5-3「百戦錬磨・朝川仁志」



 怒涛の後半シーズンが始まった。


 異国の空の下、朝川仁志は深呼吸で胸いっぱいに吸い込んだ空気をため息として全て吐き出した。毎朝の彼のルーティンである。世界中何処の国で目覚めても、これを行う。こうする事で、「トライアスロン選手としての朝川仁志」が目覚める感覚がするのだ。

しかし、選手としての自分を目覚めさせる為の儀式であるならば、このルーティンが不必要になる日は目前まで迫っていた。


朝川の9月以降の出場レースは、

・今回の中国開催のカテゴリー2番目のレース

・その翌週の日本・新潟県村上市で開催されるカテゴリー3番目のレース

・1週間を置いて日本選手権

の3つだった。今、朝川はカテゴリー2番目のレースに出場する為、中国に来ている。


4週間。あと4週間で、朝川のプロ16年の選手生活が終わりを迎える。数え切れぬほど出場して来たレースも、残すところあと3つだ。そう思うと朝川は胸中に何か熱いものがこみ上げて来る様な感じがした。しかしそれは、まだ首から上に到達する事なく下に落ちていく。


(まだだ。まだ感傷的になるタイミングじゃあない。きれいな最期を飾るために走るわけじゃないからな。)


 朝川は、浮き足立ちそうになる自分自身を諫め、それまで幾度となく繰り返して来たのと同じ様に朝の身支度を始めた。



 朝川の後半シーズン1レース目は、中国開催のカテゴリー2番目のレースだ。アジア圏での開催という事もあり、時期と場所の関係で日本人を始めアジア地域の選手が多数出場していた。全世界規模で開かれるシリーズ戦などと比べ、初対面でない選手が多い為、互いの癖や傾向を把握しあっている選手が多かった。

 シリーズ戦にも参加している朝川としては、カテゴリーが一つ落ちる事で、自分がレース展開を動かせる可能性が出てくる。しかしその場合は、如何に自分のことを知っている選手の裏をかけるかが重要になってくる。馬鹿正直に自分の得意だけを見せびらかしているだけでは、朝川の傾向を知っている選手にとってみれば、脅威でもなんでもない。

 自分が振り回されるだけのシリーズ戦と違い、今回は要所要所でと頭を回して行く必要があった。朝川はこれを、理性と本能の使い分けとして、うまく切り替えられるようにしている。



 レースがスタートした。スイムは、スタート直後のカオスから第一ブイを越えた時点で概ねそれぞれの選手の位置が決まり、集団が落ち着いた。朝川がいる先頭付近は、接触もほとんど起きなかった為、高い泳速を保ちながら1500mを泳ぎ切った。

バイクに移った時点で、先頭集団は15名になった。大集団と言っていい人数だったが、偶々極端な牽制が起きず、後続集団との差をみるみる内に広げていった。シリーズ戦が終わりを迎えた事により、今ここに出ている選手は、皆「優勝」よりも1ポイントでも多くの「ポイント」が欲しい状態だ。そのため、集団内にランへ向け足を溜めたい選手よりも、後続集団を突き放したい選手が多くなっているのだろう。なかなか無い展開であったが、朝川としては、十分経験した事のあるレース展開だった。その為、風除けの先頭交代に加わりながら、集団の一部となって気配を消すと言った作戦をいち早く選択し、余計な体力の消耗を抑えに入った。

バイク終了時、後続集団とは1分20秒ほどの差がついていた。

バイクが比較的平和に終わった影響で、ランのスタートの勢いは各選手かなりあった。バイク降車直前、それまでの平穏が嘘だったのかの様に位置取り争いが激化した。朝川は何度か他選手と接触しながらも、集団前方にてバイクを降車する事ができた。そのままの勢いでランニングシューズを履き、走り出す。5番目でトランジッションエリアを後にした朝川は、そのまま快調に飛ばす先頭集団に入り、勝負の機会を伺っていた。

普段よりもハイペースで繰り広げられるランにより、ポロポロと選手が集団からこぼれ落ちていく。各選手荒い息をする中で、朝川もギリギリの状態で踏ん張りながら集団についていた。余裕のある者が誰もいない状態。しかしここから勝つには、このキツい状態からさらに1段階ペースを上げなければならない。極限の状態で互いの出方を探り合うヒリヒリとした状態。朝川が今まで幾度となく経験して来た「決戦前」の状態。この苦しさからさらに1段階踏み出せたものが勝利する状況。朝川は心臓が飛び出そうなほどの苦しさの中、機会を伺っていた。そして、長年の経験と勘によって仕掛けどころを見極めた。

そうなればもうあとは、行くだけである。朝川は理性を放棄し、獣の如き野生の本能を持って、勝利へ向けて駆け出した。




レースから2日後、朝川はすでに帰国し、チームトライピースの拠点とするプールで泳いでいた。先の中国大会の結果は5位。このカテゴリーにしてみれば、まずまずの結果だ。消して満足はできないが、失敗したわけでも無い。

プールでレースの疲労抜きのために泳ぎながら、朝川は慎重に自分の体調を探っていた。


思いがけず、良い展開が巡って来たために、最後の最後まで追い込み切った感覚がある。間髪入れずに今週末、新潟県村上市でレースがあるため、疲労抜きと調整のための練習メニューをどう汲んでいくかが、週末のレース、ひいては日本選手権での結果に繋がってくる。

