6章

6-1「切望!決戦は明日!・新谷丈」



 10月。厳しかった残暑もようやくなりを潜め、季節は徐々に秋に移ろい始めていた。吹き抜ける風には、最早先日までの熱波ともいえるほどの荒々しさはなく、その中に哀愁をも感じさせるようになって来た。

 ここ、東京都・台場にあるお台場海浜公園にも、その秋風が吹いている。先日までの暑さをさらい秋を連れて来たようにも感じられる。

 そんな公園の一角。海に面した砂浜に敷かれた遊歩道用のデッキの上に立ち、新谷丈は明日の決戦の舞台となる海を見つめていた。何かをぶつぶつと呟きながら、一心に何もない水面を目で追っている。やがてその視線は、大きく反時計回りに水面を一周してから新谷の元へ帰って来た。

そしてそのままその視線は、手元の紙に注がれた。その紙には、お台場一帯を簡略的に記した地図と、その上に赤やら青やら黄色やらで線が引かれたものが記されていた。


「スイムコースには、特に変更点無し…。あとは明日の波とか流れだな…。」


 そう言って視線を紙から上げると、背負っていたバックにそれを押し込んだ。ヘルメットを装着し、体に立てかけさせていたバイクを担いで公園を後にした。


 新谷は今、翌日にこの場で開かれるトライアスロンの日本選手権のレースコース確認を行なっていた。天候・風・路面状況・気温など自然環境に関しては、当日にならなければ何が起きているかはわからない。そしてこれらの要素は、レース展開やゴールタイム、結果に強く関係してくる。トライアスロンは自然との勝負と言われる事もあるが、それはこれらの要素が結果に対して密接に関わってくる要素であるからであった。


しかし、レースを行うコースに関しては事前に大会側が公表してる事が殆どである。選手は、公表されたコース図を頼りに当日の想定をしながらコースを一通り辿る。そうすることによって、危険箇所や、カーブ、戦略上の起点になりそうなポイントなどを予め確認しておくのだ。いわば、自然環境などの不確定要素以外の確定された要素を一つ一つ確認し、潰して行くのだ。

そうやって、確定された要素を潰して行くことによって、当日の不確定要素に対して対応する余裕を作っておく。特に当日、レース内で何か大きな攻撃をライバルに対して行おうと考えている選手は、その起点となりうる箇所の候補を上げて行く。事前のこう言った準備が勝負を分けることは多々あり、ライバルが攻撃をして来そうな箇所、自分が苦手な箇所(コーナリングなど)を把握しておくことが、勝利への絶対条件となっていた。


新谷はバイクに跨り、バイクコースを辿っていた。

お台場海浜公園からスタートし、モノレールの高架下をずっと辿って行く。そして、「テレコムセンター駅」周辺を大きくぐるりと周り、また公園へと帰ってくるコースだった。

高低差はあまりないが、都市型レース特有のコーナーの多いコースだ。コーナーの殆どが90度以上のコースとなっている為、加減速が激しい。このように加減速が激しいコースでのバイクの集団は、大勢の人数がいる集団よりも、少人数で小回りの効く集団の方が有利に働く事が殆どだった。

新谷はそこまでバイク能力に自信のある選手では無かったが、それでも明日のレースでは、集団の人数が多すぎるようならば、自ら起点となって他選手を振るいにかけることも辞さない考えだ。

それくらい明日の日本選手権は、新谷にとって特別な意味を持つものであった。



6月。カテゴリー最高峰のレースである、シリーズ戦への初出場とそこでの大敗を経験し、帰国して来た新谷。ポイントの関係で、今季のシリーズ戦への出場が絶望的になった時、彼の頭に浮かんだのは「次はどうしようか」という事だった。

もちろん、今季シリーズ戦参戦が絶望的になったからと言って、やることがない訳ではない。むしろその逆で、来シーズンのシリーズ戦にはより多く出られるように、今から下部の大会を回ってポイントを稼いでくる必要がある。

しかし、新谷が考えていたのはそれからのスケジュールのことでは無い。「目標」。いわゆる、パフォーマンスのピークを何処に持って行くかであった。


「選手は、常に最高の状態を保っていられるわけでは無い。」というのが、現在のスポーツ科学における常識である。一般の人々にも体調の波があるように、選手にもその波は存在するという考えだ。

新谷は、この論を採用していて、体調の最高点を6月のシリーズ戦に合わせられるように、シーズン前から調整をしていた。

そしてこれは目論見通り、体の調子の波を調整することができ、6月のシリーズ戦は結果は兎も角として、最高の状態で臨むことができた。


新谷のシリーズ戦はここで終わることとなった。当初の予定では、ここから今度は9月のレースでピークを迎えポイントを稼ぎつつ日本選手権を迎えられるよう、調整して行くつもりだった。

しかし、帰りの飛行機の機内で今後のスケジュールを確認していた時、新谷の中である想いが溢れてきた。


(タイトルが欲しい。)


 世界選手権、日本選手権、競技によっては歴史ある大きな大会での優勝。そう言った今後自分の「肩書き」となって行くであろう成績。

 新谷にはそれが無い。いや、そんなもの生涯で持たないまま終わる選手の方が大半であるのは新谷とてわかっている。しかし、初のシリーズ戦。あのレースで上位に入っていた選手達の過去の戦歴を辿ると、必ずそう言った「肩書き」となりうる結果を持っていた。

 別に肩書きが走るわけでは無いのだから、そんなもの気にしなければ良いだけの話なのだが、新谷はそれを見た時、今の自分に足りないものの一端を見た気がした。具体的にそれが何なのかを説明することはできないが、敢えて言葉をつけるとするなら、「勝ちの経験」だろうか。

 何となくだが、あの場にいた強豪選手たちにあって自分に無いものはそれである気がした。

 

 ならば。取らなければ。新谷丈という選手の肩書きとなりうるタイトルを。


出場予定のタイトルレースは、日本選手権のみ。新谷は改めて、標準をそこに持っていくこととした。

別段何か大きな変化があったわけでもなく、誰かに宣言したわけでも無い。ただ単に、新谷自身の中で決めただけの事だ。実際スケジュール等には何の変化もない。しかし、新谷は本能的に今年この日本選手権で結果を残すことが重要であると感じ取っていた。



去年でもなく、来年でもない。

初のシリーズ戦参戦。そしてその夢の舞台の上で見た挫折と絶望。

その現実を前に膝を折った者たちの屍と怨嗟の山の上に、燦然と輝きながら上を見る選手達。

自分も出演者だと思っていた舞台上で、主役は彼ら。自分はスポットライトも当たらぬ程の「その他大勢」。

このまま、光あたらぬこの場所で朽ちて行きたくはない。

そんな選手人生など、受け入れられない。

ここから抜け出すチャンスは今しかない。

焦りすぎでも、生き急ぎすぎでも関係ない。

新谷丈の選手としての本能が叫んでいる。「チャンスは今だ」と。

ならばもう、振り切るしかないじゃないか。



決戦は、明日。

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