5-5「希望のマーチ・海老原颯人」
9月末日。新潟県村上市。
よく晴れ渡った空。日本海側であるこの地は、太平洋側と比べ夏場は幾らか湿度がマシである。朝も早いこの時間帯は、澄んだ空気の中にほんの少し涼を感じることができた。
晩夏のこの時期、ともすれば冷えさえ感じるかもしれない夜明け直後の砂浜に、ランニングシャツにランニングパンツという薄着でただずむ影があった。海老原颯人である。その目線は、本日の戦場となるスイムコースを見据えていた。
鳴り物入りで今シーズンからトライスロン界入りした彼は、今、窮地に立たされていた。
9月初頭からの後半シーズン、既にいくつかレースに出場した彼であったが、一つとして大きな成績を残すことが出来ずにいた。今シーズン彼が残しているレースは、この村上大会を含めて残り3レースであった。そのうち一つは日本選手権である。
もし、この村上大会でも成績を残すことができなければ、来シーズンのスポンサーとの契約は危うくなってくるだろう。それどころか、レースへの出場権を維持し続けられるかさえ危うくなってくる。
彼は今まさに崖っ淵に立たされていた。
なんとなく視線を足元に落とし、海老原は何を考えるでもなくつま先で砂を穿り返していた。そしてランニングシューズの半分くらいが砂に埋まったところで、足を引き抜きまた別の場所を穿り返す。そんな無意味なことを数分間繰り返していた。
徐々に天高く上がって行く太陽が、彼の肌をジリジリと灼き始める。
自分の立つ場所の周辺をあらかた掘り尽くしてしまったところで、ようやく海老原の意識は、彼自身のもとへ帰ってきた。腕時計を見ると、止め忘れたストップウォッチが律儀に時間をカウントしている。
表示を変え、現在時刻を確認すると7時を過ぎていた。
「…。」
パシンッと一度だけ自身の頬を軽く張ると、そのままグルリと回れ右をして海に背を向けた。スタートまであと2時間半。海老原は自身が泊まるホテルへ向けて走り出した。
敗北の敗北を重ね、海老原は迷っていた。それは、このまま飛び抜けたランニング能力を武器とする戦法でやっていっても良いのかという悩みだった。
当然海老原は、自身が一朝一夕でスイム得意の先行型に変われないことは理解していた。それでも勝てない事には仕方がない。自分の能力を分析し、負けたレースを分析し、何が足りないのかを自分なりに追い求めてみた。
しかし、昨年まで「タイム」という普遍的なものに対しての勝負が、競技の勝敗の大部分を占めていた彼である。「順位」というある意味毎度毎度のレースで基準の変わるものに対する対応策をどう練ればいいかなど、彼の持つノウハウの中には存在しなかった。
悩みに悩んだ末に彼の出した結論は、至極簡単なものだった。
「悩んだって仕方ない。今すぐなんて変われない。だったら今のこの型を極限まで突き詰めて行く。」
大きく一周回って、再度出発点に戻ってきた形になっているが、その結論を出した彼の目の前には、「先」へと続く道が確かに現れた。自分自身を究極的に信じ込む。その信念に則って、彼は今回の村上大会へ向けての練習を組んできた。
(これで失敗したら、それはもうしょうがない。今はまだという事なんだ。でも、最後に一回だけ。一縷の希望にかけてみたって良いじゃあないか。)
自棄とも取れるこの思考だが、開き直って思考がシンプルになった分、彼本来の何にも囚われない伸び伸びとした精神構造が帰ってきた。あとはこれがどう競技に活きるかである。
名前を呼ばれ、海老原はスタートラインに並んだ。
過去のことは関係ない。この後のことはわからない。今この瞬間のみが彼が介入することを許された唯一の時間である。とすればスタートラインに立った海老原がすることはたった一つ。
自分を信じ抜き、その心に従って力を出し切ることのみである。
スタートホーンが鳴った。海老原は、余計な思考を置き去りにし、思い切りスタートを切った。
今回の村上大会は、カテゴリーとしては3番目、一番下部に位置するレースである。その為、大阪城大会同様、このレースを皮切りに名を上げんとする選手ばかりの環境であった。その為、スイムスタート直後の集団内は、混雑を極めた。
村上大会のスイムコースは、折り返し点のブイのみが浮いているシンプルなコースだった。第一ブイに当たる折り返しブイを360度回って、スタート地点に戻ってくる。必然的にコース内側を泳ぐことが、最も距離の短いラインとなり、選手達が殺到する形となった。
多くの選手が殺到するとなれば、たとえ距離が短かろうと泳力的に劣る選手は集団後ろへ下がるしかなくなる。海老原も一緒になって殺到してしまえば、十中八九競り負けて、集団後方へ転落してしまう。
そこで海老原は一つ目の賭けに出た。最短経路からラインを一本ずらし、選手の殺到していない部分を快適に泳ぐ事にしたのだ。他人に邪魔されない分、本来の自分の泳力を存分に発揮することができるが、外側を泳ぐ関係で泳距離が長くなる。速度の遅い水泳という競技に於いて、これは致命傷である。
