第2話 手掛かりとローブの男

 重い鉄の門の先、街路樹に囲まれた石畳の道を抜けるとカレク湿原だ。水場が多いという点はリンデと共通しているが、こちらは少しじめじめしているし、魔物を含めた生き物の気配も濃い。苔や水草など、植物の成長も顕著だ。

 アルドとローブの男は、並んで湿原を進む。手がかり、そして戦闘の可能性があるとのことで警戒していたアルドだが、それは徐々に薄れていった。湿原の様子は、一見すると普段と変わりなかったからだ。

「なあ、本当にこんなところに手掛かりがあるのか?」

「そう焦るな、君は大船に乗ったつもりでどっしりと構えていればいいさ」

「そうかな……」

 男の楽天的な態度に、不安そうな表情を浮かべるアルド。同行するのはいいが、本当に事件解決の糸口が掴めるのだろうか。

 そんな懸念も束の間、事態はすぐに動いた。そう遠くない距離から聞こえてきたのは、子供の悲鳴。声色から、男の子であることが予想できた。

 アルドはすぐに反応した。弛緩していた表情は引き締まり、悲鳴がした方に向けられた視線は鋭い。

「今の声……また子供が危険な目に遭ってるのか!?」

「落ち着きたまえ、闇雲に突っ込んでもまた消えられるだけだろう。ここは冷静に様子を……あっ! 待て!」

 ローブの男は思わず口調を崩してしまった。無理もない。せっかくの分析と忠告を無視して、アルドが一目散に駆け出したからだ。伸び放題の草に肌を切られ、ぬかるんだ地面に足を取られながらも走る。ローブの男は困惑して立ち尽くしていたが、やがて我に返りアルドを追いかけた。

 先に現場に到着したアルドは、異様な光景を目にした。少年が地面に溺れている。より正確には、ぬかるみにはまった少年がどんどん沈んでいっているのだ。まるで底なし沼だった。

「嘘だろ……カレク湿原にこんな危険な場所があったなんて……!」

 アルドは歯噛みして、沈みゆく少年に駆け寄る。少年の身体はすでに肩まで沈んでおり、顔は憔悴と恐怖で真っ青だ。手足をぬかるみに取られているのか、満足にもがくことすらできないでいる。

「待ってろ、今助けるからな!」

 アルドは躊躇なく、その場に這いつくばるようにして両腕をぬかるみの中に突っ込んだ。ぬかるみは重く、蛇のように腕にまとわりついてその動きを阻害する。それでもアルドは全身の力と神経を両腕に集中させ、少年の腕を掴んだ。その瞬間。

「うわっ!?」

 思わず声を上げる。少年の姿が消えたのみならず、ぬかるみが瞬間的に範囲を広げ、アルドの身体が落ちかかったからだ。足場がないので跳躍での回避はできないし、掴まるところがないのでその場に踏みとどまることもできない。落ちると覚悟した、その時。ローブの男がアルドの手首を掴んで引っ張った。すごい力だった。アルドの身体は宙に放り出され、そのまま落下した。硬い地面に体を強く打ちつけて、アルドはようやく気付いた。ぬかるみが消えている。

「あれ……どうなってるんだ?」

「……それを説明する前に、ひとつ言わせてもらいたい。向こう見ずが過ぎるのではないか? 私の忠告を無視して……いや、本来なら忠告されるまでもなく、あの子供が例の消える子供であることは予想できただろう」

