5-4「Grab the victory !!・八木晃」



 落ち着かない。朝から心臓の辺りがヒリヒリする。

 暑くて仕方がないはずなのに、体の芯の方が冷え切っているかのようにワサワサする。

 気持ちを落ち着けようと目を閉じても、頭の中にノイズが走って集中できない。

 それなのに、手も足も体の全ての反応が良い。思うよりも先に動作が始まる感じ。こんなにも落ち着かない状況のはずなのに、思考と視界はクリアだ。


 多分これが「緊張」だ。



 9月初頭。香川県観音寺市。夏場特有の容赦ない高温が支配するその町に、八木晃は居た。

 目的はただ一つ、学生選手権に出場するためだ。日本の学生トライアスロン界に於ける最高峰のレース。優勝者は「学生最強」の称号を得ることのできる大会。前年度優勝者である八木は、さらにもう一年「学生最強」の肩書を持ち続けるため、この地に再び降り立った。


 まだ朝も早い時間。会場から程近い場所に宿泊していた八木は、朝のジョグがてら本日の戦いの場となる会場に足を運んでいた。既に会場設営が始まっており、役員とスタッフの学生達の手によって、着々と退会準備が進められていた。

 毎年この時期の観音寺市は暑い。既にスタッフの学生達は額に汗を浮かべており、そのほとんどが熱中症対策で帽子をかぶっていた。スタッフTシャツは、このような状況を想定し、速乾性の高い素材を採用していたが、どの学生も既に汗で濡れていた。しかしそれでも、本日このあとこの場で開かれる学生最強を決める大会を成功に導けるよう、皆が賢明になって準備を進めていた。


 学生選手権は他の大会とは違う。八木は気分が高まってくるのを感じた。

 これに勝ったとて、ナショナルチーム選考の評価に引っかかるわけでもなければ、海外レースへ駒を進められるわけでもない。ここで終わりなのだ。今日この場で得られるのは、名声・肩書のみ。それでも、学生達は本気になってこのレースに臨む。

普段、レースでポイントを獲得し次のカテゴリーへと駒を進めていくエリートカテゴリーで活躍している八木にとってみれば、駒を進める「次」がないとはなかなかに特殊な状況だった。しかし、だからこその「選手権」「チャンピオンシップ」なのだ。得られるのは、名声・肩書。その為だけに選手は走る。むしろ、選手としての在り方は、こちらの方が正しいかもしれない。


だからこそ各校気合の入れ方が違う。コース沿道には、それぞれの学校の横断幕が、所狭しと掲げられ、巨大な幟を担ぎながら応援場所の下見をしている人もいる。既に会場入りをしている学校もあり、大きく広げられたビニールシートの四方の端には、おそらくマネージャーであろう学生が、幟を立てて待機していた。

そして、既にこれだけの盛り上がりを見せる会場も、レース開始時間へ向けて、これからさらに盛り上がってくることとなる。各校選手団の登場、OBOG応援団の参加、各校の応援団、そして一般の観客。

その様は、国内で開かれるどの大会よりも盛り上がりという点で一線を画しており、さながら祭りのようにさえ見えた。しかし、祭りというのは遠からずといった例えで、まさに一年位一度、日本中の学生トライアスロン選手達がその力の限りをぶつけ合う場という意味では、この大会はまさに祭りだった。


そして八木は、去年この祭りの主役の座を勝ち取った。昨年優勝者の八木に今年求められるもの、それは勝利以外になかった。今まで、勝ち筋があるとか勝てると見ていいだろうという展開や状況には何度か遭遇してきたが、今回はそれらとは違う。昨年度優勝者として「勝って当たり前」と見られる。自分以外の全員が挑戦者。それらを八木自身が受け止め、勝たなければならない。

しかし、それでも普段なら八木もここまで緊張はしなかっただろう。周囲から首里を求められていると知っても尚、飄々とした態度でどこか他人事のように多大なプレッシャーのかかるこの状況を楽しんでいたかもしれない。

だが、今回はそうもいかなかった。先の夏合宿での故障が、つい2週間前にようやく治ったのだ。つまり、八木はこの学生選手権へ向けて、ラン練習を2週間分しか行っていない。これには流石の八木も、普段のように余裕綽々の気分とはいかなかった。



ジョグを終え、八木は一旦ホテルへと戻った。これから朝食をとり、ウォーミングアップの時間まで部屋で待機する。シャワーで汗を流しながら、つい2週間前まで故障していた脚に触れた。トレーナーの言いつけを守り、逸る気持ちをなんとか抑えて、発症以降ラン練習は一度も行わなかった。その甲斐あって、なんとか後半シーズン一発目となるこの学生選手権に間に合わせることができた。