通常は、泳力に自身のあるスイマータイプの選手が取る手法であるのだが、イン側の惨状を見て、海老原は今回敢えてその方法を取る事にした。
そしてその作戦は成功した。
スイム一週目終了時、海老原は先頭から10秒遅れの14番手。彼にとってはなかなかに好位置である。第一集団入りも狙える位置であるだけに、海老原は2週目突入直後から、腕に込める力をいつも以上に増して、懸命に前を追った。
その甲斐あって、スイム終了時の海老原の順位は、15秒遅れの16番手。先頭集団入りは微妙なラインだが、トランジッションをミスなくこなし、バイクコースへ駆け出して行った。
村上大会のバイクコースは、海沿いの道をひたすら真っ直ぐ20km進み帰ってくるだけのコースである。最初に数キロの坂道区間があるが、そこをすぎてしまえば残りは起伏無し、コーナー無しの直線フラットコースだった。
海老原の乗った集団は、スタート直後の坂道区間が終わる頃にその形を確定させていた。8番目から20番目までの計13名。前を行く7名の先頭集団とはこの時点で20秒差。海老原は第2集団に乗った。
そこからは、色々な思惑が集団内に渦巻いていた。直線フラットコースという特性上、20秒程度の差であると前の集団の姿は確認できる。その為、いち早くそこに追い付きたいと必死にペダルを踏む選手がいる。反面、既にいっぱいいっぱいだと現状の速度を維持するので精一杯の選手もいる。そして、20秒程度の差であればランでひっくり返せると、積極的に前を追う意思のないものもいる。その他にもチームであったり、ポイント獲得であったりと様々な思惑が飛び交う。大人数であるが故の弊害である。
結果、第2集団のペースは思うように上がらず、20秒前後の差をウロウロとしながら、バイクパートを消化して行った。
バイクはそのまま終了した。先頭集団との差は28秒。海老原にしてみれば十分射程圏内である。バイクから飛び降りシューズを履く。
血が沸き立つ。心臓が強く鼓動を打つ。全身を駆け巡る血管を通して力が隅々まで行き渡る。脚に力が漲った。
シューズを履く。右足から、入った。左足。左足の踵が地面をとらえた。硬い大地の感触を受け、そのまま思い切り踏み抜く。そして返ってきた力が足を通って脳天に突き抜ける。それに合わせて思い切り腕を振る。一瞬の浮遊感。海老原が今まで何億何千回と感じてきた感覚。
(さあ、俺の時間だ。)
海老原颯人、先頭から28秒遅れの13位でランをスタート。
村上大会のランコースは、スイム会場でもある海水浴場からスタートし、村上駅前を駆け抜けて、街中にあるゴールへ辿り着くコースだった。
海水浴場、駅前、街中と景色が常に移り行く為、一般の参加者にも好評で、国際レースとしても特徴的な作りをしたコースだった。
スタートから2km地点。海老原は既に第二集団の面々を突き放し、8位を走っていた。射程圏内とは言え、28秒といえば距離にして約150m。バイクコースと違い、見通しがよい訳ではないので海老原の視界に前走者の影は無かった。
しかしそれでも海老原は、自分が先頭集団へ迫りつつある事を肌で感じていた。姿が見えずとも、足音が聞こえずとも、気配を感じる。この道の先を自分よりも遅いスピードで走る者の確かな気配を感じ取っていた。
海老原の脚は軽快に地面を蹴り進んで行く。まるで陸上現役時代に戻ったのかのように足運びを軽く感じる。トライアスロンに転向してきてからというもの、海老原はバイク後のランの脚の重たい感じに慣れずにいた。どうしても頭の中にある感覚通りに走れない。レースに出る度に、その理想と現実の差を前にストレスを感じながら走っていた。
しかし、今日はそれが無い。現役時代ほどとはいかないが、それでも圧倒的に理想の形で体が走っている。
(今日は…行ける。逃す訳にいかない。)
電車の線路の下を潜るトンネルで、前を行く選手の背をとらえた。5、6、7番手の選手だ。走れてはいるが、明らかに腰が落ちている。3人で競うようにしてペースを上げているが、今の海老原の敵では無かった。
海老原は、線路の下に潜る下り坂を利用して一気に勢いをつけると、そのままの勢いで地上までの上り坂を駆け上がった。その間に前を行く3人を一息に抜き去る。
大切なのは、一気に抜き去る事。着いて行こうと言う気など起きない程に圧倒的なスピード差を持って抜き去る事。
追い抜き様に3人の表情を横目にチラリと確認した。海老原の飛ぶような走りと勢いを目前にして、その驚きの表情を隠せていなかった。当然ついていこうという気概など感じられない。戦意を削ぐことに成功していた。
トンネルから上がって来て、再び陽の目を浴びる頃には、海老原の脳内に追い抜いた3人のことなどは既になかった。代わりに数十メートル先を行く選手の背中をとらえたことによる歓喜の感情が、一気に溢れ出す。最早疲労など感じない。獲物を見つけた狼のように、眼光鋭くその背を追い始めた。
