第4話 地獄耳の処刑人が焼く恐怖のお節介

 今までのことは夢だったのだと諦めて寝ようとしたところで、小屋の戸を激しく叩く音がする。

 ナレイは再び跳ね起きた。

 壁の毛布を押しのけて、大穴から首を出してみる。

 見渡す限りそびえている城壁は、月明りで真っ青に染め上げられている。

 曇りも、陰りもない。

 ましてや、人影などは一点もありはしなかった。

 男装のシャハロは既に、駆け去ってしまっていた。

 これで誰が小屋に訪ねてきていようと、何を心配することもない。

 その間にも絶え間なく打ち叩かれていた小屋の戸を開けると、月明かりを背に、四角い影が立っていた。

「人が来ておったろう」

 開口一番、ナレイを問いただす。

「いや、ハマさん、こんな夜中に誰が」

 ここは、もちろんシラを切る。

 だが、このハマという四角い男、そんなことはお構いなしである。

「男のなりをした娘が来ておったろう」

 そう言うなり、ナレイを押しのけてずかずかと小屋に入り込んだ。

 夜目が効くのか、暗がりの中からあっさりと火口箱を拾い上げると、さっさとランプに火を灯してしまった。

 ぼんやりした光の中に現れたのは、どっかりとあぐらをかいた、大柄な男である。

 ひどい火傷でもしたのか、その四角い顔は醜くただれている。額には、深い皺が刻まれていた。

 その、肩と顔のエラの張った老人は、白髪の混じった銀色の頭を掻き掻き、戸を閉めるよう促す。

 ナレイは背中で戸を閉めると、わざとらしいまでの笑顔で、ハマとかいうこの老人に答えた。

「いいえ……誰も」

 ハマはしかめっ面を返してみせる。

「やめねえか、その顔。見ただけで分かるぜ、嘘だって」

「そんなことは……」

 ナレイがなおも言い訳しようとすると、ハマは壁にかかった毛布を見やった。

「おおかた、そこから逃げたんだろうよ。俺が戸を叩いてる間にな」

 確かにその通りだが、それなら反対側の壁から逃げ去ったシャハロの姿が見えるはずもない。

 ナレイはなおもごまかしにかかった。

「ここに若い娘がいたとして、どうして男のなりをしていたって分かるんですか?」

 まぐれ当たりあたりかもしれない。

 大した根拠もなく言い切ったのであれば、ハマがそれを認めるまで、しつこく質問すればいい。

 少なくとも、ここに若い娘がいたかどうかについては話をうやむやにできる。

 ところが、ハマはとうとうとまくしたてた。

「男と女の逢引なんていうのはな、人目についたらおしまいよ。絶対に見つからねえところならいいが、こんな城の中の小屋、声でも漏れたらすぐ踏み込まれちまわあ。抜け穴はあっても逃げるとこを見られちゃ、夜明けとともにいい噂の種だ。最初から逃げおおせようと思ってたら、走りやすいように男のなりで来るだろうよ」