最初のうちは恐る恐るといった感じで走っていたが、今ではもう殆ど気にせずに走ることが出来ている。なんとか後遺症やぐずぐずと小さな痛みが残ることは避ける事ができた。しかし、こうして偶に不安になりわけもなく触れてしまうことが多々あった。トレーナーからは気にしすぎると返って良くないと言われてはいるが、それでも不安なものは不安だ。今だって、レース中にまた痛みが走って、最後まで走りきれないなんてことにならないかどうか心配でならない。

気にしすぎることで、本来無いはずの痛みを感じてしまうという事もあるらしい。怪我や故障明けの選手に、見られることがあるという。痛みを感じるだけなら良いのだが、その痛みから体を庇うようにして無理な体勢で競技を行った結果、また別のところを故障するという負の連鎖の元ともなりかねないらしい。

その為八木は、ラン練習再開以降、無意識的にも意識的にもこうして元患部に触れ、


(大丈夫。もう痛みはない。大丈夫。)


 と自己暗示のように、自分自身に言い聞かせることが多くなってきた。シャワーを浴び終え、朝食をとり、自室に戻る。朝、問題なく走れた事によって、いくらか気持ちに余裕ができたらしい。頭の中を駆け巡る訳の分からないノイズは、気付くと消えていた。


 (大丈夫だ。いける。)


 連覇のかかるこの状況で大事なことは、いつも通りの実力を発揮すること。焦ったり、舞い上がったりして勝手に自滅をしてしまう事だけは避けなくてはならない。

 …という事を八木は朝川から耳にタコが出来る程言い聞かされてきていた。朝川は八木が故障でラン練習を行えない間、この状況でどうやってレースに向かっていけば良いのかを懇切丁寧に教えてくれていた。そのおかげで、八木はこれでもかなり精神的余裕を持って、今日を迎えられている。


(大事なのは焦らない事。焦って良くなるなんてことは何も無い。)


 朝川自身も大切なレースの前に、怪我をしてしまい満足に練習を詰めなかったことがあるらしい。しかし、そんな状況であるからこそ返って開き直る事ができ、臨む結果を残せたという。「ピンチをチャンスに」。朝川はそう言っていた。


(漫画でしか聞いたことのないような言葉をまさか自分が実践する日が来ようとは。)


 八木は一人ほくそ笑みながら、レースへ向けての準備を始めた。




 


 レースは概ね八木の予想通り運んでいた。有力選手としてスタート前に紹介された八木は、スイムが得手である事を開場中に響き渡るボリュームで紹介された。おそらく今日のレースもスイムから飛び出していくだろうと。

 出場選手達には周知の事実であったので、特に痛くも痒くもない手札開示であったが、スタート直後、スイムから飛び出すであろう八木の番手を取ろうと八木の元に殺到してくる選手達に運悪く呑み込まれ、集団からの抜け出しに苦労した。しかしそれでも揺るぎない泳力にものを言わせ、1周目終了時には既にレースの先頭を陣取って展開していた。

 そしてバイクスタート。普段のエリートレースと違い、出場する選手層が異なる為、バイクでは普段のレースでは同じ集団にならないような選手と集団を組むことになることが多い。

バイク1周目終了時、スイムのアドバンテージを利用し、それまで一人で集団から逃げていた八木だが、10名ほどの集団に追いつかれた。その中には、チームトライピースの先輩である馬場と夏合宿で一緒になったチームアインズの蜂須賀がいた。後続の集団とはこの時点で45秒差。おそらくこのままこの集団でランスタートとなるだろうと八木は予測を立てた。となれば、注意すべきは馬場である。元ランナーである彼は、普段のエリートレースであれば後続集団に居るのだが、選手層の違う今回のレースではなんとか第1集団にのれてしまったらしい。走られると厄介だった。それと同じ理由で蜂須賀もラン能力に定評のある選手だ。普段とは異なる選手達との戦いを前に、八木は今とるべき行動を模索する。


八木は、得意のスイムで先頭集団に位置し、そのまま後続集団との差を広げてランをスタートするスイマータイプの選手だった。ラン単体の能力の低さを前方で展開することにより補う戦方だ。

他方、馬場のようなランナータイプは、戦闘集団こそ逃すものの、バイクで先頭に追いつくか、もしくはタイム差を射程範囲内にまで近づけて得意のランで巻き返すタイプだ。近年のスピード化著しい世界のトライアスロン界では、なかなかお目にかかれないタイプであるが、展開によっては手のつけられない能力を発揮するタイプだった。


そのランナータイプの選手が第1集団に入ってしまった以上、八木に残された選択肢は、そう多くない。

まず一つは、覚悟を決めてラン勝負をする事。そのためにバイクではなるべく脚を温存すると言う戦法だ。しかしこれは、一流の望みにかけて行うギャンブル性の高い戦法であるし、何よりも相手の土俵で戦う事を意味する。バイク序盤のまだまだ様々な行動を起こせるこのタイミングでとる行動ではなかった。

