リリア編 予言の子
第11話 予言の子 ー1ー
私たちは歩いていた。
目の前には、アシュリーの銀色の後頭部と、どこまでも広がる平野と丈の短い緑色の草木があった。
視線を少し上にずらすと、雲が形を変えながら左から右へ流れてゆくのが見えた。
昨日に比べると、やや雲が少ないかもしれない。
暖かく柔らかい風が私たちの間を散歩するように通り抜け、私の銀色の髪と羽織っていた赤鹿の毛皮の赤茶の毛先が風にゆれる。ただ歩くことが、これほど気持ちいい行為だと私は今まで知らなかった。
「ねぇリリア」とアシュリーがこちらを振り返る。「そろそろご飯にしましょうか?」
私は大きくうなずき、そして朝捕まえたイタチの肉をカバンから取り出した。
本当に地上は食料に溢れている。
数日前までモグラ一匹のためにあれほど頭を悩ませていたのが遠い昔の出来事のように思えた。私がイタチの皮を剥ぐ間、アシュリーはそこらへんに生えている木を魔法で切り取り、集め、それに火をつけた。
すると、木から黒い煙が立ち上ってゆく。
私たちはイタチの肉を木に刺し、黒煙を吐き出す火に近づけた。
不意に風が私に向かって吹きつけ、黒い煙がこちらに流れてきた。
私は顔をそらし、目をつぶるが、それでも涙がでてきた。
「ねぇアシュリー。昨日から思ってたんだけど……。やっぱり木を燃やすのはやめない? 私たちには炎の魔法があるのだし、それでいいでしょう?」
「なんで?」
「だって……」と言って私は黒い煙を吐き出す木から少し離れた。理由なんて一目瞭然だろうに。
「煙が気になるの?」とアシュリーが尋ねてきたので私は首を縦に振った。
「だってリリア」と言いながらアシュリーは自分のカバンから本を取り出した。「この本にも木に火をつける描写がのっているの。カバンの中の別の本でもよ。だから地上に暮らしていた人々は皆こういう煙に耐えていたのよ。いや、むしろこの煙を喜んでいたんじゃないかしら?」
……そうであろうか?
アシュリーは全く私の意見など取り上げようともせず、むしろ黒煙があがるこの状況を楽しんですらいた。
かつて地上で暮らしていた人々はこの黒煙をどう思っていたのだろうか。
やはりアシュリーの言うようにこの状況を楽しんでいたのだろうか?
でも、それにしても、と思い私は周囲の景色を眺めた。
――本当に……、魔獣フェンリルは一体どこにいるのだろう?
もちろんあの魔獣と遭遇すれば、私たちなんて数秒もせずに跡形もなく消え失せる、ということは分かっていた。分かっていたのだが……、それにしても……。私はもう一度周囲を見回した。
眩しすぎる太陽が緑色の大地と山々を照らし、蝶が舞い、風が波紋のように芳草を波立たせ、ザワザワ、という微かな音と鳥の鳴き声が耳の奥に響いてきた。
静かだった。
そう……、あまりにも静かすぎたのだ。
もちろん、虫の羽音、動物たちの鳴き声、草木が風に揺れる音は聞こえる。
でもそれだけなのだ。少なくとも、こんなのどかな風景が続く地上が、あれほどお婆が恐れていた地上だと、どうしても私は思うことができなかった。
「今、フェンリルのことを考えていたでしょう? リリア」とアシュリーが焼けたイタチの肉を頬張りながら言った。「今、そのことを考えても仕方がないわ。それは出会ってから考えましょう。だって、どっちにしろ私たちが対フェンリル用の魔法を覚える前に奴に遭遇すれば死ぬことに変わりはないのだし。考えても仕方のないことは考えるべきではないわ」
まぁ確かにそういう考え方もあるかもしれない、と思った。
私はアシュリーが差し出してきた食いかけのイタチの肉を口に含むと、もうこれでおしまい、という意思表示の代わりに黒煙を吐き出す燃え盛る木に水をかけた。
木はジュー、という音をたて消えてゆく。
「あぁん……もぅ」という残念そうな声をアシュリーがあげたのを見て、私は言った。
「やっぱり私は木を燃やす行為に反対するわ。だって、本当に目が痛くなるだけだし。ひょっとすると、この立ち上る煙を見てフェンリルがこっちにくるかもしれないでしょう?」
「心配性なのねリリアは、相変わらず」
「別に命をかける覚悟はできてるわ。でも無駄にリスクを負う選択をするつもりもないわ」
この私のセリフにアシュリーはため息をつくと、本当につまらない子、と捨て台詞を吐き、またカバンから本を取り出し、歩き始めた。私もそのあとを追いかける。
アシュリーは本の最初のページに差し込まれていた折りたたまれた地図を広げ、それと睨めっこしながら足を進めた。
草むらが左右に分かれ、地面の所々がめくれあがり土がむき出しになっている一本道を私たちはひたすら進んだ。
ザッ、ザッ、パキパキ、という枝を踏みしめる音が一歩足を前に出すたびに聞こえてきた。
私にはこの旅がはじまった当初から“ある不安”があった。
それは、目的地にきちんとたどり着くことができるのだろうか、という不安だ。
