第11章ㅤ蘇りし記憶

 それは偶然か、それとも避けられなかったことなのか。

 首元にある鋭利な刃物。力強い腕によって拘束されて抵抗できずにいるユリウスは、ただ目の前にいる者に助けを求めるしかできない。


「助けて……、トーマ」


 もしこれが偶然だとしたら、いつこの場に続く道に足を踏み入れてしまったのか。






 街へ降りた。いつも通り全員が船から降りる。ユリウスを気にかけていたトーマは彼女を伺い、話が噛み合うと行動を共にすることになった。それ以外の皆もそれぞれ自由行動することとなり。


「あいつら、どこへ行った」


 電柱時計の下でゼクスは訝しげな顔をしている。

 何かあった場合すぐ気づけるようにと集合場所と集合時間を決めておいたのだが、ユリウスとトーマの二人の姿だけがないのだ。


 前までこんな頻繁に心配するようなことがおきたりしていなかった。原因が誰なのか、検討がついてしまうから余計に頭を悩ませる。

 あの二人が一緒にいるところを見た。共に行動するのだろうと安心して意識をそらしたが、今更になってトーマに任せたのは間違いだったと思う。


「また、何かあったのかな」

「あいつがついているから何かあった場合でも大丈夫だとは思ったんだが……見当違いか」


 ミサトまでもが心配する中、ナギやイヴァンは、丁度良い高さの煉瓦に座って呑気にしている。少し離れた横にはレイも座っており、本を開いてはいるがさっきから顔を上げては周りを窺ったりして中々集中できていない。レイなりに心配しているようだ。

 そんな時にこれまた呑気に響く声。


「あー、確か僕見たよ」


 立っている二人の顔が同時にナギに向く。


「林のところでトーマが焦っているような顔してて、何か探してたーーみたい」


 最後の三文字を口にしていた時にやっと感じた違和感。


「まさかユリウスに何かあったとか!?」


 気づくのが遅い、と心内で呟き、緊迫とした面持ちでゼクスは言う。


「とにかくその場所を教えろ」


 ナギは戸惑いつつも力強く頷いた。






 天気のよい、林の中。日光は木によって遮られ薄い影ができている。

 トーマと同行時、後ろから口を封じられ捕まった。それでここまで連れ去られた。そして今は……。


 不安の混じった顔。トーマの前には首元にナイフをかざされているユリウスがいる。何がどうしてこうなったのか、どうしてユリウスはいつもこういうことに巻き込まれるのか。どうすればいいのか考えながら足は前に進む。少しずつ進むと海賊か盗賊と思われる男は同じように後退する。


 とにかくこの状況を打破すればいい。ユリウスが人質のような立場から抜け出せれば後はどうでもいい。

 後ろに下がっていた男は木の根っこにつまずいたのかよろめいた。それを狙い近づく。


「待て!」


 どうやら警戒心の強い男のようだ。一瞬のチャンスだと思っのだが仕方なくも止まる。次の男の行動でトーマは目を見開くことになる。


「こいつがどうなってもいいのか」

「ーーっ」


 ツーっと首元に伝う刃先。

 そこだけ熱が上がったみたいに熱くなり、ヒリヒリとする痛みがじわじわとくる。ユリウスはそのことに驚いていたのか目を見開いていた。

 首元から出ている血はナイフのように冷たい。


「それ以上は、もうやめろ」


 俯いたまま両手を震わせトーマは言う。硬く閉じられた両手。それは怒りからくるものなのか、それとも別の感情からくるものなのか。男から見ても表情は見えず、もうかかってくるような気迫も感じられない。

 そう安心した時だった。

 ふらっと体を揺らしたと思ったら、もうすでに横にいた。何かしなければとナイフをトーマに向けようとする男。しかしそれよりも早くトーマは相手を蹴り飛ばした。


 反攻に転じたトーマだが、何だか様子がおかしい。首元に傷を負ったことも忘れてユリウスはトーマの顔を窺う。思わず目を丸くした。

 それに気づいたのかわからないがトーマは一歩前へ進む。ふらっと、まるで魂が入っていないかのような不自然な動きで。

 倒れている男に近づくと腹にぐっと足を入れた。そして何度も恨みを掻き消すように踏み潰す。


「トーマ……?」


 その光景を目にしているユリウスは思わず彼の名を口にする。

 信じられない光景に体を硬直させてしまう。止めなければいけないのに、わかっているのに手足が動かない。今にでも止めないとと思っているのに、彼の思わぬ変貌ぶりに呆然としてしまう。


