助ける理由

天星とんぼ

第1話 消える子供

 空は晴天。港町リンデを流れるそよ風には、潮の香りが乗っていて心地よい。アルドは灯台の袂で大きく伸びをした。穏やかな平和を享受していた、その時。

「こ、子供が溺れてるぞ!」

 桟橋の方から男の叫ぶ声が聞こえてきた。一も二もなく、アルドは駆け出す。到着すると、すでに十人近い人だかりができていた。彼らは一様に沖の方に視線を向けている。桟橋から十五メートルほど離れた所で、しきりに水しぶきが上がっていた。

「く……どうしてあんなところに」

 最前列で頭を抱える一人の男。アルドはそのそばに駆け寄った。

「何かいい方法はないのか!?」

「そうは言っても……こんな時に限って船はみんな出払っているし、あんなところまで泳いで行ける奴も……」

 万策尽きたというように男は顔面蒼白だった。周囲の人々にも妙案はないようで、溺れている子供を心配そうに見つめるばかりだ。

 アルドは腹をくくった。鎧を脱ぎ捨て、桟橋のへりに立つ。

「お、おい、兄ちゃん!」

 男の静止は間に合わない。アルドは深く息を吸い込んで、海に飛び込んだ。水しぶきが大きく上がり、陸では人々が悲鳴交じりの驚きの声を上げた。

 アルドは水面から顔を出し、溺れている子供の方へ泳ぎ出す。波はほとんどないが、冷たい水がどんどん体力と全身の感覚を奪ってゆく。

(小さい子供がこんなところに長くいたら、命に関わるぞ……!)

 子供の身を案じ、アルドの全身に力が入る。両手で水をかき、子供との距離を詰める。魔物がいるわけでもなし、助けるのは難しくなさそうだ。あとほんの少しの間、子供が耐えてくれれば……。

 アルドの願いは届いた。溺れる子供がもがくことで上がる水しぶきは、ついぞ途絶えることはなかった。水しぶきに近づきながら、アルドは夢中で手を伸ばす。

「つ、掴まれ……!」

 海水を飲むのも厭わず、アルドは声を上げる。だが、子供は沈まないようにもがくので精一杯のようで、差し出されたアルドの手を取ることができない。

「くそっ……!」

 こうなったら、直接抱えて戻るしかない。アルドは意を決して、両手を広げて子供を抱きかかえにかかる。その時だった。

「あれっ……?」

 アルドは子供の確保に失敗した。それどころか、子供の姿は完全に掻き消えていた。

「な、なんで……まさか!?」

 脳裏をよぎる最悪の可能性に、アルドの顔から血の気が引く。慌てて水中に潜り、両目を開いた。水は澄んでいて泳いでいる魚たちもよく見えるし、視界も開けている。だが、上下左右前後、どこに視線をやっても子供の姿はなかった。

(くっ、どこだ!?)

 再び水面から顔を出し、周囲を見回す。しかしそこには、水しぶきひとつ確認できない、穏やかな海が広がるばかりだ。一縷の望みを託して陸の方に視線をやるが、子供の姿はない。野次馬たちがいるだけだ。アルドは腑に落ちないながらも、凍える身体に鞭打って陸に戻った。

 子供が突然消えたというアルドの荒唐無稽な話を、しかし疑う者はなかった。彼らもまた、その異様な光景の目撃者なのだ。彼らはみな口を揃えてこう言った。アルドが子供に触れた瞬間に子供が消えた、と。

「一体どうなってるんだ……?」

 野次馬の一人から受け取ったタオルで濡れた体を拭きながら、アルドは呟く。見間違いのはずはない、気のせいであろうはずもない。だが、確かに消えたのだ。

「大丈夫かい、兄ちゃん」

 煩悶するアルドに声をかけたのは、一人の中年男性。野次馬の最前列にいた彼だ。

「しかし不思議なもんだなあ。確かに消えたよ、あの子供」

「……なあ、この町で誰か行方が分からない子供はいないのか?」

「ああ、それなんだがな。今みんなに確認したが……少なくとも、この町の子供はみんな無事だよ」

「そっか……いや、いいことだよな、一安心だよ。でも」

「ああ、妙だよな。あの子供は誰だったんだ……?」

 二人は眉間にしわを寄せて考え込む。だが、答えが出るはずもない。結局この日、この奇怪な救出劇の真相は分からぬまま、アルドはリンデを後にした。

 

 しかし、この件はこれで終わらなかった。むしろ、リンデでの一件を契機に各地で同じような現象が起こるようになっていたのだ。

 アルドは王都ユニガンの宿屋にいた。窓の外からは人々の喧騒が聞こえてくるが、そちらに気を配っている余裕はない。一人の兵士が例の怪奇現象について困った様子で説明している。

