第44話 渡辺先生の正体(前編)
目の前で起こっていることを、俺は信じたくはなかった。
「おら! 平野、おせーぞ!」
怒声を飛ばして、ホームベース上でバットを振るう女性。それはあの美人の渡辺先生だった。
その見た目があまりにも普段と違いすぎる。綺麗な顔を歪めて、鬼の形相で、叫んでいた。
実は、肩を壊して選手生命が絶たれた俺は、この頃から顧問の渡辺先生に頼んで、シートノックをやってもらうようになったのだ。さすがに俺には肩に負担がかかるし、彼女は一応、ソフトボール経験者でもあるし、身近に他に頼める人もいなかったというのもあるが。
その初日。張り切ってジャージ姿で現れた渡辺先生は、いつものようににこやかな笑顔だったが。
バットを持った途端、豹変した。
しかも、その鬼コーチぶりは徹底していて、
「とりあえず内外野を鍛えて下さい」
とだけ指示していた俺の依頼をはるかに飛び越えて。
アメリカンノックをやっていた。
アメリカンノックとは、通常のノックとは違い、外野のフィールド全体を使ってノックをするというもので、選手が構えている場所にノックをするのとは違い、ノックを受ける選手をレフトやライトに配置し、ノッカーは野手が走っていく方向に向けて、ギリギリ捕れるような位置を狙うのだが。
渡辺先生の「鬼ノック」は、ほとんど捕れないだろうというところを狙っていた。しかも、心なしか「笑って」いた。明らかにいじわるにもドSにも見える。
その間、その壮絶な風景を見ながら、俺は二人のピッチャーと、一人のキャッチャーを見るために、グラウンド脇のブルペンの傍に立っていた。
「なんか壮絶すぎるんだが。渡辺先生って、何者なんだ?」
そのあまりにも厳しいノックに、部員がかわいそうに思えるほどだったが。
「ああ。渡辺先生はね。元ヤンだって噂だよ」
明るくて、話し好き、噂好きの羽生田が教えてくれた。
(元ヤン。やっぱそうなのか。だから、彼氏いないのか? あんだけ美人なのにおかしいと思った)
見た感じ、あれだけの美人なのに、彼氏がいる気配を感じなかった。
やはり、「綺麗な花には
(渡辺先生とはちょっと距離を置こう)
本気でそう思うのだった。正直、付き合いたくないくらい「怖い」。
というより、元ヤンキーの渡辺先生といい、現役ヤンキーの清原といい、極端なぶりっ子の笘篠といい、お嬢様口調の吉竹といい、何故この学校には「変」な奴が多いんだ。
それはともかく、一応、投手出身の俺は、二人のピッチャーと一人のキャッチャーを優先的に見て、まずは二人の成長を確かめ、色々と指導する腹積もりだった。
いくら男子との勝負に勝ったとはいえ、来年春までにはある程度、鍛えておかないと「夏」はまた勝てない。
ひとまず、まずは羽生田に投げさせる。彼女は、強肩と広い守備範囲、俊足を持つ野球経験者だから、地獄のようなアメリカンノックはひとまず免除された。
まずは、ストレート、カーブ、スプリットを何球か交えて投げてもらう。
相変わらずの荒れ球だったが、それでも前よりはコントロールが良くなってきているようにも見えるし、球のスピードは若干だが、上がっているように見えた。
「いいですね。前より良くなってます。唯よりピッチャーの素質、あるんじゃないですか?」
伊東が、冗談とも本気ともわからない口調で、少し微笑みながら言う横で、
「えー、そりゃないよ、梨沙」
潮崎が文句を垂れていた。
ところが、マウンドから降りた羽生田の表情はあまり明るくなく、
「投げるのは楽しいけどさ。ピッチャーって孤独だよね」
不意に彼女が俺に近づきながらそんなことを口にした。
わかる気がする。所詮、ピッチャーというのは、「一人」で戦っているようなものだ。それは「相手」だったり「自分」だったり。
試合中は、もちろんナインが励ましたり、監督が伝令を送ったりもするが、究極的に言えば「ピッチャーは孤独」な存在なのだ。
ある意味では孤高の存在で、彼女の言っていることは正しい。
だが。
「何、言ってるんですか、羽生田先輩!」
それに堂々と反論していたのは、潮崎だった。
「ピッチャーは孤独じゃありません」
普段、あまり、というかほとんど先輩には逆らわない、素直なところがある彼女にしては珍しいくらい真剣な目だった。
「えー。孤独だよー」
羽生田は納得いっていないようだが。
「だって、後ろに7人も味方がいるんですよ。打たれたって、きっと味方が捕ってくれる、守ってくれる。そう思えば孤独じゃありません」
その物言いが、潮崎らしいと俺は思った。
ナインを心から信頼していないと、こんな言葉は出てこない。
小学生から野球を始めたという彼女。きっと、いい環境で野球をやってきたのだろう。
ひどいチームになると、敗戦の責任をピッチャー一人に押しつけたりする。野球というのは、チームプレイだが、同時に「ピッチャーの責任が重い」スポーツでもある。
その意味では、羽生田の言っていることも、潮崎の言っていることも両方正しいのだが。
「前にも1人、味方がいるけどね」
キャッチャーマスク越しにそう言って、笑顔を見せたのは伊東だった。
我がチームは、まだそれほど強くはないが、それでもきっとこういうチームワーク、信頼の高さが、いいチームになるための条件でもあるのかもしれない。
その時はそう思った。
ふとグラウンドを見ると、渡辺先生が今度は内野陣を守備に着かせて、コロンビアノックをやっていた。
これはアメリカンノックの「内野版」で、ファーストやサードのベース付近から反対側へ走りながらノックを受けるというもの。これを何往復かする。
アメリカンノックも、このコロンビアノックも、要するに体力や下半身、脚力の強化、
なお、由来は外野のフィールドを端から端まで使うことを広いアメリカの国土に例えたもので、それより小さい内野はコロンビアに例えたものだというが、何故コロンビアなのか、実はよくわかっていない。
ともかく、ここでも渡辺先生の「鬼」っぷりが炸裂していた。
「石毛! ちんたら走ってんじゃねえ!」
「吉竹! 足が速えだけで、捕球できてねんだよ!」
(こええ!)
改めて見る、渡辺先生の「鬼」ノックは、さすがに元ヤンだけのことはあり、ヤンキー時代を
さすがに少し生徒たちが気の毒にも思えるが、頼んだ以上は黙って見ることしかできない。
肩の状態がよくない、俺はもどかしい気がした。
夕方、ようやくこの「鬼ノック」が終わる。
投球練習を終えた、潮崎や羽生田も加わり、伊東は捕球練習を中心にやらされた。
「こんな感じでいいですかね、森先生?」
急に声音を元の可愛らしい女性の声に戻し、俺に対面してゆったりとした表情で笑う渡辺先生。
「ええ。ありがとうございます」
「では、私はこれで」
あっさりと
残された俺が、生徒たちに感想を聞くと、
「渡辺先生、鬼すぎ」
「絶対、あの人、ドSだよね。顔、笑ってたし」
「監督の方が優しいです」
次々に不満の声が漏れていた。
まあ、気持ちはわからなくもない。
特に現代っ子は、昔みたいな「しごき」に慣れていない。
ましてや、スパルタ教育なんて流行らないどころか、簡単に「訴えられる」時代なのに、渡辺先生は完全に時代に逆行しているのだ。
だが、それでも俺は彼女にノックを任せるしかなかったし、さらにこの後、俺たちを驚かせる出来事が起こるのだった。
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