「さっきのナイフ、どこだ」


 力のない、心のこもっていない独り言。

 何やら探すように頭を左右させる。ナイフならさっきトーマが男を蹴り飛ばした時、その場に落ちたものだ。だから先ほどまでいた所にある。


 気づいたトーマは後ろを向きナイフの元まで行くとそれを手にした。何をするのか理解できずに見ていると男の前まで行きトーマはそのまま停止する。


 右手にはナイフ。まさか、とトーマがしようとしていることを直感すると彼の前に入り込む。顔を窺えばなんとも冷酷な表情があった。見た者全てを凍りつかせるような、ゼクスと似たそれ以上のもの。まるでトーマがトーマではないみたいだ。


「ねえ、トーマ、もうやめて。私はもう大丈夫だよ」


 できるだけいつも通りに。そうすれば彼もいつも通り接してくれるんではないかと微かな期待を胸に抱いて。


「ねえ、トーマ……」

「どけよ。邪魔」


 瞳に光が宿されていない。邪魔なんて一言も言われたことなんてなかった。トーマがトーマではないとはっきりと知る。


「待っーー!」


 突き飛ばされて止める余地がなかったと言えれば楽だろう。けれどそんな言い訳なんてできない。

 男の胸に刺されたナイフは手から離れても垂直に立ち、そこから血が滲み出てきている。


 トーマがトーマではない。そんなこといくらでも覚えがあった。こうなる前に何か対処できていたはず。それなのに。


(どうして……こうなるの)


 動悸がする。息が苦しい。

 トーマが人を殺した。それは事実となる。目の前で見てしまったのだから。

 彼の瞳は無だ。己が何をしたのか状況を理解していない。だからこそ罪悪感という文字が彼から見えない。そうだ、きっとそうに違いない。

 そう自分に言い聞かせるユリウスは、刺された男よりもトーマを思い、庇いたがっている。


(そこから抜け出してあげられるのは、誰? ーー少なくとも私ではない事は分かる)


 未だ正常に戻らない彼は男を見下ろし続けている。何を思っているのか何も思っていないのか、わからないが勝手に瞳が潤む。

 倒れている男からは今でも血が出ている。

 血に滲んだ服はこんなにも寒気を感じさせるものなのかと身震いさせた。


「いや……」


 どうしてこうなったのか考えずともわかる。だからこそつらい。

 トーマにこんなことさせてしまったのは。

 こうなった全ての原因は。


「いやあああっ……ーー」


 それは自分。





 林の中へやって来た。草木を出ると一つの大きな木がある場へと出る。そこには地べたに座るユリウスがいた。


「お前ら、ここで何をやって……」


 ふと視線が呆然と立っているようなトーマに止まる。そして視線の先にいる者も。

 自分の名を呼ぶユリウスをもう一度見ると、切なそうな瞳をしていた。まるで恐怖を前にしているかのように声を震わせ。


「ゼクス……。トーマが」


 おかしくなってる。そう言いたかったが、出なかった言葉。


 悲しそうな、今にも泣き出してしまいそうな顔をしているユリウス。こんな顔をさせたのは彼女の先にいる男のしわざだ。

 棒立ちしているトーマの近くまで行き、魂の感じられない瞳をしている彼の視線を辿る。そこには無惨な男の姿。

 だが、ユリウスの心を傷つけたのはこいつではない。

 男を一瞥してからゼクスはトーマを見やる。


「お前、一体何をやっている」

「……」

「何をやったのか訊いてるんだ」


 倒れている男を見てもう一度言うと、トーマは急に声を絞り出す。


「こいつはユリウスを傷つけた。だから俺は……」


 怒り心頭、と言ったところか。

 彼の言い分を聞いたところで冷静に言い返す。


「だからといって、わざわざこいつの前で殺す必要あるか」


 横たわる男の腹部あたりに突き刺さるナイフ。そこから滲み出る赤い液体は彼の着る白い服が引き立たせている。


 ーーこいつ……?


