第16話 捨て石たちの意地
国境の標識が見えてくると、馬上のヨファは皮肉たっぷりに告げた。
「どうです? 命がけで越えようとした国境ですよ」
その言葉は、優越感と軽蔑に満ちている。
命を助けてやったのは自分。
その危険を招いたのは、姫君を連れ出した使用人。
ナレイも、その辺りは分かっているらしい
まっすぐ前を見つめながら、短く答える。
「あのときは、どうも」
言葉を濁したナレイに、ヨファは苦笑した。
「シャハローミ様がなにをなさるおつもりだったかは、知っています」
その言葉は、少し寂しげだった。
無理もない。
婚約者に拒まれ、普段は眼中にもなかった使用人より劣ると宣告されたのだから。
だが、ナレイがそこで強気に出ることはなかった。
「あれから、シャハロ……姫様は?」
立場を弁え、言葉を選ぶ。
ヨファもまた、丁寧に応じた。
「婚礼には、いろいろと準備がありますので」
そこでナレイは唐突なことを言った。
「生きて帰れるんですか?」
誰が、とは言わない。
自分の心配をしているようにも取れるだろう。
だが、ヨファも生きて帰れなければシャハロと結婚できない。
そう取れば、ナレイが初めて口にした皮肉と取れなくもなかった。
それでも、自信たっぷりな答えが返ってくる。
「ジュダイヤが、ここまでケイファドキャ……隣の国に食い込んでいるんですよ」
敢えて言い直したのは、ナレイが隣国の名など知るはずもないと思い直したからであろう。
事実、そうなのだが。
もっとも、ナレイはヨファに見くびられているなどと気付く由もない。
「弱いんですか?」
そこには、安堵の響きがある。
生きてシャハロの元に帰りたい。
ナレイの望みは、そこにしかないようであった。
戦争も恋も、敵が取るに足りないせいか、ヨファも、余裕たっぷりにくすくす笑う。
「怖いくらいに……ほら、敵の前線が見えてきました。その後ろにある河の向こうまで押しやれば、帰れます」
国境にあったのよりも高い土塁が、長々と連なっているのが見える。
朝食の支度をしているらしい、竈の煙が無数にたちのぼっていた。
それが敵の数を意味することくらいは、ナレイにも分かったらしい。
「どうやって?」
急に不安げになる使用人の声を、馬上の若い軍人貴族は軽く笑い飛ばした。
「そのために、私がいるんですよ……もちろん、君にも十分に働いてもらいます」
真夜中から歩き通しだったジュダイヤの軍勢も、最前線にたどりつくと、朝食を取らなければならなかった。
ヨファの天幕で、その給仕をするのはナレイである。
清らかな水と新鮮な果物、分厚い干し肉で食事をしながら、ヨファは戦場で与える任務を口にした。
「無理です! 僕には」
ナレイは叫んだ。
ヨファの食事が終わるまで、食事はできない。
今は空腹を抱えていなければならないのだが、それも忘れたかのようだった。
ヨファはといえば、カップの水で口をすすいでから、困ったように答えた。
「深夜に、敵陣の前で騒ぎを起こして逃げてくるだけなんですが」
ナレイの任務はこうだった。
夜になってから、新兵たちで構成された小部隊と共に敵陣へと向かう。
背中に何本もかついだ松明に火をつけて、鳴り物を叩く。
挑発に乗った敵の兵士に捕まらないように、全力で逃げてくる。
こうすることで、別のところに隠れていたヨファたちが敵陣に突入できるようにするというのだ。
あとは、相手の混乱に乗じて、最前線の兵士たちが突撃をかけることになっている。
「死んでこいっていうのと同じです!」
ヨファたち斬り込み隊の、そして後から来る本隊の囮になれというのだ。
味方の陣地に逃げ込めればいいが、追いつかれたらそこで終わりである。
だが、そこで返ってきたのは、例のひと言だった。
「逃げたっていいんですよ」
それを口にされたら、ナレイも後には引けない。
食事を済ませて天幕を出ていくヨファの背中に、押し殺した低い声で答えた。
「分かりました」
ヨファの仕事は早かった。
昼前には、もう、ナレイは新兵たちのひとりとして、陣地の一角に集められていた。
目の前には、鉄帽子をかぶった下士官が面倒臭そうに若者たちを整列させていた。
「早くしろ。すぐ終わる」
そう言わなければならないほど、集められた若い新兵たちは雑然とたむろしていた。
中には、平然と口答えする者もいた。
「そんなこと言って、何にも始まってねえだろうがよ」
すぐさま、下士官の平手打ちが飛んだ。
