第15話 異端審問官 ー2ー




 月日というものは常に主観的な存在だと誰かが言った。

 つまり、実際に流れている時間と僕らの考える時の流れは別に存在し、その流れしか人には感じることができない、というのだ。


 その言葉を誰が言ったのかもう覚えてはいないが、僕はその考えに酷く共感した。

 たしかに、僕の人生はある瞬間まで、ゆっくりと幸せに流れていたのではないかと思う。そんな時間がしばらく続き、ある日を境に急に早くなった。

 何もかもが僕を通り抜け、そしてそれは僕の肉体を否応なしに成長させた。

 でも不思議なことに、それほど時間が経った気がしないのだ。

 あれから5度の冬がやってきて、冬が来るたびに僕の体は大きくなるのだが、心はあの日から、何も変わらないのだ。


 すべてを失ったあの日から……、時が止まったように……




 手の中にある湿った雑巾から僅かに水が垂れた。

 それをしゃがみこみ素早くふき取った僕は、そのままの姿勢で床を蹴り、雑巾をかける。礼拝堂の広い床を端から端まで磨くのだ。


 裏返すと、雑巾はもう黒かった。

 黒は良い。これは埃の色だからだ。

 ここは一般信者も入ってくる場所だから、いつもは、泥やら土やら草の汁やら酷いときには動物の糞までもが雑巾にこびりつく。

 ほら、やっぱり。

 教会の玄関付近へゆくと、何かの動物の糞が、まるで歯形がしっかり残ったパンのように靴跡をしっかり残し床にこびりついていた。


 こういう時、僕は毎回処理に困るのだ。

 この教会では、同じバケツの中で皆が雑巾を絞らなければならない、というルールがあるのだが、糞を雑巾で拭いた場合も、やはり同じようにする決まりになっていた。

 でも考えてみてほしい。

 雑巾に糞がついていた場合は、バケツの中にそれが混じり込むのではないだろうか?

 そしてそれは、伝染病のように他の雑巾に伝播するのではないだろうか?

 つまり、このルールの通りに動くと、清潔にするために床を磨いているはずなのに、いつの間にか床を磨けば磨くほど不潔になるのではないだろうか?


 僕は何度かそれを指摘し、教会の上の人間に、新たなルール作りをしてくれ、と提案をしたのだが、彼らは頑なにルールを変えようとしなかった。

 本当に、石頭か、と思えるぐらいルールの変更を嫌うのだ。

 よく分からないが教会とはそういうところらしい。

 ルールこそがすべてなのだ。

 普段から、神が、あれをしてはいけない、これをしてはいけない、と頻繁にいうので、その口癖が教会の人間にも乗り移ったのかもしれない。



 僕はその靴跡のついた糞を雑巾でふき取ると、ルール通りにバケツの水にそれをつけ、ため息をつき、遠くを見る。目の下の大きなクマがピクリと動いた。


 まぁいい。とにかく、これが僕の毎日だった。


 あれから5年が経ち、僕は異端審問官になるために教会に勤めていた。

 異端審問官とは魔導士を“狩る”ために選ばれた戦士たちで、魔導士(魔女)狩りの専門家ともいうべき人々だった。

 もっと正確に言えば、彼らは魔導士に対抗するために『奇跡』の力によって強化された聖具を身に着け、それで魔導士を倒す人々だった。

 だが、当然ながら魔導士狩りは危険を伴う。

 一回の討伐で酷いときには10人以上死ぬ時だってあるらしい。

 だから、異端審問官になるためには長い修業期間を経なければならない決まりになっていた。


 その修行の一つがこの雑巾がけだった。



 僕なりに解釈すると、これは恐らくルールの重要性を僕らに知らせるための修行なのかもしれない、と思っていた。

 どんな社会にもルールがある。

 それを体に染みこませるための修行。

 教会の作るルールこそが唯一絶対のもので、他の主張などまがい物である、と僕らに知らせるための修行。


 だからこそ僕は、色んなものに目をつぶり、まるでどこかの頭の悪いリスが自分の餌を土の中に埋め続けるように、糞のたっぷりついた雑巾で床を磨き続けた。


 朝の掃除が終わると、そのあとに本格的な戦闘訓練が始まる。

 教会の刈り揃えられた緑色の芝生の広い庭で現役の異端審問官の指導の下、戦闘訓練が行われるのだ。


 皆、用意された木剣や木の盾を手に取り、攻撃、防御の方法、立ち回り方などを学ぶ。

 剣には両手用の剣と片手剣があり、僕は大体片手剣を使う立ち回りを重点的に学んでいた。というのも片手剣ならば、もう片方の手に盾を装備でき、攻撃と防御の幅が広がるからだ。