「うーん……返す言葉もないよ。どうにも我慢できなくてな……」

「……まあいい。反省しているようだし、それが君の美徳でもあるのだろう。それに、ああなる前に説明しておかなかった私にも非がある」

 男はアルドに手を差し伸べる。アルドはその手を取って立ち上がった。

「ありがとう。それで、もう分かってることがあるのか?」

「ああ、多分に推測も交じっているがな。もっとも、その中の一つはたった今君が身をもって体験したことだ」

「俺が……?」

 アルドは首をかしげたが、すぐに気付いた。今回と前回の違いに焦点を当てれば、明らかなことだった。

「今回は子供だけじゃなく、あの沼みたいなぬかるみも一緒に消えたことか?」

「その通り。そして消えたということは、逆に言えば何者かに生み出されたということでもある」

「生み出された……魔法か何かでできた幻ってことか、あの子供と沼は」

「より正確には、『子供が窮地に陥っている幻』ということになるだろう。それも最近は随分と過激になってきている。見ろ」

 ローブの男は地面を指さした。正確には、さっきまで沼のようなぬかるみがあった地面だ。

「あのぬかるみは幻だが……もしあそこに落ちた状態で幻覚が解除されたら、どうなっていたと思う?」

「……まさか」

 アルドの背筋が凍る。これまで幾度も死線を潜り抜けてきた彼でさえ、生き埋めの経験はなかったからだ。

「理解したか。奴の幻覚魔法はそれ自体に人を害する力はないが……応用すれば人を傷つけ、殺すことができる。今までそれをしてこなかったのは、たまたまなんだよ」

「ああ、身に染みたよ……ところで、犯人のことを知ってるのか? そんな口ぶりだったけど」

 アルドの言葉に、ローブの男は押し黙った。表情は見えないが、口を滑らせたという後悔がありありと見て取れた。しばしの沈黙の後、男が口を開く。さっきまでの飄々とした口調とはかけ離れた、重々しい語り口であった。

「……かつて友であり、仲間であった男だ。今は道を違えてしまったが。俺はずっと、そいつを探しているんだ」

「どうしてこの事件の犯人がそいつだって分かるんだ? 魔法が得意な奴なら、ほかにいくらでもいるだろ?」

「その通りだ。だが、幻を見せる魔法はあいつの十八番だった。それに……」

 男は言葉を切って、天を仰いだ。悲しむように、あるいは懐かしむように。

「それに、あいつには動機がある。こんな回りくどい八つ当たりをする、動機が」

「動機……?」

 アルドは訝しんだが、男は答えなかった。込み入った事情があるのは明らかだったので、アルドもそれ以上は詮索しなかった。代わりに訊ねる。

「なあ、一体どうすればいい? 俺は少しは戦えるけど、相手の居場所を探るとかは苦手だぞ」

「大丈夫だ、今回の件で確信したことがある。あいつは間違いなく、この近くにいる」

「え……!?」

 驚いた様子で周囲を見回すアルド。けれど、それらしき人影は見えない。ローブの男は首を横に振った。

「近くとは言ったが、そこまでじゃないさ。だが、そう遠くはない。あいつは俺たちを見ているはずなんだ」

「……向こうもお前を探してるってことか?」

「少し違うな。向こうは俺を見ているんだ。俺の選択を見極めようとしているんだ。だが、このままでは死人が出る。あいつは一線を越えてしまう。だから……」

 男が言い終わるより早く、アルドは力強く頷いた。

「ああ、もちろん協力するよ。でも、最初から説明してくれたらよかったじゃないか」

「申し訳ない、騒ぎが想定外に大きくなってしまったものでな……犯人と知り合いとなれば、協力を得られないかと思ってな」

 それは当然の危惧であった。騎士団に直訴するのではなく、わざわざアルドがいるときに声をかけたのも、いつかこうして真実を打ち明ける機会を窺っていたからであろう。アルドはそう納得した。

「そっちの事情は分かったよ。ただこれからは、何も隠さずに教えてくれよ?」

「……ありがとう。約束する」

「それで、相手の居場所は分かるのか?」

「そうだな、あいつの場所選びには昔から癖があるからな。ここいらの地形を考えれば……」

 男は一通り周囲を見回して、バルオキー方面を指さした。ユニガンの丁度反対方向だ。

「見当はついた。付いて来てくれ」

「ああ、よろしく……」

 アルドは途中で言葉を切った。ローブの男が示した道と反対方向から、子供の悲鳴が聞こえてきたからだ。今度はさすがに、わき目も振らずに駆け出すという失態は犯さなかった。

「……これも、そいつが魔法で作った幻なのか?」

「ああ、間違いなくな。反対方向から突然、というのはいかにも怪しいだろう?」

「そうだな。そう……なんだけど」

 アルドは躊躇っていた。男の読みは恐らく正しい。アルド自身すら、今の悲鳴には作為があると感じていた。だが、それでも。

「……確かめるだけでも、ダメか?」

「お前という男は……まあ、闇雲に突っ込んでいくことさえしなければ、多少の寄り道は構うまい」

「分かった、ありがとう!」

 アルドは躊躇いなく、悲鳴のした方に駆けだした。ローブの男は一瞬、その背中に物憂げな視線を向けたが、すぐに後を追いかけた。

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