目的地に辿り着くだなんて、そんな当然のこと、今までの私は不安に思ったことさえなかった。生きていた世界が非常に狭かったからだ。
私の知る世界はハウスの中だけで、その中で行きたい場所に辿り着けない、なんてことは想定できなかった。ハウスのどこに何があるかなど皆知っていたし、目をつぶっていても簡単に行きたい場所に辿り着くことができたからだ。
しかし、目の回るようなこの広大な大地を見て、その不安がはじめて生まれた。
もちろん広いことはよい。
せせこましい地下に耐えきれなくなって私たちはこの地上に足を踏み出したのだから。それはよい。
でも、実際にこの広い大地を歩いてみてはじめてわかったのだ。
私たちはあまりにも当然のように目的地にたどり着けると考えていたのかもしれない、と。
私たちはかつてあったとされる魔法学校を目指し、旅を続けているが、どの程度歩けばそこに辿りつくことができるのか見当もつかなかったし、果たして本当にその場所に近づいているのかさえも分からなかった。
アシュリーは時折地図をさかさまにしながら、思い出したように「こっち」と声をあげ、私を先導した。
あと、たぶん私が不安に感じていることの半分は、アシュリーが地図を読み、先導していることにもあった。
私とアシュリーはどちらも地下生まれで、地図を読むのも、この大地を歩くのも初めてであったはずだ。なのにも関わらず、どうしてああも自信満々に先導できるのだろう、と思っていたのだ。
私はひとつ大きく息を吐いた。
「ねぇ、一つ聞いていいかしらアシュリー」
「なに?」とこちらを振り向かずアシュリーは返事した。
「どうしてもアシュリーに聞きたいの」
「なにを?」
「だから……、どうして、こっちに向かって歩いているのかってことについてよ。それをアシュリーの口からはっきり聞きたいの」
アシュリーは振り返った。
「そりゃあ、こっちに魔法学校があるからに決まってるじゃない」
「それは聞いたわ。そうじゃなくて、どうしてこっちに魔法学校があるって分かるのよ」
「だって、地図にそう書いてあるんだもの」
「だから……、どうしてそれが分かるのよ」
「だってほら」と言ってアシュリーは私の背後を指さした。「あれはきっと地図にあるドレール山脈よ」
私は振り向き、緑色のその山々を確認した。
「山の一つ一つに名前があるらしいけど私はよく分からないわ。この地図にも書いてないし。でも、ほら、それで何となく今の場所がわかるでしょう? さっきあった湖がここだから……、私たちはきっとこのあたりにいるの」
私はアシュリーが差し出した地図をくいるように見つめた。
「つまり、これをこのまま左に真っすぐ行くと、王の道と呼ばれる道に辿り着くはずなのよ。この地図を縦断するように伸びている道にね。色んな書物に目を通すと、その道があった場所は木が切り倒されており、人が歩きやすいように砂利が敷き詰められていて、沢山の人が行き交っていたそうよ。そして、その道を、地図の下側に行けば……。ほら、魔法学校があったと言われる場所のすぐ近くまで行けるわ」
なるほど、と思った。
その地図の読み方が正確であるのか分からないが、とりあえずアシュリーなりに考えた道筋を辿っているのだ、と分かった。
地図に何やら名称が書いてある。
「ねぇ、これはなんて書いてあるのかしら?」と私は尋ねた。
「ああ、これ? すこし崩れた文字で読みづらいだろうけど、これはねローレンって書いてあるのよ。そして、さっきの山脈があったあたりのところはアーシャって書いてあるわね」
ローレンにアーシャかぁ、と思った。
そういえば、その名前、どこかで聞いたことがあったような気がする。
頭の奥からその情報を引っ張り出そうとするのだが、どうしても思い出せない。
まぁいいか。とりあえず、ある程度アシュリーを信用してもよさそうだ。
「もういいかしら?」とアシュリーが勝ち誇ったように言うので、私は黙ってうなずいた。アシュリーの長い銀色の髪が風になびき、雲がまたせわしなく右へ流れ始める。
行こうと、思った。
とにかく、かつて魔法学校があったと思われる場所に……、私たちの命が理不尽に消されてしまう前に……
私たちはまた歩きはじめる。
一歩、また一歩と道なき道をゆく。
まずは王の道へゆくのだ。
もうこの世界に人がいなかったとしても、魔法学校に眠る大量の図書の中に答えはあるはずだ。
『魔法学校』の著者であるG・レラルフルの言葉も書いてあったではないか。おおよそ魔法学校に眠る図書に答えのないものなどない、と。
ならば、私たちは必ず奴を倒す答えを見つけられるはずだ。
そうだ。そうに違いない。口元が勝手にニヤついた。
少しだけ不安が和らいだような気がした。
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