 わかりやすくゆらっと反応すると、何かに気づいたようにトーマは振り返る。そこにはユリウスの姿。トーマの驚きの表情に負けず、目があったことにより彼女の瞳も大きく開く。

 やっと気づいた、ユリウスがいたことに。


(見られていた……)

(見ていた)


 何を言えばいいか双方とも迷って重たい沈黙が続く。

 弁解せざるを得ないことをしてしまった。人をこの手で殺した。人の前で、それも彼女の前で抵抗なく人の命を手にかけた。

 何に許されたいのか、何を許されたいのかわからないが、許されることを諦めて視線を落とす。

 すると、何も言えずにいる自分が怖くなったのか、ユリウスはふらっと立ち「ごめん……」と去ってしまった。それはもう苦しそうな顔をして。


「だって……、もしあのままだったらユリウスは死んでいたかもしれないんだぞ」


 ユリウスがいなくなってから始まる言い訳。

 それをゼクスは逃さない。


「どうせ人質にでも取られていたんだろ。あいつの首元にかすり程度の傷があったが、それで取り乱しでもしたか」


 息を乱している彼の言葉。冷静に推測して言い返す。すると。


「お前に何がわかるっていうんだよ」


 小さく呟いた。苦しそうに、絞り出すように、拳を震わせて。



(いつもなら、こいつはこんなことはしない)


 それがどうしてよりによって今日手を出したか。ユリウスが傷つけられて怒るのはわかる。だが取り乱して殺すほどのことではない。

 ああそうか、こいつはーーと、一つの憶測だけで判断し、トーマを見据える。


「お前の過去にどんなことがあったかは知らないが」

「ーーっ」

「こんなのは間違っている」


 明らかに反応し、目を見開いた。それを尻目にゼクスは立ち去る。

 今、彼が必要としている言葉なんてない。何が間違っていたのか、時間が経てば自身で思い知っていく。


 いつもは相手を気絶させるだけ。喧嘩を売られた時でも相手の攻撃をかわし懐に入り気絶させるか、隙をついて後ろに周り首を突いて気絶させるかのどちらか。

 それを見ていて不快に思い、どうして手を出さないのかと聞いたことがあった。剣を腰に据えているのに、それは見せかけかと。

 トーマは平然と答えた。


『人なんて殺したって、誰かが傷つくだけだ。それなら殺さないほうがいいだろ?』


 海賊は人を殺すのが当たり前だと思っていた頃のゼクスには、その言葉が理解できなかった。だがトーマ以外の皆も手を出さないところを見ていて、少しずつ自分の考えは間違っていたんだと思うようになった。

 無意味な人殺しは無意味な感情を呼ぶ。

 だがしかしイヴァンだけは違っているように見えた。皆が手を出さないから、自分も手を出さないような。そんな雰囲気があった。



「くそ……っ、何で俺は……あいつの前で」


 ゼクスがいなくなってから林の中一人、自分を咎める。悲痛に叫ぶような、心苦しく掠れた声はすぐに消えてしまう。

 悩ましげに歪められた顔は今までしたことのない苦渋に満ちた表情。

 前髪をくしゃっとやれば、脳裏にあるものが止まった映像として頭の中に映される。


 自分と同じブロンドの女性。その首元にはナイフがかざされている。

 恐怖で何もできなかったあの頃。お母さん、そう呼ぶことしかできなかった。

 女性の首元にナイフをかざしながら、不気味な笑みを浮かべている男の姿。その手にはいつの間にかもう血がついていた。赤い赤い、母の首元から出ているものだった。

 トーマの母は海賊か盗賊らしき者に殺された。

 思い出すだけで吐き気がし、口元を抑えた。






(ーーどうしよう。おかしい。息が、苦しい)


 さっきのトーマの姿を見て、ユリウスは動揺していた。 走っているせいもあってか息が乱れる。

 人の血を間近で見てしまったからこんなに動悸がするのか。息を乱しながら、他にもっと別の感情があったんではないかと思う。


(ーー前にもこんなことがあった。心苦しくて息苦しくて、動悸でどうにかなってしまいそうだった)


