第3話 最高の遅球王

 早速、彼女たちにユニフォームに着替えてもらい、第二グラウンドに集まってもらった。


 というよりも、見たいのはバッテリーだけだったが。


 俺は、まずは投球が見たいため、キャッチャーマスクをかぶった伊東の後ろに立って、審判役を務めながらも、唯ちゃんの投球と、同時にキャッチャーの伊東の実力も図るつもりだった。


 ところが。


(遅い)

 セットポジションから、振りかぶらずに1球目。唯ちゃん、いや面倒だから潮崎と言い換えよう。

 潮崎は右のサイドスローから思いきりボールをキャッチャーミットに投げ込んだ。


 だが、その球が明らかに遅い。いや、むしろ遅すぎる。

 それは、長らく俺が男子野球をやってきたからというのもあるが、球速で言えば恐らくは60キロから70キロくらいだろう。


 女子野球の球速は、プロの最速でも130キロくらいと言われている。つまり、女子野球の場合、男子野球の球速マイナス30キロくらいが目安と言われているから、この場合、男子に換算してもせいぜい90キロから100キロ程度しか出ていないことになる。


(こんなに遅くて打ち取れるのか)

 当然、そう危惧していたが、次に来た球が、俺の度肝を抜くことになる。


(カーブか)

 一瞬、そう思ったその球の軌道は、カーブのように左側、つまりバッターボックスから見て右側に曲がる球に見えたが。


 次の瞬間、バッターボックスの手前で急にカーブとは逆方向に曲がりながらストンと落ちた。

 それも、50センチ近くも急激に変化するボールだった。


(シンカーか)

 一瞬でわかった。

 これは、一見カーブのように見えるが、実際には一度浮き上がってから、曲がり落ちる軌道を描いている。

 非常に特徴的なシンカーだった。


 それも、これほどの落差のあるシンカーを操れる選手は、高校野球はもちろん、プロでも珍しい。


 潮崎は、何球か投げたが、他の球種は60キロ程度のスローカーブと80キロにも満たない、小さな変化のフォーク。あとは90キロからせいぜい100キロ程度のストレートだけだった。


 だが、特徴的なのは、シンカーだけでなく、そのコントロールだった。

 まるでバッターボックスの周りを9分割するかのように、正確にキャッチャーが示した場所にボールを投げ込んでくる。


 球速こそないが、恐ろしいほど精密なコントロール技術を持っていた。


 おまけに、彼女は投げるフォームがどの球種でも変わらない。相手から見れば、どの球が来るのか予想が難しいだろう。


 しかも、キャッチャーの伊東は、余程自信があるのか、それともピッチャーの潮崎を信頼しているのか、全く焦ることもなく、全部の球を完璧に捕球していた。この子の技術も並みのキャッチャーのそれではないように思えた。


「潮崎ちゃんの球、めっちゃ遅いくせに、全然打てないんだよな」

 ロングのポニーテール姿の羽生田が、辻と共に眺めながら呟いていた。


「じゃあ、試しに打ってみろ」

 俺は、そのまま羽生田を呼び寄せた。


 渋々ながらも、ヘルメットをかぶり、羽生田が打席に立つ。右打席に立ち、バットを構える。


 スタンダードなスクエアスタンスのバッティングフォームで、綺麗な形をしている。恐らく彼女は野球経験者だろう。未経験者には出来ない、洗練されたフォームを確立している。


 1球目。外角低めのフォークボール。これを羽生田がバットの先に当ててファール。

 2球目。内角高めのカーブ。空振り。

 そして3球目。例の球が来た。


 シンカーだ。

 浮き上がるような軌道を取り、一見すると高めに見えるが、打者の手元で鋭く落ちる。羽生田は空振りになり、三振になっていた。


 恐らく、あれは右打者から見れば、打つ瞬間に手元で球が消えるように見えるだろう。

 それくらい変化する「魔球」とも言えるほどの球筋だった。


(すごい。これは球速に関係なく、実力だ)

