5章

5-1「痛感!世界と自分の差!・新谷丈」



 長かった合宿も終わりを迎えた。

 最終日は、スイム練習で利用させてもらっていた池と周辺道路を使って、トライアスロンのレース形式の実戦練習を行った。

 既に村井は、シリーズ最終戦のために日本を発った後だったので、残ったメンバーでの練習だった。


 スイム200m-バイク5km-ラン2kmを3セット。


 正真正銘レース形式のガチンコ勝負だ。

1セット目は、海老原がトップを奪った。2セット目は新谷、3セット目は朝川がそれぞれ先頭でのゴールだった。

 この練習を最後に合宿は解散となった。あとは後半シーズンへ向けて、各々が練習を積んでいく。

引き続き合宿を行う者。拠点へ帰る者。後半シーズンが始まる者。

それぞれがそれぞれのやるべき事へ向けて、長野の高原を後にした。


太陽の容赦ない照りつけの下でも、木陰や吹き抜ける風などの中に心地よく肌を撫でる涼感があった高地での日々。選手達は、徐々に迫ってくる下界を前にその涼しげな環境が失われていくのを実感する。

高すぎる気温は木陰でさえそれを遮断する事は叶わず、湿気をふんだんに帯びた風は、いくら拭き抜けようと肌から体温を奪って行ってはくれない。およそ運動どころか生活自体にも支障が出るのではないかというほどの酷暑。しかし、そここそが彼らトライアスリートの舞台であり戦場だった。

楽園での生活から下界へ降りてきた彼らは、その過酷な環境を前に一時は面食らい不安な表情を浮かべた。しかし、次の瞬間にはもう、その横顔には戦場へ向かう覚悟を決めた戦士のように強い意志が宿っていた。

トライアスロンは自然との戦いでもある。暑さ寒さ、湿度、風、気候、その他ありとあらゆる自然現象に対して対応しきれた者のみが、勝利への挑戦権を得る。

8月も下旬。再びシーズンは動き出す。彼らのシーズン後半戦が、幕を上げた。




合宿終了後、自身の拠点に戻った新谷丈。帰宅翌日から練習を再開し、来たるレースに備えて順調に準備を続けていた。そんな本日はスイス・ローザンヌでシリーズ戦最終レースが開かれる日だった。


日中の暑さを避けて、早朝から午前中にかけてで練習を終わらせた新谷は、午後になると世界シリーズ戦が配信するライブ動画を観るべく準備を始めた。インターネットで配信しているこのライブ映像は、会員であればレース終了後に録画したものを観る事ができる。そのため、時差のある地域のレースは大体後になってから見返すものなのだが、今回新谷は敢えてライブ動画での観戦を選んだ。

というのも、6月の新谷にとって初参戦となったシリーズ戦。そこで彼はこれでもかという程の大敗を喫した。そこからの約2ヶ月間、あの経験を忘れまいと必死に練習を積み上げて来た。そして今、あの頃よりも少しは強くなっている自覚がある。しかし果たしてそれがどれほどのものなのかはわからない。再びあの舞台で戦えるほど、そして今度こそ勝負所に絡める程、力をつけていられるのかどうか、新谷にとってはそれが重要だった。

トライスロンは、タイムで競う記録競技で無い順位競技である以上、動画や結果を見て自分との力関係を測るのは難しい。しかし、今回は日本人選手としてただ一人、村井がシリーズ最終戦のこの場に出場する。先の合宿で共に切磋琢磨し合った人間がこの場に出場している。それはつまり、新谷にとっては村井の結果から見て間接的に世界と自分との力関係を図る事ができると言うわけである。


レーススタートは現地時間の15時。日本時間で22時スタートだった。


しかし、それならば録画されたものを後日観るのでも良さそうだが、新谷はあくまでもリアルタイムでの観戦に拘った。そこには彼にとって譲れない何かがあるのだろう。翌日も暑さを避けるため、早朝から練習開始する予定になっていたが、それでも構わず新谷は日本時間の21時にパソコンの前に着席していた。




スタート前、パソコンの画面内で大会MCが選手紹介を始める。点呼された選手は順に小走りで自身の選んだスタート位置に入っていった。

新谷が大敗したモントリオール大会にも出場していたスペインのコエーリョは、その後もランキングトップを守り続けていたらしく、レースナンバー1をその身に纏っての出場だった。新谷がモントリオールのレース前にアスリートラウンジで感じた圧倒的な存在感。不思議な事に以前までだったら感じなかった画面越しでも、一度それを経験した身にはひしひしとその存在感が伝わってくるようだった。果たしてそれは、圧倒的に敵わないと悟った相手への畏怖か、それとも必ず超えてやるという無謀な挑戦心からくる敵意か、ローザンヌのこの場にいることのできない新谷に、それを確認する術は今のところ無かった。


その後も順に選手点呼がされていったが、放送カメラは有力選手がそれぞれどの位置にスタート位置を取ったのかを映している。そして副音声での解説員がそれぞれの選手が意図するところや、レース展開予想について英語で捲し立てている。

自身のコエーリョに対する思考の海に沈み掛かっていた新谷に、その英語を全て聞き取るのは不可能で、彼は慌てて思考の海から浮かび上がり解説員の英語に耳を傾ける。聴くことも話すこともまだ十分にできない彼であるが、モントリオールや春先の朝川とのオセアニア遠征を経て、この状態はあまり良く無いと感じた。