感覚的に体調はまだまだ最高点に到達している感じは無かった。しかし、レースの刺激が入った事で、ちょっとした事で最高点まで跳ね上がることも有り得る。そうなってしまうと、あとは下降の一途を辿るだけだ。人間の体の好調と不調のリズムはある程度調整する事ができるが、一度最高点にまで達してしまった調子をそのまま最高点に留めておく事はできない。

その為、狙ったレースのその日その時その瞬間に、調子のピークが来る様に調子しなければならない。これを「ピーキング」といい、これが上手くできるかどうかも選手としての能力の一つである。


調子についてはある程度数値化できる様にもなって来ているが、まだまだ感覚的な部分の多いものであるのが現状だ。結果の良かった日と全く同じ数値(体重や心拍数など)であるにも関わらず、全く調子が振るわない事など当たり前である。

言い換えれば、普段の練習ではあまり実力の振るわない様に見える選手でも、このピーキングが上手いために試合結果が良いという事もある。

まあ、本当に頂点に上り詰める選手は、普段の練習からしっかりと調子を合わせてくるのだが。


(感覚的な疲労感は薄いが、肉体的には相当に来ているな。特に内臓系。)


 泳ぎながら、レース後からこれまでの生活を振り返り、朝川は自身の体の状態を確認していた。


(感覚的に疲労感が薄いのは、おそらく体の調子が上がって来ているからだ。ここで調子に乗って上げ過ぎてしまうと、日本選手権前にピークがきてしまう。一度何かこの調子を抑える様な練習をしたほうがいいな。あとは食事か。少し気を付けないと、レースによる内臓へのダメージで、吸収仕切れていない可能性があるな。)


 ピーキングは非常にシビアな調整である。それが一つのレースに向けて、最高点を合わせていくなら尚更だ。針の穴に二階から目隠しして糸を通す様なものだ。つまりは、ほぼ不可能。経験則と感覚しか拠り所が無い。

しかし、ハマれば恐ろしいほどの力を発揮する事ができる。

朝川の強み、それは何をとってもその経験値の多さだった。16年間、何度も成功と失敗を繰り返して培って来た感覚。その中には当然ピーキングに関する事も含まれる。そして、朝川は何度かピッタリとピーキングがハマった経験がある。

正に雲を掴む様な感覚。朝川自身でも掴んだかさえわからなかったが、確かに調子が上がっていた。あの感覚を最後、もう一度だけ呼び起こしたい。このトライアスロン界に「朝川仁志」という選手が存在したことを刻み込むためにも。


「仁志。調子はどうだ。」


 朝川が水からあがると、伊南に声を掛けられた。


「上がり切る手前って感じです。下手に調整すると今週末にピークが来るかもしれません。少し波を抑える必要がありそうです。」


 感覚的な言葉のみの回答。現に今この状態に関して、これ以上的確な伝え方は不可能に近かった。目に見えないもの、朝川が感覚でしか捉えられず、評価できないもの。それを共有できるのは、16年に渡って共に歩んできた伊南と朝川の信頼関係の為せる技であった。


「そうか。他の選手は明日から調整メニューの予定だが、それなら仁志は少し時間を増やしてやってみるか。どうする。」


「そうですね。明日と…明後日もやってもいいかもしれません。」


「そうか。わかった。俺の方でもメニューは考えとく。あとで送るから、仁志も考えといてくれ。それ見て最終的にやるメニューを送ってくれ。」


 伊南は練習メニューに関して一方的に指示を出すことはほとんど無かった。普段の練習さえも、その半分くらいは選手側からの意見を聞いた上で、最終的な予定として打ち出す。見ようによっては、指導者としての「芯」が無いとも捉われがちだが、現にそれで多数の選手を輩出している。

 合う選手にはとことん合う手法である一方、合わない選手には全く合わない正に大博打な方法である。伊南の知識や各選手への理解度、信頼関係、体質など指導者として非常に高度な能力が必要とされる。

それを伊南と朝川は16年掛けて築き上げて来た。

伊南は、朝川の指導経験から今後さらにその指導力を上げていくだろうし、朝川も伊南のそう言って指導を受けた経験をもとに、今後指導者となった場合自分自身の形を作り上げていくだろう。そうやって、知識や技術は継承されていく。仮に朝川が指導者とならなくても、彼の経験は必ず誰かに伝わるし、そういう彼を指導した伊南が朝川のことを伝えていく。


 朝川が先の夏合宿で自らに掲げた「後輩の選手に対する最後の壁となって立ち塞がる」という目標。経験の継承に関しては、ほぼほぼ場が整っていると言って良かった。

 残すところは、物理的にその実力を持ってして後輩たちに知らしめる事。


(背中で語ろう。世界を相手取るつもりなら、この俺を超えなければ到底無理だと。まあ、負けてやるつもりはさらさら無いけどな。)


 おそらく今朝川は調子がいい。思考もポジティブで負ける感覚が全く無い。迫る最終決戦を想い、口元に笑みを浮かべながら、一人待ち遠しくてしょうがない気持ちを溢れさせていた。

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