第50話 守備の要
春季地区大会で、チームプレイの連携不足により惨敗していた我がチーム。
その後の合宿によって、何とか持ち直した後、今度こそ夏の甲子園に行くために、必死に練習を積み重ね、気がつけば、夏の県大会予選まで残り3週間をきっていた。
着実に、そして去年よりも実力を上げていたのは、俺の目にも明らかだったため、密かに今年こそはと期待していたのだが。
そこに、思わぬ形でアクシデントが舞い込むことになる。
「なに、伊東が怪我!」
その日、部室を訪れた俺の耳に聞こえてきた第一声が、潮崎から聞いたそれだった。
「はい。えーと。きんきんなんとか痛とかっていう」
「はあ?」
「あはは。潮崎ちゃん。全然言えてないじゃん。筋筋膜性腰痛だって」
すかさずフォローに入る羽生田に、潮崎は笑って、
「ああ、それです」
と答えていたが、俺はさすがに心配になる。
「大丈夫なのか? それで伊東は?」
「今日は病院に行ってから、合流するそうです。すいません。私が無理させちゃったかもです」
潮崎の話によると、伊東は部活動後も、潮崎の投球練習に付き合って、よく二人で練習していたそうで、それが原因かもしれない、と自分を責めているようだった。
それを聞いて、まだ結果がわからない以上、安心はできなかったが。
俺にとっては、最も危惧すべき問題が、ついに浮上してきた。
それは、「キャッチャー不足」である。
キャッチャーは、野球において特殊な守備位置で、常に中腰でいるし、しかも二塁に球を投げなくてはならない。
おまけにクロスプレーで選手と接触することも多い。
言い換えれば、「怪我をしやすいポジション」だ。にも関わらず我がチームにはキャッチャーが伊東しかいない。
もっと早くに対策を打って、代わりのキャッチャーを用意すべきだった。
これは、俺が優秀なキャッチャーの伊東に頼りすぎていたという部分もあった。彼女がいるから「安心」しきっていたという部分があった。
だが、そうは言っても、このままだと練習にも差し支えるし、何よりも夏の予選までに伊東の復帰が間に合うかもわからない。
それに、その日はちょうど実戦形式の形で、男子硬式野球部と練習試合をする予定だった。
「困った。他にキャッチャーできる奴なんて……いないよなあ」
途方に暮れる俺に、救いの手が差し伸べられるたかのように、声がかかった。
「それがね。一応、いるんだよ、カントク」
羽生田だった。
「何、誰だ?」
「辻ちゃんだよ」
彼女が指さした先には、いつも通り無表情のまま、シューズを履き、自分のグラブを眺めていた辻の姿があった。
「マジでか、辻?」
驚きと、そして縋るような気持ちで彼女に声をかけると。
「はい」
いつものように、最低限の短い返事だけが返ってきた。
なので、事情に詳しそうな羽生田に聞いてみると。
曰く。辻は元々、小学生で野球を始めた時はキャッチャーから始めたそうだ。父が野球選手で、英才教育を受けていた彼女は、幼い時から抜群の野球センスを持っており、本職のセカンドはもちろん、ショートも他の内野もこなせたが、そのセンスを見込んだ当時のリトルリーグの監督が、試しに辻にキャッチャーをやらせてみたらしい。
もっとも、キャッチャーというのは、少年野球、少女野球では実は特に「人気がない」ポジションで、やる人がいないから、やらせてみた、という事情もあったらしいが。
そうしたところ、辻はその難しいキャッチャーのポジションを難なくこなしていたという。
「じゃあ。今日の練習試合、やってくれるか?」
鼻息荒く、俺が声をかけると、
「わかりました」
最低限のクールな返事だけを返し、辻は内野用の自分のグラブを脇に避け、代わりにキャッチャーミットを手に取り、キャッチャーマスクやプロテクター、レガースをいそいそと準備し始め、羽生田がそれに付き添っていた。
一方、辻が抜けた後の代替のセカンドも考えなければいけなかったが、これについてはもちろん、問題なくソフトボール経験者で、守備にも安定したものがある新1年生の田辺に任せることになった。
練習試合とはいえ、初のスタメン起用で彼女は目を輝かせていた。
