第15話 三つの輪と四つの思い込み
こうしたわけで、次の夜から、「サイレアの伝説の勇者」になりすますための特訓が始まった。
ナレイは深夜に起き出すと、小屋の裏でハマを待つ。
毛布で隠された、大穴の前だ。
「誰も……見てないよな」
要らぬ心配であった。
これを開けたハマの怒りに触れるのが恐ろしいのか、近くを通る者は昼日中にもいない。
ましてや、夜中に特訓を覗き見る者など、あるはずもない。
やがてハマが、のっそりとやってきた。
ナレイもまた、じりじりと後ずさる。
「ハマさん、あの……それは?」
その手にあるのは、どこからか持ち出してきた物干し竿だった。
竿の先をナレイに突きつけたハマは、聞かれたことに答えもしない。
まず、言いたいことだけを告げる。
「お前のいかんところは、自分を鈍臭くて根性なしでバカだと思ってることだ」
「それは……前に聞きました」
奴隷根性とかいうものの話らしい。
痛いところを蒸し返されて小さくなるナレイを、ハマはさらに叱りつける。
「何でそうなるか、分かるか?」
ナレイはそのまなざしをあちこちにさまよわせて、困り果てる。
「全然」
不機嫌な声が吐き捨てるように、自分の問いに自分で答えた。
「目の前のものや出来事にこだわってるからだ」
「……よく分かりません」
目をしばたたかせるナレイに向かって、さらにハマは説教を続けた。
「いつ! どこ! だれ! なに! この四つにとらわれてるから、お前はお前でしかねえ」
ナレイはもう、ハマを見てはいない。
話が難しすぎたと思ったのだろう、ハマは咳払いをひとつして付け加えた。
「こいつのどれかをずらせば、お前は俊敏で、勇敢で、賢く見える」
呆然としたままのナレイは、返事もしない。
するとハマは、物干し竿を両手に構えてみせた。
「ここは昼間の戦場だ。俺は敵の兵隊だ。手に持ってるのは槍だ……どうする?」
そう言うなり、しゅっと息を吐いた。
目を見開いたナレイの前に、竿の先が迫る。
だが、それは鼻先で消えた。
ハマの手が止まったとき、物干し竿はナレイの耳もとにあったのだった。
「……これは?」
いま気づいたという顔で尋ねるナレイに、ハマは理屈抜きのひと言で答えた。
「そういうことだ」
戦場の槍に見立てられた竿の先は、俊敏に、紙一重でかわされていたのである。
さらに、次の夜だった。
小屋の裏で待っていたナレイに、有無を言わさずハマは告げた。
「まず、座れ……膝を折って!」
早い話が、正座である。
ナレイはおずおずと尋ねた。
「あの……僕が何か」
それには答えず、ハマはあぐらをかく。
ひといきついて、おもむろに言った。
「ここは朝の奴隷小屋の中だ」
「え?」
ナレイは辺りを見渡す。
ここは小屋の裏手で、今は人の寝静まった真夜中だ。
さらに、ハマは突拍子もないことを言う。
「俺はシャハロだ」
「……はい?」
小首を傾げたナレイの前に、石の塊りのような拳が突き出された。
座ったままのけぞるナレイを見据えて、ハマは問いかける。
「手に持ってるのは、甘い棗の実だ……どうする」
「どうする……って、それは」
ナレイは、口ごもって身体を強張らせる。
その横面めがけて、唸りを上げて飛んできたものがあった。
ハマの拳だ。
「え……?」
ハマの太い腕は、身分の割には指のしなやかな手で止められていた。
唖然とするナレイに、ハマは事もなげに答える。
「本当はな、お前にゃそれだけの力があるんだ……根性なしでもなんでもねえ」
そのまた次の夜になると、ハマは小屋の裏で、こう言った。
「ここは14年前のお城だ」
もう、ナレイに怪訝そうな様子はない。
頷いたところで、ハマは重々しい声で告げる。
「俺は……3歳の時のお前だ」
いかつい顔が、まっすぐに少年へと向けられていた。
見開かれたナレイの目に、驚きはない。
さらに、ハマは語りかけた。