 足を止め胸に手を当てる。息が整えられてきたところで声がかけられた。


「どこへ行く。戻る道はこっちじゃない」


 ゼクスだ、ゼクスが追いかけてきた。船へと戻る道もわからず走り去ってしまったユリウスを心配して。 目の前で殺人が行わられた、それもあのトーマが……。信じられないことが少なくとも二つあった。心の整理がまだついていないはず。

 そう思っていたゼクスだが、向けられたユリウスの瞳は全て受け入れているようだった。全てを受け入れて、哀しそうな表情をしていた。


「……ゼクス」

 前にもこんなこと、あった。

 覚えてないけど、あったんだよ。


 苦痛をわかってほしいというようなすがりつくような瞳を向け、ユリウスは自分自身に訴えた。



 昼食、取る気分ではなく、寝室で寝る。すると夢を見た。




 『ーーここから出てはだめよ』


 母に言われた通り小さな薄暗い空間でユリウスは息を潜めた。少ししてから扉が開く音がし、男の声が聞こえてきたのだ。

 そっと、小さな空間から伺うと、母と話していたのは賊と思われる者だった。


 お金がどうのこうの、財産がどうのこうの。


 そのときのユリウスには分からなかった、賊たちが母にお金を要求していると。

 脅し文句を吐いてくる賊たちに、母は従う気配を見せなかった。逆に、賊たちを怒らせるような態度をとっていた。

 それはわざとなのか。

 そんな母に苛つきを覚えたのか、賊は威嚇するように声を荒げた。


『殺されてェのか!?』


 男の声に身体が震えた。身を縮め、震える体を抑えようと必死で。

耳を塞ぎたかった。塞ごうとした。けれど、母の凛々しい声に耳へやろうとしていた両手が止まった。


『どうせそのつもりでしょ』


 煽るようなその言葉に、男は、アァ?と自身の苛つきを全面に出した。だが……。


『お金を渡せば私は用済みになる。そんな私を貴方たちは殺すつもりでしょって言っているのよ』


 あえて母は強く言い放った。そんな母を〝おもしれー女〟と表し、男は嬉しそうに、不気味に笑ってこう言った。


『死ぬ覚悟はできてるってわけか』

『さあ? どうかしらね』


 母の声は微かに震えていた。

 母のことをよく知っているユリウスだから、母の微かな声の震えを感じることができたのかもしれない。




『じゃあ、今ここで死んどくか』


 母に近寄った男の右手にはナイフをが握られていた。そのナイフは何の躊躇いもなく母の体に突き刺された。表現できない鈍い音が響き渡る。現実として受け止められない光景が目の前でおこった。

 赤い血が、鋭く光る刃物。

 薄暗い小さな所から見ていた幼きユリウスは声をなくした。声にならない悲鳴をあげそうだった。


 膝から崩れ落ち、腹部を押さえる手からは赤い液体がポタポタと。何事もなかったかのように立ち去る男たちは何がしたかったのか、本当にわけがわからなかった。

 声を漏らせまいと口を覆っていた両手がぶるぶると震える。


 ーーバタン


 ドアの閉まった音。

 海賊たちはもういなくなった。

『お母さまっ』

 小さな空間から抜け出し、すぐに母の元へ駆け寄る。母の息はまだあった。よかったと思った。


 でもそれは、短く、儚き刻。


『お母さま……』

『ユリウス』

 心配して掛けた声は、仰向けに倒れている母の声によって遮られた。それは弱々しく、いつもの母と違う。


『ごめんなさいね』


 謝られた意味が分からなかった。どうして謝るの? ユリウスの頭の中は疑問符だらけだった。


『お外にもあまり連れて行ってあげられなくて、いつもお城の中で、退屈だったでしょ』

(ーーううん。お母さまがいればお城の中でも楽しいよ)


 涙に耐えることに必死で、伝えたいことが声にならず、その代わりにと首を横に何度も振った。どうかこの気持ちがお母さまに伝わりますようにと。


『ごめんなさいね』


(ーー謝らないで、謝らないでよ。お母さまは私を想ってくれた、大事に想ってくれた。それだけで、それだけで十分だよ)


『本当はもっとお外に連れて行って、綺麗な景色とか海を見せてやりたかったんだけど……』


 海は見たことがなかった。ただ母に、海の水はしょっぱいとだけ教えてもらっていた記憶があった。


 ーーもう無理ね

 そう、悲しそうな声で母は告げる。



 何が、無理なの?ねえ、何が無理なの?

