第13章 運命の決勝戦

第117話 約束

 ついに決勝戦に進出した、武州中川高校女子硬式野球部のメンバーたち。


 あのわずか4人からのスタートから2年半。

 まさに「感動」の道のりの果てにたどり着いていた。


 ベンチでは涙を流すような勢いで、鹿取を中心に喜びが溢れていた。


 決勝戦は翌日。

 相手は、大阪府代表、大阪応印と決まる。プリンセストーナメントの初代優勝校。まさにこれが「運命」の決戦となる。


 そして、決勝戦を翌日に控える、その日の夜。


 俺たちは、ホテルに泊まっていた。


 当然、男子1人の俺だけが、別室だったが、そこに夜の22時を回った頃。


 彼女が突然来た。

「コンコン」と小さく叩く音で、ビールを飲んでいた俺は気づいて、ドアを開ける。


 小柄な体格に、セミロングの髪、大きな目が特徴的な彼女、潮崎唯だ。

「潮崎。こんな時間に何だ? 早く寝ろ。明日は決勝だぞ」


 当然、教師の立場からすれば、そう言わざるを得ない。

 だが、俺の赤ら顔を見て、彼女は、

「ああー。先生、お酒飲んでるー」

 とからかうように言ってきた。


「飲んで何が悪い」

「別にいいですけどー」

 前置きしてから、彼女が発した一言で、俺はようやく思い出していた。


「それより、今日の試合で言った『約束』、覚えてますか?」

「約束?」


「あ、やっぱり忘れてた。どうせそんなことだろうと思ってました」

 彼女に呆れられてしまった。


 どうでもいいが、女子高生がこんな時間に、1人で男の部屋を訪ねてくるな、と注意したかったが。


「先生、言ったじゃないですか。私が伝令に行ってきて、試合に勝ったら、私の望みを一つ聞いてやるって」

「あっ」

 ようやく思い出していた。


 酒が入って、頭がボーっとしているから、忘れていた部分もあったが。

「じゃあ、約束です。私に『勇気を下さい』」

 彼女の言いたいことが、さっぱりわからなかった俺は、オウム返しに聞き返すしかなかった。


「勇気を下さい? 何のことだ?」

 すると、ためらいがちに、目を逸らした彼女が、照れ臭そうにもじもじと、口に出した。何だか、その仕草が妙に可愛らしい。


「私のこと。下の名前で呼んで下さい」

「えっ。何でだよ?」


「いいじゃないですか。何でも言うこと聞いてくれるんでしょう?」

「何でもとは言ってない」


「屁理屈言わないで下さい。今なら誰もいないし、バレませんって」

 たちまち、押し切られそうになっていた。相変わらず、妙なところで、彼女は「押しが強い」。


「大体、何でだよ。意味不明だ。下の名前で呼はれただけで、勇気が沸くのか?」

 半信半疑の俺に対し、彼女の瞳は真剣そのもので、嘘を言っているようには見えなかった。


 しっかりと俺の目を見つめ、

「沸きますよ。先生に名前を呼ばれるだけで、私は明日の試合、いいピッチングが出来る気がするんです」

 と力強く言ってきたが、「勝てる気がする」とは言わない辺りが、彼女は「投手」というものを心得ている。


 エースがいくらいいピッチングをしても、所詮、打線が打たなければ勝てないのが、「野球」というものの本質だからだ。


 俺は、逡巡していた。

 いくら生徒で、昔からの顔なじみとはいえ、彼女だけを「特別扱い」して、贔屓にすることだけはしたくはなかった。


 だから、他の生徒がいる場面では、絶対に彼女を「唯」と呼ぶことはなかったのだが。


 確かに周りには、今、誰もいない。どこかで覗き込まれている気配もない。廊下は静まり返っていた。


 同時に、たった一言、彼女の名前を呼ぶだけで、彼女の「力」になるのなら、それも仕方がない、というか、「安い物」と思う自分もいた。


 そもそも明日の先発は、潮崎と先だって言い渡してあるし、俺としてもチームの中心にいるのは、彼女だと思っている。


 仕方がない。諦めるか。

「……唯ちゃん」

 ボソっと小さな声でだが、彼女の耳に入るように呟いた。


 その小さくて、弱々しい声に、彼女自身は不服なようだったが、

「うーん。まあ、いいです。ありがとうございます。これで私、勇気が沸きました。明日は、絶対いいピッチングをして、先生に勝利を届けますよ。おやすみなさい」

 あっさりと踵を返して、手を振って部屋の前から去って行った。


 残されたのは、缶ビール片手に、赤い顔を晒している俺一人。


 もしかしたら、俺は潮崎唯という少女から、好意を持たれているのかもしれないが、だとしても、やはりまだ高校生の彼女は、俺の「恋愛対象」には入っていなかった。


 そう。この時は。

 男女の恋心なんてものは、どこでどう転がり、変わるのか、本人にすらわからない。恋や愛とは、全く先の展開が読めないものなのだ。


 ある意味、恋愛は野球に似ている。


 そして、ついに決勝戦の火ぶたが切って落とされることになる。

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