相で、貴族の子弟たちに詰め寄る。
甲高い笑い声が上がった。
「おや? 殴るかい? 殴る? 貴族を?」
「庶民から手を出せば、死刑だよ?」
「まあ、カワヒトカゲに食われて死ぬのも同じことだろうけど」
庶民の新兵のひとりが叫んだ。
「構わねえ、だったら、ひとり殺してやらあ!」
だが、そこでナレイが叫んだ。
「やめろ!」
もっとも、叫んだ新兵は聞かない。
「だって! 俺たちに死ねって!」
間髪入れず、ナレイは言った。
「僕が行く。僕ひとりで行く。君たちは、死なない」
貴族も庶民も構わず、その場にいる全員を見渡して告げる。
庶民の若者たちは、目を見開いた。
貴族の子弟たちは、苦々しげに顔をしかめて、その場を立ち去っていく。
ナレイは無言で背を向けると、そのまま急流に向かって歩き出した。
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