「口よりも足動かせ、足」
先に手が出るのを見て初めて、新兵たちは動きだす。
下士官は、更に吐き捨てた。
「寄せ集めの槍担ぎが」
そこで掴みかかろうとする者もいたが、他の新兵に遮られる。
「やめとけ。さっさと聞こうぜ、面倒くせえ」
捨て石といっていい任務に当てられた者たちである。
初陣を迎えた貴族の子弟などいるはずもない。
ナレイを除いた全てが、報酬目当てに集まった庶民の若者であった。
下士官は、合図とともに集合するように告げただけで、解散を命じた。
「何だったんだよ」
ボヤキの声があちこちで聞こえたが、事情を知るナレイだけは黙っていた。
あちこちに散らばっていく新兵たちを尻目に、天幕の間へと消える。
すっかり日が落ちると、ナレイはヨファのテーブルで、葡萄酒と骨付きの炙り肉を振る舞われた。
「ありがとうございます」
丁寧なお礼の言葉など知らないので、それだけしか言えない。
いや、言うこともなかった。
死ぬ前に振る舞われる最後の晩餐を静かに味わうナレイを見下ろして、ヨファは尋ねた。
「昼の間、何か拾って歩いていたようだけど……何だったんですか? あれは」
「たいしたもんじゃありませんけど」
食事の手を止めたナレイは、ヨファを大真面目な顔で見上げる。
「松明を、人数の3倍だけ用意してください」
そう告げると、再び、黙々と口を動かしはじめる。
きょとんとしていたヨファは、天幕から顔を出すと、手近な兵士に命令を伝えた。
集合は深夜にかかった。
叩き起こされた新兵たちは、寝ぼけ眼をこすりこすり、それでも殴られないように整列する。
その目を覚ましたのは、現れた鉄帽子の下士官の命令だった。
新兵たちの罵詈雑言が飛び交う。
「何だそりゃ!」
「できるわけねえだろ!」
「帰るぞ俺たちゃ!」
口々に喚きながら散らばろうとするところを、他の若い新兵たちが包囲する。
貴族たちの子弟だった。
「そっちは金で雇われてるんだ、そのくらい当然じゃないかな」
「こっちは、義務で来てるんだけどな……貴族としての」
手にした槍やクロスボウをつきつけられて、庶民の新兵たちは腰を抜かした。
ただひとり、立っていたのはナレイひとりだった。
そこで、貴族の若者たちがざわめく。
彼らの熱い視線を浴びながら現れたのは、ヨファだった。
「事前に話しておいてよかった。君だけは信じていたよ、ナレイバウス君」
だが、たじろいだように立ち止まった。
じっと見据えるナレイは、口を開く。
「槍担ぎに雇われた人に、もっと危ないことをさせるんです。それなりのものは下さいますね?」
ヨファは、肩をすくめて笑った。
「信じてますよ、生きて帰ってくれると」
そう告げると、貴族の新兵たちを見渡した。
若者たちは、武器を収めて解散する。
姫君の婚約者ということで、よほど信用があるのだろう。
ヨファも庶民の新兵たちに背中を向けたが、ふと、ナレイに振り向いて言った。
「松明は揃えておきましたよ」
残された庶民の若者たちは、その場にうずくまったまま、動こうとしなかった。
ナレイは、その全員に向かって、きっぱりと言い放った。
「恐れなければ、生きて帰れる」
いつになく毅然とした態度だったが、それはどこか、あのハマに似ていた。
若者たちは、何かに打たれたように背筋を伸ばす。
だが、すぐにまた、不貞腐れた。
「お前、城の使用人だろ」
「あの若様の馬の口取って、へいこらしてるだけじゃねえか」
「城の中でぬくぬく育った連中に何が分かる」
ナレイは目を伏せて、その悪態を聞いていた。
だが、そういった言葉は、いずれ数が尽きる。
当たりが静まり返るのを待って、ナレイはひとりひとりを見つめて言った。
「そうだ。僕は城の中で、偉い人たちに頭を下げて育ってきた。君たちに、家族はいるか? 僕にはいない。話し相手になってくれるおっさんと……好きな人が、ひとり。その人たちのために、生きて帰りたい」
若者たちが、ひとり、またひとりと立ち上がる。
「分かったよ」
「城の中のヤツに説教されたかあねえからな」
「だけど、怖いもんは怖いぜ」
そこでナレイは、足もとに並べた梯子を配る。
ヨファが戻ってきた。
「見送りに来ましたよ……そうそう、あの晩、深夜に騒ぎを起こした連中が4~5人、死刑になったそうです」
それは、逆らえば命がないという脅しでもあった。
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