コースはそのまま村上駅前を通過する。この辺りになると観客も増えて来て、一気に歓声が大きくなる。
海老原は、村上駅前の警備員が交通整備をしている大きな交差点で、前走者を抜き去り4位に浮上した。
駅を過ぎると市街地に突入する。市街地を2周回するとゴールだ。残りは約5kmだった。
ここまで来たら表彰台に上がりたい。という海老原の思惑に反して3位の選手の姿はなかなか見えてこなかった。おそらく前走者には海老原がこうして追い上げて来ているという情報が入っているだろう。だとしたら当然、必死になって逃げるはずだ。
(それでも俺は、このチャンスを逃す訳にはいかない…。)
ここに来て海老原の息も上がって来たが、そんなことお構いなしに脚に力を込めて速度を上げた。心臓の拍動が早くなり、息が浅く早くなる。しかし、それと引き換えに体はより早く前へと運ばれて行く。
市街地の周回に差し掛かった時、海老原はとうとう前走者の背をその視界に捕らえた。一人だけだ。3位の選手であろう。海老原の中で何かよくわからない大きな感情がエネルギーとなって噴き出す。例えるならば蒸気機関車の蒸気のように、高まった圧力に耐えきれなくなったものが吹き上がってくるイメージ。全身に力が漲る。思い切り大地を踏みつけ、前へと進む体は、最早走っているというよりも飛んでいる感覚に近かった。体が軽いわけではない。寧ろスイム、バイクと続けて来たことによる疲労で重いくらいだった。しかし、今、海老原の両の足によって前へと運ばれている体は、まさに飛んでいた。
しかし、相手も粘る。表彰台争いである。互いに負けられない戦いだ。海老原の気配を背に感じた前走者は、明らかにペースを上げた。それまで縮まりつつあった差が、縮まらなくなる。海老原もキツイがもう一段速度を上げる。ジワジワとだが詰め始める。が、ゴールまでに追いつくか微妙なラインだ。
相手の意識が完全に後方にいる自分に向けられていると海老原は感じていた。気配というか、圧みたいなものが完全にこちらに向いている。こうなると相手も海老原の些細な速度変化に敏感に反応してくる。相手の後方、もとい視界の外にいるメリットが普段ほど無くなる。
とは言え、人間の目は後ろにはついていない。そこまで相手が後方を把握し切れるとは思えないととらわれがちだが、このような極限状態での争いの際には、この意識が意外と差になってくる。少なくとも、後方の相手に自分が気づいているという事を悟らせることが出来れば、それだけで前走者にとってはアドバンテージになる事がある。
その差は約5秒ほどであろうか、無言の駆け引きが始まった。
海老原としては先ほどまでのように圧倒的な速度差で抜き去りたいのだが、残り距離があと僅かな事もあり、前走者も速度を上げて来た。抜き去ることは難しい。
(こうなりゃ我慢比べだ…。)
どちらも一歩も譲らない状態が続いたが、やがてその均衡が崩れ始めた。海老原がジワジワと差を詰める。
ラスト1.5km、遂に海老原が3位の選手に追いついた。そのまま一気に抜き去りたいが、相手も譲らない。しかし、海老原としてはこのままラストスパートに持っていきたくはなかった。何とかして何処かで引きちぎりたい。
しかし、もう海老原に体力はそんなに残されていない。1km以上のこの距離をスパートする余力はなかった。
互いにギリギリの状況。何処で仕掛けるのか、どれくらい余裕があるのか。探り合いだった。
海老原は自分が最早限界を迎えていることを悟られないように、タイミングを伺っていた。ラストスパートをする体力は残らないだろう。だとすればやることは一つ。相手の心を折る。なるべく早い段階で。
読み合い。いや、最早互いに思考するほどの体力も残っていないだろうこの状況。永遠にも思える時間の中、唐突に海老原がスパートを仕掛けた。
それはスパートと言うにはあまりにも速度変化の薄い、ぺースアップ程度にしかならないものであったが、極限状態の二人にとってそれは決定的な動きだった。
相手も喰い下がる。
最後の戦いが始まった。
距離にして100m。遂に相手の心が折れた。脚が止まり見る見るうちに海老原との差が広がる。海老原はその差を決定的なものとするために尚も走り続けた。
そしてフィニッシュ。前のめりに倒れ込んだ。
荒い息の中で海老原は充足感というよりは、安心感の方が勝っていた。
喜びに狂いたいというよりは、本当に安心した穏やかな気持ち。
(…ようやく、一つ、突き抜けた。)
胸の中にじんわりと温かいものが染み渡って行くのを感じた。
海老原のこのレースの成績は、先頭から20秒遅れ、2位とは15秒差の3位だった。
優勝こそ出来なかったものの、海老原にとって自分のレーススタイルが決して間違っていないと言うことを自分自身に言い聞かせる為には十分な結果となった。
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