「手には……何も持ってない」
しばらくの間、ナレイは動かなかった。
ハマは、それを責めもしなければ急かしもしない。
そのうち、ナレイの目からは、とめどない涙がこぼれ落ちた。
しなやかな両の量の腕が、ゆっくりと差し出される。
やがて、四角いハマの身体は、まるで壊れ物でも扱うかのように、おそるおそる抱きしめられた。
「僕は……」
微かにつぶやく声は、それ以上、言葉にならなかった。
ナレイは、ただ子どものようにしゃくり上げる。
俊敏さ、勇敢さに続く、もうひとつの資質があるのかを訪ねることもできない。
ハマは半ば呆れたように、しかし笑いながらたしなめた。
「それは、賢いんじゃねえ……優しいんだ」
やがて、ナレイが最前線に送られる日が近づいてきた。
ハマの特訓には、ますます力が入る。
「勇者に見せかけようと思ったら、何があっても恐れるな」
「分かっては……いるんですけど」
力なく答えるナレイに、ハマは面倒くさそうに言い直した。
「怖くても、そういう顔はするな」
「じゃあ、どんな顔を?」
いちいち訪ねてくるナレイに、ハマのぶっきらぼうな声が答えた。
「いつもどおりの顔してろ」
それを神妙な顔で聞いているナレイの顔は、もう強張っている。
ハマは、さらに短く、ぼそりと答えた。
「気持ちの持ちようだ」
そう言うなり、はったとナレイを睨みつける。
見据えられた少年は、動かなくなった。
ハマが、その秘密を説いて聞かせる。
「これが、相手をを取り込む輪だ」
「輪?」
聞き返すナレイの周りをぐるっと回りながら、ハマが答える。
「お前を真ん中にした輪を思い描け。まず、相手をその内側に閉じ込めろ」
さらに、城壁を指差す。
「この向こうにあるものだって、見える限りはお前の中に取り込んでしまえ」
そして、ナレイの胸を指差す。
「心が折れそうになったら、お前自身の心を見つめるんだ」
そこで、手を叩いてみせる。
夢から醒めたときのように、ナレイの身体は微かに震えた。
ハマは、おもむろに警告する。
「だが…こいつを間違えると、ハッタリが利かなくなる」
そこでナレイに投げてよこしたのは、長い棒だった。
ようやく、双方とも長い棒を持って向かい合う特訓が始まった。
もちろん、睨みあいに負けるのは、いつもナレイのほうだ。
目をそらすたびに、ハマに怒鳴りつけられる。
「逃げるな! 相手を自分の中に取り込むんだ。お前がしっかり目え見てれば、相手は動けねえ」
そのうえで教え込むのは、こけおどしでしかない棒の構えだ。
見よう見まねで棒をふりかざすナレイの前で、ハマはぼやく。
「さすがに、殴り合いで勝てるまでには仕込む間がねえ」
ナレイがハマを見据えて構えられるようになると、更に課題は厳しくなる。
相手にするのは、ひとりとは限らないからだ。
「世界を取り込め。目に入った奴の向こうを見ろ。お前は注目されるが、向き合った人数分、強く見える」
もっとも、目の前にいるのはハマひとりなので、できるのは心構えを説くことだけだ。
そこで、奥の手が伝えられる。
「それでもダメなら、お前の鼻先に目え落とせ。心に壁ができて、何にも怖くなくなる。それが、心を守るための、自分の周りだけの輪だ」
特訓を重ねるたびに、月はどんどん欠けていく。
そして、月のない夜。
ジュダイヤの精鋭部隊は、静かに城の門を出ていった。
選び抜かれた強者たちに、その武器を担いだ見習いの新兵や荷車の群れが続く。
それを率いるのは、国王の末娘シャハローミの婚約者ヨフアハンだった。
馬上の端正な姿を見上げる、槍持ちの新兵たちが囁き合う。
「勝って帰ったら、親衛隊長だとよ」
「お姫様に出世か……両手に花ってヤツだな」
その白馬の轡を取るナレイのことなど、誰ひとり口にはしない。
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