第2話 幼馴染の姫君の思いがけない告白

 ナレイは言葉に詰まった。

 この場合、「大人になる」というのが何を意味するのか、聞き返すのは野暮というものだった。

 そもそも、こんな話は国王とその周辺でのみ、内密に進められるものである。

 確かに多少、外に話が洩れることもあろうが、国王には10人を超す子供がいることだ。

 そろそろ30歳にもなろうかという嫡男も、まだ独身である。こちらのお妃探しが進んでいるのだろうというくらいの噂話で済んでしまう。

 使用人たちがそうそう、詳しいことを知っていようはずはなかった。

 だから、この日、朝早くから叩き起こされたのも、前々から予定されていた昼の宴会の準備のために過ぎなかった。

 ところが、この宴会、実は婚約が宣言された後の、昼食を兼ねた披露宴だったのである。

 もっとも、ナレイは使用人の中でも、その宴会の給仕ができるような立場ではない。給仕に料理を渡す仲介役があり、さらに広い厨房で仲介役に皿を渡す仕事があり、更に厨房へ食材を運び込む仕事があり、その前には倉庫から食材を運び出す役目があり、その食材を出入りの商人から受け取る仕事がある。

 ナレイの仕事はその前の、商人の車を引く馬や驢馬や騾馬の轡を取って城内に招き入れることだった。

 宴会は昼から夕方まで続いたが、この宴会ひとつで城の食糧庫を空にするわけにもいかない。

 客が盛大に食った分を補うために、山海の珍味からありふれた肉や魚や野菜に至るまで、山のように摘んだ馬車はひっきりなしにやってきた。

 そんなことができるくらい、このジュダイヤ王国は広いのだった。

 長い年月をかけて征服した国のひとつからやってきた最後の1台を招き入れると、ナレイはもう、目が回りそうだった。

 日がくれて使用人小屋に帰ろうとしたときに、面倒見のいい年老いた馬丁が教えてくれたのが、シャハロの婚約だったというわけである。

 ナレイも男である。この年になって、知らないはずがない。貴族の子弟ならいざ知らず、男も女も口さがない使用人たちの間に揉まれて暮らしていれば、惚れた腫れたの、手を出したの出さないの、孕ませたの孕ませないのという話は、かなり微に入り細に入り、イヤでも耳に入ってくる。

 ましてや、幼馴染のシャハロが婚約するなどという話を聞かされれば、ナレイも木石ならぬ健康な男子である。

 考えたくはなくとも、婚約、結婚と進んだその夜のことは、頭の片隅から湧き上がらないわけがない。

 いったん煙が立ってしまえば、頭の中は燎原の火が燃え広がるがごとしである。

 悶々として食事も喉を通らず、毛布をかぶって横になると、そのまま意識を失って眠り込んでしまったのである。

 だが、目が覚めてしまえば、ナレイも男である。

 シャハロの薄い胸の感触が、掌に蘇る。

 絡みあった腕や脚、触れ合った肌のぬくもり、髪と汗の匂いが思い出される。

 再び、シャハロを女として、男の腕で抱きしめたいという思いが沸き上がってくる。

 一瞬だけ、そのためなら命もいらないとさえ思う。

 だが、シャハロの立場を考えれば、それもできないことだった。

 国王の愛情を一身に集めているが故の婚約である。

 これが台無しになれば、兄弟の中で蔑まれ続ける、みじめな人生が待っている。

「子供みたいなこと言うなよ」

 気持ちを落ち着かせようと、深く息を突きながら言ったことがシャハロの癇に障ったらしい。

「子供でいい! いつまでも!」

 本当に子どものように愚図り出す。

 正直なところ、いつものシャハロが戻って来て安心はした。

 だが、こう感情が高ぶっていては、いつ大騒ぎを始めないとも限らない。

 これを他の使用人たちに聞きつけられるわけにはいかなかった。

 とりあえず、逆らわないようにして話を聞き続けるしかない。

「よかったら……教えてよ。何がイヤなのか」

「全部」

 ただのワガママなのだが、何故か、その返事が嬉しかった。

 だが、それではシャハロが癇癪を起こしたまま、話が終わってしまう。

「いっぱいあると思うんだけど、いちばん嫌なのは……何?」

 シャハロは、そこで口を閉ざした。

 肩が震えだす。

 思わず押さえようと手を伸ばしかかる。

 だが、抱きしめてしまいそうで、それこそ何かしてしまいそうで、ナレイはぐっと身体をすくめる。

 そこで気付いたことがあった。

 ランプの灯がぼんやりと照らす床に、点々と黒いしみが見える。

 今まで見たことのない、シャハロの涙だった。

 お転婆娘が初めて、ナレイの前で泣いていた。

「今日、初めて会ったの……ヨフアハンに」

 聞き慣れない名前だったが、それが婚約者なのだと察しがついた。

 どうやら、顔も知らない相手だったらしい。

 気の強いシャハロが怒るのも無理はなかった。

 だが、気持ちを鎮められなければ、ここから帰すこともおぼつかない。

「でも、どんな相手かは聞いてたんだろ?」

 高貴な人たちのしきたりは、よくわからない。

 だが、遠くから嫁を迎える農民などには、結婚式まで相手の顔を知らなかったということは、よくあると聞いたことがある。

 それを考えると、シャハロがこの日、初めて相手に引き会わされたのもやむを得ないのかもしれなかった。

 しかし、シャハロは声を震わせながら言った。

「そこで聞かされたの……私、婚約したんだって」

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