 問いかけを忘れるくらいに、静かにまつ毛を伏せた母はまるで人形のように美しかった。


『ユリウス、大きくなったらあの空へ飛びなさい。あの自由な空へ』


 愛おしそうに頬に右手が添えられる。その暖かい瞳と柔らかい表情に迎えられていた。

『お母さま、それってどういう……』


 どういう意味ですか? そう訊き終える前に、左頬に添えていた母の手は離された。スっと刹那の如く。


『お母さま……お母さまっ』


 母との数回目の外出。二人で普通に楽しみたいからと騎士を付けずに外出した結果が、これだ。


(ーーいや……いやっ……)

 息を引き取った。そんなこと、いくら子供のユリウスにでも分かった。だから生き返ってくれないか、また暖かい微笑みをくれないか、そんな叶いもしない望みをしながら母のことを時間も忘れ呆然と見つめていた。お母さま、と無我夢中で呼んだ。

 それでも母は動かなかった。機械のように再起動するなんてことはなかった。


(もっと伝えたいことあるんだよ。もっと話したいことあるんだよ。

もっと一緒に同じことして同じ感情を感じたいよ)


 それでも、一番の本音は。


 もっと必要とされたい、だった。

 相手に必要とされ、相手を必要とする。それによって居場所ができ、お互いが共存する。母の死を目の前にした幼きユリウスは、どこかでそう歪んだ思想を持った。だから母の死は自分の死をも意味するものだった。母意外に自分を想う人間がいないと孤立していたユリウスは、これを機に、生の意味を知ろうとする心を無くした。



 幼き頃の記憶。



 思い出してしまった。

 瞳を開ければ涙がそのままベッドに流れる。


 母は不慮の事故なんかで死んでいない。殺されたんだ、海賊に。


(目の前で母が殺されるところを私は見た)


 ユリウスだけは何としても守ろうとした母の咄嗟な行動。


 見つらないような場所に隠されたユリウスは、自分だけが囮になろうという母の想いも知らずにその姿を、安全な場所から眺めていた。

 逃げも隠れもせず、海賊たちに屈することなく堂々とする母の姿をただただ眺め、男たちの一つ一つの言動に怯えていた。

 全て母に向けられているものだとわかっていたが、それでも怖かった。


 何もできない。そう思う以上に、早くこの現状が過ぎ去ればと思っていた。心配はしていたが、まさか母が殺されるなどと思いもしていなかった。


 母の死を前に、涙がボロボロと溢れ出た。


 ーーああ……お母さまは亡くなってしまった。私のことをわかってくれる人はもう誰もいなくなってしまった。そして、親と呼べる者も。


 現実を受け止めると、喪失感さえ生まれた。


(お父さまが断固として私を外に出そうとしなかった理由。それは私もお母さまのようにならないためだったんだ)


 今更ながら、父の思いを知る。






「ユリウスー」


 ばたばたと聞こえてくる足音。

 甲板に佇む彼女の元へ駆け寄ると、ナギはわざと明るい声を出す。


「早くいこ。みんな待ってるよ」


 ミサトに断って昼食を外したユリウス。何があったのか、ナギは知らずに食事をとっていたが、緊迫としたどこか陰気な空気は感じていた。だからこそ、食事が終わり次第ユリウスのそばにいたと思われるトーマに聞いたが、苦痛に顔を歪ませた彼は何も口にせずに立ち去った。


「ええ、今行くわ」


 なぜだかお城にいるときの言葉使いが口をついて出る。

 ずっと、普通にと思って接してきたのに。できるだけ普通に飾り気のない態度をと思って、ちゃんと自分をつくりだしたはずなのに。


 ばちっと合う瞳。彼は目を丸くしたまま、まじまじと見つめてくる。

 そんなにおかしかっただろうか。お城ではこれが当たり前なのだけれど。

 何がおもしろくて表情が緩むのか、心の中でふっと息をつく。


「どうしたの?」

「何でもないよ」


 答えた瞬間、先ほど思い出したものがフラッシュバックする。

 あの時、小さな空間から見えていた海賊たち。その他に、なぜか自分と同じくらいの子供がいたような気がする。これは気のせいか。


 考え込むような顔をするユリウスを、心配そうな眼差しで見つめるナギ。


「……」


 トーマたちに何があったのか皆は知っていたようで、レイに聞くとすぐにそれはわかった。

 お前はこいつ(ユリウス)と船に戻ってろ、とゼクスに言われ早々に言うことを聞いたため現場は見れなかったが、トーマが人を刺したと。原因はわからないけど、ナイフで人を傷つけたと。