 僕はクアドラの戦いが頭に焼き付いていた。



 彼女は自分自身を鋼鉄化させ、父さんの斧をいとも簡単に受け止めた。

 つまり、攻撃をしながら、防御も考える盾を使った攻撃戦法を学ばなければ、父さんのように一瞬で命を落とす可能性が高いと思ったのだ。


 歩きながら全体を見回す教官の声が庭中に響き渡る。


「もっと早くだ! 魔導士どもは攻撃を待ってはくれないぞ。もっと早く盾をだせ! 奴らが手のひらを開くそぶりを見せれば、すぐに盾を構えろ!」


 盾の取手を握りしめた僕は、自分の身にひきよせるように素早く盾を構える。

 そのたびに身に纏う白の長服が音をたて揺れた。


 最も恐ろしい奴等の攻撃手段は手のひらから放たれる直線的な魔法だ、と教官は口酸っぱく叫ぶ。高いレベルになればなるほど、それは素早く強力になるのだ、と。

 変則的な魔法は多少時間に猶予がある場合が多い。

 だからこそ直線的な攻撃が一番怖いのだ。


「もっとだ! もっと早く!」と、教官の声が大きくなった。


 何度も僕は盾を構える。

 あらゆる状況を想定して、この動作を体に染み込ませるように覚えてゆく。

 何度も、何度も、何度も、何度も。

 そうすることで、限りなく素早く盾を構えることができるようになるのだ。

 とにかく、敵のその攻撃さえ凌げば攻撃の道筋が見えてくる、と教官は言う。


 まずはどこでもいいから奴等の肉体を攻撃するのだ。


 手でも足でもいい、まずは剣でどこかを切り裂く。

 すると、奴等の精神に乱れが生じる。

 精神が乱れれば魔法の威力、精度共にバラつきが生じるらしい。

 だから、その乱れを突け、と僕らは教えられていた。


「おい、またあいつらが来てるぜ」と隣で訓練をしていた猫目のアルガスが言った。


 嫌そうな目つきでアルガスが睨んでいるその先には20人ほどの人だかりがいた。

 彼らは街の通りから教会の施設に向かって声をあげているようだった。

 よく見ると、道行く人々に向かって看板を掲げている人もいた。


 融和派の連中か、と思った。

 融和派とは、魔導士と人間が手を取り合ってこそよりよい未来を築くことができると言っている人々だ。


 教会が魔法学校を滅ぼしてから5年。

 教会は、その勢力を日増しに拡大していった。

 当初、領主の停戦命令に従わない教会は危険な勢力とみなされることが多かったのだが、彼らが魔導士の撲滅にしか興味がないことを知ると、領主たちは一転して教会の支持にまわり、教会は両地方で公認の組織となった。


 だからローレンとアーシャの両地方では、教会の行う魔導士討伐は半ば黙認されることとなったのだ。


 一方魔導士たちは、密偵のように自らの出自を隠し、人々の目を欺きながら生活するか、この土地からの退去を余儀なくされることとなった。


 僕は融和派の連中が叫ぶ姿を見ながら溜息をつき、茶色のウェーブのかかった前髪をねじる。


「お気楽な連中だ」


 僕は日頃から、あいつらは何もわかっちゃいない、と思っていた。

 あいつらの生活を守っている者こそが僕らなのに。

 きっとあいつらはどうしようもない痛みを魔導士から受けたことがない人々だからこそ、あれほど能天気に魔導士と手を取り合えると思っているのだ。


 馬鹿げている。本当に!