男子硬式野球部が普段使っている、メインのグラウンドで実戦形式の9回制の練習試合が行われた。
俺としては、辻のキャッチャー姿が新鮮で、その小さな体にプロテクターやレガースが大きく見えてしまうと同時に、不安の気持ちで溢れていた。
試合直前に、マスクをかぶった辻に声をかけると。
「多分、大丈夫です」
「多分?」
「キャッチャーはかなり久しぶりなので」
普段、無口で無表情でわからないが、それでも最近は彼女の感情の起伏について、少しずつだがわかりかけてきていた俺にとって、少なくとも辻が少し不安そうにしているというのは、言動から感じ取れていた。
だが。
「ストライク! バッターアウト!」
見ている限り、伊東のような抜群のキャッチングの安定感、後逸しない技術はないが、それでも頭がいいのか。
辻の配球は、ピッチャーの潮崎を生かせているようで、男子相手に次々と三振と凡打を築いていた。
(心配なさそうだな。ただ……)
やはり、伊東ほどの安定感には欠け、たまにだがパスボールをしていた。
一方のセカンドの田辺は。
こちらは、抜群の安定感だった。
それこそ辻には劣るものの、フィールディング、足さばき、打球反応など、確実にゴロを処理できていたし、ショートの石毛との連携もまずまずだった。
「先生。すいません」
不意に、聞き覚えのある声がかかったかと思い、振り返ると、伊東の姿がグラウンドのベンチ近くにあった。
いつの間にか来ていた彼女に、俺は慌てて声をかける。
「伊東。大丈夫か?」
「ええ、何とか。それでも全治3週間はかかるそうです」
「3週間か。痛いな。夏の予選が始まってしまう」
「本当に申し訳ありません」
伊東は何度も頭を下げて謝ってきたが。俺としては別のことが気になる。
「原因は?」
「オーバーワークです」
「何?」
「ちょっと張り切って練習しすぎまして」
聞いてみると、潮崎が話したように、彼女は普通の部活動が終わった後も、潮崎に付き合って、投球練習に付き合っていたという。
それが何日も続いたため、腰に無理な負担がかかったのだろう。
「まあ、やってしまったものはしょうがない。お前はまずは治すことに専念しろ。それより辻がキャッチャーできるって、伊東は知ってたのか?」
「はい。一応、聞いていました」
「どうして教えてくれなかったんだ? お前の代わりはいないと焦ったぞ」
「すいません」
すでにその日、三度も聞いている謝罪の言葉を聞きながら、問いただすと。
「先生から聞かれなかったので、ついそのままにしてました。まあ、私にも私がやれば大丈夫、という過信がありました」
素直に心情を吐露してくれた。
「わかった。とにかくお前は治療に専念しろ。あと、潮崎が心配してたぞ。つき合わせた自分が悪いって責めてた」
改めてそう告げると、彼女は珍しく沈痛な面持ちで、
「そうですか。あとで謝っておきます」
それだけを告げて、熱心に試合を眺めるのだった。
俺と伊東、そして控えの外野手である佐々木、同じく投手の工藤、そしてマネージャーの鹿取。
最初は俺とマネージャーしかいなかった、このベンチに5人も人がいることになる。
俺は少しだけ奇妙な、というよりも懐かしい心地がするのだった。
もっとも高校時代は、ベンチにはもっと人がいたのだが。
「上手いな、辻。ソツがない」
ふとつぶやくと、近くで眺めていた伊東が、
「そうですね。辻先輩は何でもこなせます。ある意味、羨ましいですね」
そんなことを呟いては、感傷に浸るように辻の後ろ姿を眺めているのが特徴的だった。
「先生。私のせいでこんなことになって、私が言える義理ではないのかもしれませんが、この夏。勝ちましょうね。きっと、みんなで甲子園に」
「ああ」
確信があったわけではない。いくら工藤や佐々木、田辺が入ったからと言っても、強豪相手に勝てるとは限らない。
去年みたいな「奇跡」はもう起こらないかもしれない。
それでも、俺は、いや俺たちは「甲子園」に行きたい気持ちだけは負けていなかった。
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