第3話 婚約前の姫君の切実な願い

 信じがたい話だった。

 そもそも王侯貴族の考えていることは、使用人に過ぎないナレイには見当もつかない。

 ただ、どうしても納得できないことがあった、

 いくら庶子とはいえ、末娘のシャハロが国王の愛情を一身に集めていたということである。

 10人は下らない兄弟姉妹はそれなりの家柄の生まれで、その背後には名だたるな将軍や高官たちが控えているという。

 それでもなお、国王は何の後ろ盾もないシャハロに心を奪われているようだった。 口さがない使用人たちの中には、娘というよりは若い恋人に入れ込んでいるようだと陰口を叩く者もいる。

 その娘に断りもなく、いきなり婚約者を紹介するなどということが、父親としてありえるだろうか。

 シャハロは背中を丸めて、全身にあふれ返る怒りを抑えようとしているようだった。

 とりあえず、話をそらすしかない。

「で……どんな人なの? その、ヨフアハンって」

 ナレイにしてみれば「人」ではなく、「ヤツ」で充分であったが、そんな言葉でシャハロの怒りを買っても仕方がない。

 とにかく、溜め込んだ怒りを少しでも早く、少しでも多く吐き出させる必要があった。

 シャハロは、口にするのも腹立たしいというように、ぽつりぽつりと語りはじめた。

「お父様の……国王の親衛隊の、若い人。家は代々、隊長を出してきた貴族なんだって」

 それだけでもナレイは面白くない。

 身分の上では言ってはならないことが、抑えに抑えても抑えきれず、口をついて出てしまった。

「親の七光り……」

 途中でまずいと気付いて口を閉ざしたが、シャハロは首を横に振った。

「今、すごく出世してるみたい。最近の戦争でも、お父様の目の前で、最前線を突破してみせたんだって」

 この城にやってきてからというもの、他国との間で戦争がなかった年はない気がする。

 国王も自ら戦場に立つべく、兵を率いて城の門を出ていく。

 戦も小競り合いで済めばいいが、国王が凱旋してくると祝宴が開かれるので、その度に城の中が戦場のような騒ぎになるのだった。

 それで振り回されている身としては、シャハロの相手が順風満帆の人生を歩み始めているのが面白くなかった。

 言ってはならないひと言を口にしてしまったのは、そのせいでもあろう。

「それはまた、いかつい……」

 せめて容姿の上では、美しく育った幼馴染と不釣り合いな男であってほしいといったところだろう。

 これも火に油を注いで怒りをさらに煽り立てかねなかったが、シャハロはさらりと答えた。

「いい男よ。頭も切れるし……ずっと、お父様も目をかけてたみたい。貴婦人たちにも羨ましがられたわ、私……もちろん、姉君たちにも」

 婚約者ヨフアハンのことよりも、むしろ姉たちのことを皮肉たっぷりに口にする。

 シャハロに兄と姉がそれぞれ何人いるかは、ナレイも聞いたことがない。いちばん触れたがらない話題だからだ。

 だが、兄弟姉妹の争いは熾烈らしい。

 国王は才覚のある者を重んじるという。地位や身分にあぐらをかいていて、肩書だけ残して冷や飯を食わされた者の噂話は、ナレイもしばしば耳にしていた。

 王族の中でも、それは例外ではないらしい。

 それを考えると、どうも婚約者にはけなす余地がない。

 迂闊に口を開いて、シャハロの怒りを煽らなくても済みそうだった。

 そうはいうものの、最後のひと言は素直に出てこなかった。

「じゃあ……どうしたいの? シャハロは」

 返事は、聞かなくても見当がつく。

 言いたいことを言うだけ言って、父王の決めた相手と結婚するしかない。

 ナレイの胸は、苦しくなるほど締め付けられた。

 しかし、シャハロの口から出たのは思いがけない言葉だった。

「連れ出してほしいの……私を。この城から!」

 あまりのことにしばし、ナレイは呆然とするしかなかった。

 やっとのことで我に返ると、最も基本的なことをぽつりと尋ねる。

「どこへ?」

「ナレイが考えて」

 すっかりもとのシャハロに戻っていた。

 それはそれでいいのだが、事は更にややこしいことになっていた。

 というよりも、危険極まりない。

 ナレイはこの城に来てこのかた、城壁の外へ使いっ走りに出たこともないのだ。

 ましてやシャハロは、城の外のことは何も知らない。

「……できない」

 このひと言も、初めてのことだった。

 ナレイはシャハロの頼みを断ったことがない。

 だが、これだけは無理だった。

 シャハロは再び、ナレイをまっすぐに見つめる。

「ナレイしかいないの、私には」

 胸の奥がずきりと痛んだが、それはあくまでも、ものを頼む相手という意味に過ぎない。

 聞いてしまったら、命がない。

 逃げても、国王が追手を放てば必ず捕まる。

 ナレイは処刑され、シャハロも国王の愛情を失う。

 たとえ逃げきれたとしても、行く先は国の外だ。

 城の中しか知らない者が、国の外で生き抜けるわけがない。

「ごめん、シャハロ」

「……分かった」

 それ以上、口答えの言葉はなかった。

 壁の毛布を跳ね上げたシャハロは、青い月の光の中に華奢な影だけを見せて、幻のように姿を消してしまったのだった。

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