 トーマが人を殺した。

 信じられなかった。

 あの温厚なトーマが。

 口は悪いけど、態度こそ大きいけど不良っぽいけど、何よりそんなことはしそうになかったから。したくないと思っているような人間に見えていたから。


 ユリウスはどう思っているだろう。と、目の前にいる彼女を見ては、知らないフリをするナギは複雑な顔をする。






 薄暗い甲板には二人の姿。

 夕食後を終え、トーマはユリウスを呼び止めた。話がある、と。


「あいつ、まだ息してた」


 気まずさに顔を伏せたまま、気まずそうに話をする。


「だから死なないうちにレイたちに手当てしてもらった」


 トーマにナイフで刺された男は死んではいなかった。レイが息を確かめた時、男の息はまだあった。何とか早急に処置をとり、男は命を取り留めたのだ。

 一通り話を聞いててっきりトーマが人を殺したと思ったナギは、それを報告された時、曇っていた表情が晴れた。人を傷つけてしまったという事実はなくならないが、人を殺したという異事は消えたから。


「……うん」


 どうしてあんなことをしたのか問うことなく、ユリウスはただ聞き入れる。

 どちらも合わせる顔がないのか、顔を伏せたまま淡々と。


「トーマが人を殺しちゃったんじゃないかって、怖かった」

「ごめん。……でも、海賊は皆そんなもんだから」

「トーマは違うよ」


 意外にも凛とした声に動揺を隠せない。


「普通の海賊が、人の命を簡単に手にかけるような人たちなら、トーマたちは違う。優しくて、いい人」


 ナギは初対面の自分にも優しいしてくれた。ミサトだって、何もできずにいる自分を丁寧に扱ってくれた。イヴァンもレイも。ゼクスはーー……ゼクスも、助けてくれた。


「特にトーマはこんな私を助けてくれた命の恩人だから」


「……」

 いつもと違う笑み。弱々しく、今にも消えてしまいそうな笑み。なぜかは知らないが、心がぎゅっと締め付けられるような感覚に陥る。


「もう、誰かを傷つけないで。勝手で不躾なお願いかもしれないけど、自分の身や皆を守る時以外、あんな必要以上に誰かを傷つけないで」


 ユリウスから発さられる言葉一つ一つが胸に沁みる。今の彼には突き刺さるような言葉。だが、自分以上に苦しそうな顔をしているユリウスが、想って言ってくれているということぐらいわかる。それと別の理由も含めて。


「あの海賊にも家族はきっといるはずだから、想われていない人なんていないから。必要以上に傷つければトーマの心も傷つくから」


 いつもより心をさらけ出している。どうしてなのか、トーマは考えもしなかった。


「だから、もうーー」


 震える声。ぼやける景色。


(誰かが傷ついているのを見ると、お母さまの事を思い出す)


 もう実際に思い出してしまったのだが、あの光景を思い出すたび、心が痛んだ。


 傷つく人は必ずいる。だから本当に。

「誰かを殺そうとしないで」


 か細く口にすれば、涙がこぼれた。運悪く母の死に際を思い出してしまったから、醜態を晒うことに繋がった。

 だがどうしようもない。涙の止め方がわからないのだから。ずっと、あの日以来涙を流したことがなかったから。ずっと、あの日以来時間が止まっていたかのような生活が送られてきたから。

 記憶をなくしてから今日まで、別の時間を過ごしてきた。だが今日からは、針の止まった時計へと戻る。


「ユリウス……」


 まるで過去で止まっていた時計の針が動き出すように、涙が溢れ出てくる。

 止めようとしても止まらない。


「ごめん」


 自分の涙に戸惑っているようなユリウスを抱きしめては、ごめんな、と何度も謝った。

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