第94話 泥仕合(前編)
その年の夏は、「梅雨」が長かった。
通常、夏の甲子園の埼玉県予選は、毎年7月上旬の10日前後から開始されるが、その年は、梅雨が長引き、未だにぐずついた天気が続いていた。
しかも、高校野球の県予選は、日程が過密なため、プロ野球のように、簡単に「中止」や「延期」には出来ない事情もあった。
当日の天気は、雨。ただ、それほど強い雨ではなく、しとしとと降る雨だったため、開催側の判断で、中止にはならなかった。
その日の先発は、潮崎。
先攻は我が校、後攻は浦山学院だった。
スタンドには、傘を持った応援客が目立ち、球場の土は濡れていた。
「嫌だなあ、雨」
本日、先発の潮崎が愚痴っており、どこか浮かない表情だったのが気になった。
それは、彼女が「晴れ女」だったからだ。
確率的に言っても、潮崎が投げる試合に「雨」というのは、ほとんど記憶にないくらい、彼女が投げる日は「晴れ」が多かった。
「大丈夫か、潮崎? 雨での試合は初めてだろ?」
一応、心配になって声をかけると、彼女は苦笑いしながらも、
「まあ、大丈夫ですよ。中学の時にも雨での試合は経験してますから」
とは言っていたが、俺は早くも「嫌な予感」がしていた。
スタメンは、
1番(一) 吉竹
2番(二) 田辺
3番(中) 笘篠
4番(三) 清原
5番(遊) 石毛
6番(捕) 伊東
7番(左) 平野
8番(右) 佐々木
9番(投) 潮崎
とした。
ほとんど固定メンバーだが、雨を嫌がっている潮崎を下げ、最近ライトよりも、「目立つ」という意味で、センターに固執している笘篠をセンターに配置。
事実、彼女は守備も良くなってきており、肩も強くなっていた。
「プレイボール!」
しのつく雨ではなかったものの、絶えず雨に晒され、しかも加えて「風」まで出てきていた。
そして、それこそがこの試合が「波乱」になる予兆だった。
初回。マウンドに立ったのは、相手校のエース、若田部未奈美。
身長160センチほどと、それほど大きな体格ではないが。目立つのは「容姿」だった。
顔が小さく、手足が長く、目鼻立ちもくっきりしていて、目が大きい。いわゆる「アイドル顔」の美少女で、彼女の「容姿」目当てで、駆けつけた観客がいたくらいで、笘篠に劣らない「可愛らしさ」が滲み出ていた。
ところが、ひとたびマウンドに立つと、そこからはえげつないほどの投球が披露されていた。
最速は120キロ程度。カットボール、スライダー、カーブ、フォーク、シュートを持ち球とし、初回の先頭バッター、吉竹に対し、いきなり速いストレートで空振りを取り、さらにスライダーとカットボールを混ぜてきた。
ファールを交えて、5球ほど粘り、カウント2-2からの6球目。
左打席の吉竹から見て、外に逃げるシュートを、彼女は逆らわずに流し打ち。
ボールは、てんてんとサード方向へ飛んだ。
だが、雨のために地面が濡れており、ボールは予想以上に「飛ばない」。つまり、雨でぬかるんだ地面では、バウンドの反発力が吸収されるため、ボールは思ったよりも跳ねないし、速度も遅くなる。
だが、これは打撃側のみの不利だけでなく、守備側も、捕球リズムが狂うので、普段よりも一つ前の捕球ポイントで捕球しないといけない。
相手側も慣れていなかったのか、三塁手が一歩遅れて飛び出し、何とか捕球して一塁に送球したが。
俊足の吉竹は一塁を駆け抜けていた。
ノーアウト一塁。
ところが。
2番田辺の打席。相手のキャッチャーは、埼玉県一とも言われる「強肩」が持ち味の梨田だ。
3球目。モーションの隙を突いて、吉竹が走った。盗塁だ。塁間3秒台で走る彼女の俊足は、我がチーム一どころか、埼玉県内でも有数の実力だったが。
「アウト!」
素早く捕球してから投げるまでの動作が恐ろしく速く感じた。
あっという間にランナーなし。
戻ってきた吉竹に話を聞く。
「すごい肩ですわ。同時に、あのピッチャーの球は、『浮いて』きます」
と言っていた。
つまり、ボールが「浮く」ため、ノビがあって、バットがボールの下を叩いていたということらしい。
結局、その回は残りの打者が凡退。いずれもバットがボールの下を叩いていた。
1回裏。潮崎の投球は悪くなかった。得意の変化球主体のピッチングで相手打線を寄せ付けずに三者凡退。立ち上がりは良かった。
ところが。
2回表、若田部を攻略できず、三者凡退に終わった我が校に対し。
相手校は4番からの好打順。打席に立つのは、エースで4番の若田部。
シンカーとカーブを交えて、カウント2-1とした4球目。
「あっ」
と、潮崎が驚いたような表情をしたのを俺は見逃さなかった。
失投だった。
雨でボールが滑ったのか、変化球のカーブが曲がり切れずに、棒球に近い形でストライクゾーンの真ん中少し上に行った。
―キン!―
もちろん、若田部はそれを見逃さずに、振り抜いていた。
打球は、雨に曇るマウンド頭上を越えて、センターへ。
センターの笘篠が懸命にバックスクリーンに向けて走る。
その頭上を越えて行った打球は、無常にもバックスクリーンへ直撃。
いきなりの先制点を取られていた。0-1。
だが、これはあくまでも「序章」に過ぎなかった。
悪夢のような試合は、まだ始まったばかりだった。
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