第64話 辻の笑顔
1点を争う好ゲームとなった試合は、ついに2-1で終了。
我が校は、創部以来初の準決勝へと進むことになる。
「ありがとうございました!」
礼を終えて、戻ってくるナイン。
辻は早速、三塁側スタンド付近のネットの前へと歩いていた。
彼女の父、辻孝宏が最前列のネット前にいた。
俺も興味本位から、その様子を遠巻きに眺めていたが、気になるのか、羽生田までついてきて、隣で見ていた。
「3安打、打ちました」
報告する彼女に、その父親は、
「よくやった」
と、短い言葉だけで応えていたが、表情は心なしか柔らかくなっているように、俺には見えた。
対して、辻本人もまた、わずかながら微笑んでいた。正直、辻の「笑顔」は初めて見た気がする。それくらい、普段から表情がない奴だ。
「家族の形」は色々で、他人から見ればきっと上手くいってないように見えるのかもしれないが、辻と父親の関係は、恐らく野球を通して、育まれてきたのだろう。
父の期待に応えるように野球をがんばり、父に褒めてもらう。それが辻にとっては、「認められた」と思い、原動力になっているのかもしれない。
そして、ゆっくりとした足取りで戻ってくる彼女。
俺と羽生田が見ていたことに気づくと、彼女はすぐに照れ臭くなったかのように、微笑みを消して、視線を逸らしてしまった。
そんな彼女に、
「辻ちゃん。ナイスバッティング! っていうか、笑ったら可愛いのにね。もったいないよー」
と、からかうように、絡んでいた。
「やめてよ、羽生田さん」
そう否定していた辻だったが、表情を見ると、満更でもないにように見えた。
ともかく、ようやく「覚醒した」辻がチームの打点を全て稼ぐ猛打賞の大活躍で、試合は勝った。
ナインの士気も上がっているように見えた。
ただ一人を除いて。
その一人とは、潮崎だった。
「阿波野さんと対戦したかったなあ」
まだそのことが気がかりのようだった。
それに対し、彼女の長年の親友は、
「唯。どこが相手でも関係ないよ。それに、次の相手はあの『春日部共心』だよ」
と彼女に声をかけていた。無論、伊東だ。
そう。阿波野が中心となっている強豪校、浦山学院を準々決勝で破っていたのは、あの春日部共心。去年の夏、準々決勝で負けた相手だ。
「そっか。残念だけど、中村さんと戦えるのは嬉しいかも」
沈みかけていた潮崎の顔に笑顔が戻る。
だが、
「でも、よりによって決勝前に中村さんとか。勝てるかなあ。何か対策を打たないとなあ」
潮崎にしては、珍しく弱気で、不安の気持ちが前面に出ているように、表情が曇っていた。
「ここまで来たら、思いきってやるしかない」
俺が二人のやり取りを見て、声をかけると、
「そうだよ、唯。先生の言う通り。今日の投球だって悪くなかった。私もちゃんとリードするから」
「うん……。わかってる」
伊東の励ましに潮崎は頷いていたが、それでもやはり彼女の表情は曇ったままのように俺には見えた。
初の準決勝。しかも相手は、屈指の強豪校。
さすがに潮崎でも「野球を楽しむ」余裕がないのかもしれない。
そこで俺は、密かに心に思っていたことを彼女に提案してみることにする。
「そんなに心配なら、阿波野にでも聞いてみればいいだろ。俺が連絡先知ってるから、教えてやる」
「えっ。マジですか、先生!」
潮崎の大袈裟なくらいの大きな声、そして明るい表情が耳を突く。
「ああ」
「じゃあ、教えて下さい。私、阿波野さんに会いに行ってきます」
食いつくように、そして勢いよく俺に阿波野の連絡先を促してくるのだった。
仕方がないので、俺は浦山学院の村上監督から教わった阿波野の連絡先を、彼女に教える。
「試合は明後日だから、明日しかチャンスないけどな」
と付け加えるも、
「大丈夫です。きっと阿波野さんなら、いいアドバイスをしてくれます」
潮崎は、勇んでそう答えていたが。
(他人の意見がどこまで参考になるか。しかも、阿波野は中村に打たれているしな)
俺の危惧はそこにあった。
準々決勝で、先発した阿波野は、7回1/3を投げて5失点。
そのうち、4番の中村には2ランの1本塁打に加え、2点タイムリーを打たれ、松永にもタイムリーを打たれていたのだ。
潮崎は、阿波野のことを尊敬しているような節があるが、阿波野に頼りすぎな気もする。
ともかく、潮崎は試合後に早速、阿波野に連絡を取り、明日には会いに行くということになったらしい。
いよいよ準決勝。その前に、エースの潮崎が動く。
予想外の展開になっていく。
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