次にランナー達よりも先にランスタートをする事。つまりこの集団から抜け出して逃げを決めるか、ランナー達をこの集団から振り落とす事だ。一番単純な方法で、決まれば一番勝ち筋の強い戦法であるが、たった今八木は一人この集団から逃げていたところを捕らえられた形だ。当然八木も全力ではなかったが、集団内の雰囲気を見るにまだまだ全然余裕そうだ。さらに学生選手権のバイクコースは、位直線の道路を往復するだけのワンウェイコース。コーナーや折り返しなど、集団後方に位置する選手に不利な展開が生まれにくいレイアウトであった。圧倒的なバイク走力があればそれも可能だが、現段階の八木にそれは無いので、これもNG。

となれば最後の一つ、このバイク中に相手の脚・体力を消耗させて八木でも走り勝てる状況にするというのが最も現実的で確実な方法であった。しかしこの戦法、ランナー達と同時にランスタートを切ることになるので、八木の走力や体力の残し具合などが重要になってくる。以上の中では一番実行の難易度は低いが、成功させる難易度が高く、また決定力に欠ける戦法であった。


しかし、実行可能性の著しく低い可能性に欠けるよりかは、確実に実行で切る戦法を取るのが定石だ。幸にして八木は、ランナー集団の筆頭である馬場の得手不得手に関しては、共に練習をしている関係上熟知していた。

こうなってしまった以上、自分でレースを動かすしかない。八木は心を決め、勝利に向かって行動を始めた。



結論から言うと、八木の、相手の脚を削っていく作戦は上々の成果を残した。1周あたり2度存在する折り返し点。コース上で唯一の減速地点で、八木は毎回揺さぶりを掛けた。八木自身の体力とも相談しながら毎回ギリギリのラインを攻めて行く。幸にして、集団は八木の思惑にハマってくれた。八木は、最小限の体力消費で最大限のダメージを与えられた。

しかし、この戦法の欠点は、どんなに相手がハマろうとランスタートが一緒になる事である。ここから先は、ランナーでない八木には先方も何も無い領域になってしまう。ただ、ランナー達が思うように走れない事を祈りつつ、目一杯10kmを走り切るのみである。


ただ、一つだけ八木自身に関する事で不安要素がある。脚の怪我だ。

既に完治はしているし、しっかりと調整練習もしてきたが、故障期間の練習不足は否めない。八木の思う目一杯に、脚と体力が追いついているかが心配だ。

しかし、八木は頭に浮かんだその不安要素を、浮かぶと同時に振り捨てた。ここまできたら自分を信じて走るしかない。朝川も言っていた。ランができない分、スイムとバイクで追い込んでいたから大丈夫だと。

八木はその言葉を全面的に信じることにした。そして、自分の不安な気持ちなど追いつけないほどの勢いを持って、勝利へと向け駆け出した。




レース終了後。ゴール裏に設置されたテントの下で、ベンチに座り天井を仰ぐ八木がいた。その表情は、苦悶よりも安堵の思いに満ちていた。

八木の結果は1位。連覇を成し遂げ、無事「学生最強」の座を守り通した。

ランの走り出し、先頭を取ったのは馬場だった。4回生である彼は、最後の学生選手権とあり、気合の入り方が違った。他のランナーを突き放し、早々に独走体制を築こうとしていた。しかし、そんな彼の目論見は不発に終わる。1周目終了時、突然馬場に脚が止まった。みるみるうちにペースが落ちて行く。おそらくは、八木がバイクで与えたダメージが来たのだろう。自覚症状がなく、全快であると勘違いした馬場はいつもの通り走り出した。それが仇となり、1周目で体力切れ、あえなく撃沈となった。

八木は、他のランを得手とするもの達に混ざり2周目までを過ごした。そして、彼らが皆体力の限界を迎えていると悟るや否や、3周目開始時に一気にペースを上げて突き放した。あとは、八木の独壇場である。そのまま後続を突き放し、終わってみれば2位以下と大差をつけてのフィニッシュ。エリートカテゴリーで戦う者としての意地を見せつけた。


しかし、今回のレース、決して安定したものではなかった。1歩間違えれば負けていたかもしれない程、実は八木にとってギリギリの戦いだった。勝因は間違いなく、脚への不安を断ち切れた事だ。そうでなければあんなギリギリの状況で走れるわけがない。


(ここまで色々と追い込まれたレースは初めてかもしれない…。)


 今までなんとなく上手く行っていた。何も考えずとも、力で他を圧倒できた。しかし、そろそろそうは行かなくなってきた。

今回の勝利は紛れもなく、勝ちに拘った八木の気持ちが引き寄せたものだろう。「汚くってもみっともなくてもいい。何がなんでも勝つ。」そう言った思いが、取らせた戦法であったし、思い切りの良さだった。


八木自身も知らない初めての感覚。腹の底から活力が湧いてきて、知らない力が湧いてくる。まるでベールが剥がれたのかのように、世界が色づいて見える。

 人はそれを「夢」と呼ぶ。


学生王者は、今、静かに覚醒の時を迎えた。

そして、選手として、人として、重要な岐路に辿り着いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る