 改めて、マウンドの彼女を見て、感心した。


 同時に、野球では一般に、速球派ばかりが注目されるが、球が遅くても打ち取れる技術があれば、戦力になることを改めて認識した。

 実際、過去のプロ野球史を紐解けば、球が遅くても活躍した選手は何人もいる。いわゆる「技巧派」とか「軟投派」と呼ばれる部類の投手だ。


 マウンドから戻ってきて、

「どうでした?」

 明るい声を上げる彼女を、俺はベンチに呼び寄せた。


 ベンチに座り、そして、全員をベンチ前に集める。

「潮崎。あの球、どこで覚えた?」

 当然、一番それが気になっていた。


 すると、彼女は驚くべき事実を披露してくれた。

「兄から教わりました。知りません? 潮崎昂輝こうきっていうプロ野球の選手。去年ドラフト1位でプロに入りました」


「知ってるも何も、超有名人じゃないか。ドラフトで4球団が競合したっていう。同じ苗字だと思ったら、兄だったのか」

 それを聞いて、確かに納得がいく部分はあった。


 潮崎昂輝は、高校時代からプロ注目の本格派投手で、夏の甲子園大会でも準優勝投手になり、ドラフト会議では、新聞やネットニュースを賑わせるくらいの人気投手だった。


 もっとも、高卒でプロに入ったから、まだ2軍調整中で、本格的なデビューはしていない。

 確か彼もまた、シンカーを使えると聞いたが、それを妹に伝授していたとは思わなかった。


「まあ、確かにお前の球はすごいよ。あのシンカーを決め球に使えば、そう簡単には打たれないだろう」

 そう褒めると、それが余程嬉しかったのか、潮崎は目を輝かせて、


「本当ですか?」

 と、無邪気に喜んでいた。


 同時に、聞いてみると、中学から潮崎とバッテリーを組んでいた伊東は、潮崎の球なら絶対に逸らさない自信があるらしく、事実としてしっかり捕球していたし、リードも決して悪くなかった。


 羽生田と辻は、共にリトルリーグ出身で、中学時代はリトルシニアで活躍したとか。羽生田は外野手で、俊足と強肩が持ち味だという。辻は二塁手で、守備力が高く、小技も上手く、アベレージヒッターとして活躍したという。


 まあ、そう考えると素材は悪くない。

 だが。


「しかしなあ。部員が集まらないことには、まず野球が始められない」


 なおも、俺が渋っていると。

「先生。私、甲子園に行きたいです!」


 潮崎の大きな瞳が俺を真っ直ぐに見つめていた。

 デジャブだった。あの夢と同じ光景が広がっていた。あるいは、あれは「正夢」だったのかもしれない。もしくは「予知夢」だったのかもしれない。


 力強い瞳を向け、硬球を硬く握り締めていた潮崎唯を見た俺は、もう退路を断たれて、諦めるしかないと観念するのだった。


 何よりも、元・高校球児で、プロ野球選手にはなれなかった俺には、こういう真っ直ぐな瞳が無性に羨ましかったのかもしれない。


 ならば、ダメ元で手助けくらいはしてやろう、と。同時に恐らく1年後にはこの高校自体がなくなる。それなら最後くらいは彼女たちに花を持たせてやりたい、という気持ちもあった。


「わかった」

 そう呟くと、


「やったー! やっと私たちにもまともな監督ができるんだね」

「よかったね、唯」

「やってやろうよ」

 潮崎、伊東、羽生田が手を合わせたり、ハイタッチをしながら妙に盛り上がっていた。

 同時に、クールで無口な辻は相変わらず無表情のまま、マネージャーの平野は遠巻きに見ながらも、微笑んでいた。


「ただし!」

 ぬか喜びさせてはいけない、と釘を打つ。


「まずは部員集めだな。最低あと5人。2週間やるから死ぬ気で見つけろ。それが出来なかったら、女子硬式野球部は解散だ。俺も監督をやめる」


「ええーっ! マジですか!」

 潮崎が大袈裟なリアクションで驚いているが、ここは容赦してはいけないところだ。


「あと、言っておくけど、俺の練習は厳しいぞ。大体、こんな戦力で甲子園に行こうと言うのがバカげてる。お前ら、高校野球をナメてるのか。悔しかったら、死ぬ気で見返してみろ」

 今時、スパルタ教育なんて流行らない。

 それはわかっているが、それでも最初から甘いことを言っていては、とても甲子園などに行けるはずがない。


 確かに、男子に比べ、女子の競技人口は少ない。言い換えれば、男子硬式野球部が甲子園を目指すよりも、確率的には高い確率で甲子園に行ける。


 だが、それでも壁は厚い。あまりにも厚い。この惨状を見れば、誰でもそう思うだろう。


 聞けば、人材不足で「顧問」の教師すらこの部にはいないという。休部状態というのも頷ける惨状だった。


「わかりました」

 一応、頷いていた4人だったが、内心は納得がいかないような表情を浮かべていた。


「ところで」

 俺は気になっていたことを思い出していた。


「何で部員が集まらないんだ?」


「だって……」

 潮崎が、少し悲しそうに目線を逸らして、荒川の流れに目をやった後、


「ここ、田舎ですから。そもそも男子野球部も15人しかいないですし、他の部活もほとんど全国レベルで活躍なんてしてないんです」

 そう教えてくれた。


 どうやら、俺が赴任した先は、本当にとんでもない「ド田舎」の小さな高校で、目立ったことを何も残せていないらしい。


 それは確かに「廃校」を考えられても仕方がないのかもしれない。


 こうして、俺はひょんなことから、女子硬式野球部の監督を引き受けることになったのだが、試練はまだまだ始まったばかりだった。

 というよりも、現状は野球部としてスタートすら切れていない。

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