 シャハロは逃げるときのことまで考えて、男装で来たのだろう。そういえば、子どもの頃から身が軽く、足も速かった。

 ナレイには、返す言葉がなかった。

 そこでハマは、余計なひと言を付け加える。

「……もっとも、いざってときは諦めなくちゃなんねえがな」

 最後にハマが浮かべた卑猥な笑いを見て、ナレイは恥ずかしさでうつむいた。 

 言いたいことは、だいたい分かる。

 これさえなければ、ハマは使用人の中でも特に面倒見のいい男で通っているのだ。

 もっとも、それが行き過ぎて、かえって迷惑になることもあるのだが。

 ナレイがなおも黙っていると、ハマはひとりで考え込んだ。

「待てよ。ここの使用人で、こんな夜中まで起きていられるような根性の座った女がいたか? 昼間のアレで、正体失くして寝ちまわねえのは俺とナレイくらいのもんだろうに」

 ナレイは夢も見ないで寝ていたところを、シャハロの侵入で叩き起こされたのだった。

 針一本落ちても目を覚まし、どんな遠くからでも自分の悪口は聞き逃さないハマと一緒にされては困る。

 本当の名はナハマンというが、使用人たちはハマと縮めて呼ぶか、恐怖と畏敬を込めた蔭口で「地獄耳の処刑人ナハマン」と二つ名を含めて呼ぶかのどちらかであった。

 だが、地獄耳はともかく、この男は死刑執行人でも何でもない。

 ただの馬丁である。

 それがなぜ、こんな仰々しい名前で呼ばれているのかというと、事情はいろいろあった壁の大穴に関係していた。

 似たようなことがあるといけないので、ナレイは丁重な言葉でハマを追い出しにかかる。

「まあ、その話は明日、ゆっくり……」

「いや、納得いかねえ、今夜中にケリをつける」

 いったんこだわりだすと、とことんまでやるのがハマである。

 こうなると、何を言っても無駄だった。

「……どうぞ」

 ナレイは、諦めて扉を背に座り込んだ。

 ぶつくさいうハマの声は止まらない。

「そうすると、使用人じゃねえ。ってことは、もっと身分の高いお女中のどなたかってことになるが……」

 愛想笑いと共に、ナレイはごまかした。

「まさか、僕にそんな甲斐性が」

 だが、ハマはそこで、ふと何か思い当たったようだった。

「そう言えばお前、小さい頃……」

 この流れで行けば、シャハロの名前が出てくるのは時間の問題だった。

 事故とはいえ、シャハロの胸を触ってしまったり、その身体を抱きしめてしまったのが災いした。

 やましいことがあるので、つい若い女がいたことをごまかしてしまったのがいけなかった。

 ナレイは大慌てで、悪あがきをする。

「男のなりをした娘って言いましたけど、なんで男じゃないって分かるんですか?」

 最初から、そう聞けばよかったのだ。

 だが、ハマはあっさりと切り返した。

「この小屋に男は来ねえ。そうだろう?」

 ナレイは頷かざるを得なかったが、それにはわけがある。


 話は、壁に大穴が開いたときにさかのぼる。

 ナレイの住む小屋は、もともと何人もの使用人が雑魚寝に使っていたものである。

 その時は大穴どころか窓の穴さえもなかっったのだが、これがゴタゴタの発端だった。

 昼は働いて夜は寝るだけなのだから、別段、窓が開いていなくても差し支えはない。

 ところがある朝、使用人部屋からナレイが出てこなかったことがあった。

 前の日、たまたま顔を合わせたシャハロが冗談で投げキッスを贈ったのが原因である。

 それをやっかんだ他の使用人たちが、夜中に袋叩きにしたのである。

 昼近くになって起き出してきたナレイは、使用人頭に殴り飛ばされても本当のことを言わなかった。

 小屋に窓がないために、朝が来たのが分からなかったと言い訳したのだ。

 それを聞くなり、大槌をかついで走りだしたのがハマだった。

 小屋の壁への一撃で大穴を開けると、他の使用人小屋にも窓を開けようとした。

 城を挙げての大騒ぎとなり、壁の上で外敵の侵入を見張っているはずの衛兵まで下りてきた。 

 結局、これがきっかけで国王が使用人小屋に窓を開けよと命令するまでに至ったのだった。

 同じ小屋にいた使用人たちは残らず、別の小屋に移りたいと言い出した。

 かといって、ナレイと同じ小屋で寝泊まりしようという者もない。

 結局、大穴の開いたこの小屋に窓は作られず、代わりに主がひとり迎えられることとなったのである。


 あの後、当のハマはというと、衛兵たちに取り押さえられ、きついお叱りを受けた上で檻に閉じ込められていた。

 本当なら城を追い出されるところであるが、これも国王のお声がかりでうやむやになった。

 何でも、ハマが面倒を見た馬はどれも駿馬となるので、将軍たちが惜しがったのだという。

 そういうわけで、耳ざとくはあるが、いったん頭に血が上ると手が付けられなくなるので、「地獄耳の処刑人ナハマン」の二つ名がついたのだった。

 そのひと言が、ナレイの心を鋭くえぐる。

「姫様だな。幼馴染の」

 小屋の話になれば、どうしても夜通し殴られる理由になったシャハロの話にならざるを得ない。

 ナレイは観念して、頷いた。

「相談が……あるって」

 そこまで口にしてしまうと、あとは言葉が勝手に出てくる。

 ナレイを養ってくれた使用人夫婦がまだ生きていた頃から、こんなふうに何かと話を聞いてもらったものだ。

 今度もそれだけでよかったのだが、困ったことに、ハマの性分では放っておけなかったらしい。

 ひととおり事情に耳を傾けた後で、逞しい胸を叩いた。

「任せろ……九分九厘まではお膳立てしてやる」

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