「本来であればこのような事案は騎士団の管轄ではないのですが……近頃では怪我人も出ていまして、放っておくわけにもいかず」

「そうか、それは心配だな……俺の時は溺れてる子供だったけど、ほかも同じなのか?」

「同じものもあるようですが……確認した限りでも、崖から転落しそうになっていたり、高い木から降りられなくなっていたり、魔獣に襲われていたりと多岐に渡るようです。共通しているのは、彼らがみな子供であることと、助けた瞬間に消えてしまうことの二点ですね」

 アルドは目を伏せて考え込んだ。確かに気になるし、助けたいのは山々だ。だが。

「何か手掛かりはないのか? 俺も無関係じゃないと思うし、何とかしたいけど……何をしたらいいか分からないんだ」

「……実は我々も、実態をほとんど掴めていないのが現状で」

「お困りのようだね」

 突然二人の会話に割って入ったのは、全身を黒いローブで覆いフードで顔を隠した、いかにも怪しげな人物だった。体格は華奢だが、声が低いことから辛うじて男であると分かった。

 騎士が警戒心を露わに腰の剣に手をやった。

「何者だ、貴様!」

「まあまあ、落ち着きたまえよ。私は君たちに力を貸そうとしているのだよ? 何なら丁重にもてなしてくれてもいいくらいじゃないかね?」

「あんたは何か知ってるのか?」

「昨今話題の怪奇現象……『助けたはずの子供が突然消えちゃった事件』だろう? 任せてくれたまえ」

「……そんなふざけた名前で通ってるのか?」

 アルドが困惑して騎士に視線をやると、彼は首を横に振った。ローブの男が勝手に言っているだけのようだ。

 彼の飄々とした態度に毒気を抜かれたか、騎士は剣の柄から手を離した。

「……協力する気があると言ったな、確かか?」

「もちろんだとも、アテもある。報酬は弾んでもらうがな」

 ローブの男は自信たっぷりに頷いたが、騎士は不安げだった。大事な調査を突然現れた怪しい男に一任するのは、確かに難しい決断であろう。だが、現状で手詰まりなのも事実。騎士は決めあぐねていた。

 その様子を察して、アルドが口を開いた。

「なあ、俺と一緒に行動するっていうのはどうだ? 俺も何か力になれるかもしれないし、俺はこいつの様子を見ておけるし」

「妥当な案だな。私は構わんぞ」

 監視付きという待遇に男は気分を害するどころか、むしろ乗り気のようだった。騎士は首をかしげる。

「疑われているというのにその態度……ますます怪しいな。やっぱり何か企んでるんじゃないのか?」

「おっと、誤解だよ。アテがあるといっても、私は戦闘はからっきしでね。腕の立ちそうな彼と一緒なら、何かと都合がいいと思ったまでさ」

「……戦闘になるのか?」

 アルドの表情が険しくなる。そうだとしたら、ますます放ってはおけない。

 ローブの男が答える。

「その可能性があるという話さ。いずれにしても、私一人では手に余る案件でね。さっきは力を貸すなんて言い方をしたが……実のところ、力を貸してほしいということでもあったのさ」

「だったら最初からそう言えばよかったんじゃ……どうして無駄に怪しい雰囲気を出して場を混乱させたんだ……?」

 アルドのもっともな指摘に、男はそれまでとは異なる大きな笑い声を上げた。

「いやあ、その方が格好いいと思ってね」

「そ、そっか……」

 思わぬ返答にアルドは脱力し、騎士は呆れてため息をついた。とてもではないが、深遠な企みを胸の内に秘めているようには思えない。

 騎士はしばらく考え込んでから、一つ頷いた。

「分かりました。二人には独自路線での調査をお願いします。騎士団長には私の方から伝えておきますが……増援など必要でしょうか。もっとも、こちらもあまり余裕はないのですが……」

「不要だよ。腕の立ちそうな彼がいるし、まずは現場検証だからね。すぐに激しい戦闘にはならないさ」

「そうですか。我々も調査は続けますので、そちらはお願いします」

「ああ、何か分かったら伝えに来るよ」

 アルドが言うと、騎士は一礼して宿屋を後にした。それを見届けてから、ローブの男が口を開く。

「では、私たちも行くとしようか」

「ああ。でも、どこに?」

「私の見立てでは、カレク湿原に大きなヒントがあるはずだ」

「カレク湿原だな。分かった、さっそく向かおう」

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