「そこ! なにサボってる!」


 教官に怒鳴られた僕らは彼らを見るのをやめ、盾を構える動作に戻った。

 そうして午前の戦闘訓練時間が終わると、あとはいつ終わるともしれない教会の教えを聞く座学が待ち受けていた。


 神が唯一にして絶対に~、という感じの訳の分からない説法を長々と神父が語るのだ。


 僕はほとんどそれを聞き流していたので、彼が何を言っているのかほとんど知らなかった。

 同期の話を聞くと、ほとんどがこの世のはじまりだとか、人はどうして楽園から追放されてしまったのか、とか、そんな話をするらしい。

 僕はこの時間を休養の時間にあてることにしていた。

 眠らずに、ぎりぎりのところで体を休めるのだ。


 そして夜に備える。

 この夜こそが問題だった。

 この5年。僕はずっと夜が怖かった。

 夜は悪夢に苛まれたからだ。

 見るのはいつもあの夢だ。

 あの炎。ねじまき村を取り囲む炎と毛むくじゃらの化け物と、そして、冷酷な眼差しで僕を見つめるクアドラ。


 あの青い瞳がいつも夢に現れるのだ。

 そして夢は毎回あそこで終わる。

 クアドラが僕に向けて手をかざし、目の前が白くなってゆくあの瞬間だ。


 僕はその瞬間朝方だろうが夜更けであろうが大体目が覚めてしまい、その後、酷い吐き気に襲われるのだ。

 そして、そのあとに大体こんなことを思うのだ。




 ――どうして僕は生きているのだろう。



 考えれば考えるほど分からなくなった。

 クアドラの手のひらから発した光は父さんに放った魔法と同じであるはずだ。

 ならば僕の頭は吹き飛ばされてなければならない。

 なのに……どうして僕は生きているのだろう?



 いや、違う。

 生かされたのかもしれない。

 でもなんで?

 よくよく考えるとそちらの方がよほど変な気がした。

 どうして僕だけを生かしたのだろう?

 なぜだろう?

 考えがまとまらなくて、無数の虫たちに頭の中を引っ掻き回されてゆくような感じがした。

 そして、更に訳が分からないのはどうしてあれほどクアドラが冷酷になってしまったのか、ということだった。


 僕が知る限り、彼女は最初そんな女性ではなかった。

 それほど温厚な性格でもなかったかもしれないけど、少なくとも村の皆と仲良くしていたし、子供にも優しかった。



 特に、僕には優しかったはずだ……

 なのに、なぜ皆を殺したんだ……、どうしてそうする必要があったのだ。



 分からない。

 分からなくなってゆく。

 すべてのことにおいて、何が正しくて何が間違えなのか分からなくなってゆく。



 いや……、何を考えているんだ僕は……それが魔導士じゃないか。

 奴らは生まれつき残忍で残酷で人のことなど人とも思っていない奴等なのだ。

 そうだろう? そうじゃなければ、どうしてあんな酷いことができる。そうだ、そうに決まっている。


 その時、心の奥底で一本の弦を弾く音が聞こえた。



 ――なら、何で僕は生かされたんだ?



 そうだ、きっと全てに理由があるはずだ。

 皆を殺した理由も、僕を殺さなかった理由も、すべてを聞きくんだ。

 あの美しい首を斬り落とすのはそれよりもあとでよい。




 そんなことを思ううちに夜明けがやってきた。

 また寝ることができなかった……

 もうこれで、何日連続で僕は寝ていないのだろう?

 自嘲気味な笑いが胸からこみあげてきた。

 でも、こうする以外ないのだ。だって、夜ほど恐ろしいものはないのだから。


 とにかく、これが僕の第二の人生だった。

 悪夢を恐れ、雑巾がけをし、融和派に罵られ、意味の分からない説法を聞き、クアドラの真意を探し続ける毎日。



 いつまで経っても悪夢は僕を追いかけてきた。

 きっとクアドラを殺すその日までこの悪夢は続くのだろう。

 そう思うと、僕はどうしようもない孤独感に襲われ、憂鬱にならざるを得なかった。

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