確かにレースに出て帰ってくるだけなら、なんら問題ないレベルではある。しかし新谷は、レースを通してもっと人の輪を広げたいと考えるようになっていた。オセアニア遠征の折に、朝川が現地の人間と親しげに話しているのを見て、かなり羨ましくなった。せっかく海外の多くの人間と、スポーツという非言語的コミニケーションで繋がれているのだ。それを足掛かりに言葉を交わして、自身とは国も環境も文化も何もかもが全く異なる場を経て、この同じ競技に関わる人間の考え方を知りたいと思っていた。

 そのためにもまずは聞き取ることだった。新谷が必死に画面に食らいついていると、カメラがふと今点呼された選手を映し出す。


 村井だった。


 つい先日まで肩を並べて競い合っていた者が、画面の向こう側にいる。それはつまり、世界のトップ選手達と肩を並べているということだ。彼が結果を残すことで間接的にそれは新谷が出せるであろう結果を予測する際にもプラスに働く。そういう観点では、新谷は村井を応援したい気持ちでいっぱいだった。

 しかし他方、これ以上差を広げてくれるな、自分よりもまだ先に行って欲しくない、その場で先に結果を残すのは自分でありたい、などという醜い嫉妬心にも似た想いが胸中を渦巻いているのにも気付いていた。


 スポーツ選手は、高潔で清廉潔白、裏表がなくさっぱりとした正確だというのが世間でいうところの共通認識で、新谷も全くその通りだと思う。しかしその中で、こうして毎度自分の中に渦巻く醜い心に気付いては、「自分はスポーツ選手として向いている性格ではないのではないか」と疑心暗鬼に陥る。

 この点に関しては、まさに表裏一体であると新谷は結論付けていた。そう言った嫉妬心、屈辱感、劣等感、いわゆる負の感情は人間として生まれて当然である。問題はその発散の仕方だ。

 自分なんかどうせ無理だと、他人の足を引っ張ったり腐っていく方向にその感情の産むエネルギーを発散させるのか。はたまた、やってみなくちゃわからないと、その対象を追い抜こうとしたり自身を磨き上げる事に発散させるのか。

 おそらくそれが、スポーツにしろそれ以外の世界にしろ、一流になれるか否かの分かれ目であるように感じていた。言うまでも無く、一流に上り詰める可能性があるのは後者だ。前者は最早手の施しようもない程愚かな考えである。

 なので新谷は毎回考える。果たして今、自分が抱えているこの感情。今回で言うと村井に対するこの感情は、果たして前者か後者か。

 人とは弱い生き物であるし、頭の中でなら何を思っても自由だと新谷は考えている。しかし、だからこそ考えはその人間を形作るとも心得ている。「言霊」と言う考え方のもう一歩先だ。競技者としてこの世の中で唯一の人間となることを目指している以上、頭の中でさえもそう言った負の感情はプラス方向に発散させるべきだと言う考えだ。


 

 カメラが村井を映し出していたのはほんの数秒だった。その後もカメラは、有力選手を映したり、会場風景や観客の盛り上がり用を映したりと、忙しなく切り替わっていく。解説者も村井のことなど話題にも挙げず、話を繰り広げている。

 つまりはそうなのだ。

 ここでいくら嫉妬心を村井に向けようと、それは所詮日本という井の中での出来事に過ぎない。世界という舞台では、自分たち日本人選手は居てもいなくても、まだまだレース結果には影響しない存在と認識されているのだ。


(それでいい。それだからこそいい。)


 反骨精神。合宿でも参加者全員が口を揃えて言っていた。一刻もはやく、あの舞台での強豪国の一角に日本を入れて見せようと。村井はその先鋒だ。まだまだ彼しか挑戦権を持っていない。つまり新谷やその他選手達が言っている事は、所詮弱者の戯言に過ぎないのだ。そして新谷は今年26歳。確実に終わりは近づいてきている。

それでも希望は絶やさない。

泥臭く地を這ってでもあの場にたどり着く。村井と肩を並べて戦う。

頭が悪く諦めが悪い。物事の真意を理解しておらず、引き際を知らない。

しかし、だからこそ形振り構わず飛び込める。

 今はそれでいい。自分の選手としての価値は、今はまだそれでいい。いつでも道を切り開く先駆者とは、馬鹿者なのだ。自分自身が世にとって有益な馬鹿者なのか、無益な馬鹿者なのか、はたまた有害な馬鹿者なのか。

 全ては結果が語る。全てが終わった後、振り返って歴史を見て、自分以外の誰かがそういうレッテルを貼るだけだ。

 だから自分は行くしかない。立ち止まらずに進むしかない。


 そうこうしているうちに、画面内で選手達が整列を終える。BGMが止まり、シンと静まり返った会場はスタートホーンの音だけを待つ。


 永遠にも思える一瞬。それを打ち破ったのは高らかに鳴らされたスタートホーンの音だった。空気を割いて会場全体、スピーカーを通して世界中に響き渡ったその音を皮切りに、時間は再び色を取り戻し、画面内の選手達は一斉に水の中へと飛び込んでいった。


 さあ、始まった。新谷は知らず手を強く握りしめていた。その視線は画面に映し出された光景を食らいつくように追っていた。探していたのは村井、コエーリョ、そしてそこから導き出される新谷自身の虚像ゴースト。


(今自分ならどこを泳げているのだろうか。あの集団で泳ぐにはどんな力が必要なのか。このコース、どこで位置取るのが正解なのか。)


 そんな事を考えながら新谷の観戦が始まった。いつか自身の手でこの場に出ることを夢見て、今は只ひたすら画面内の選手を目で追っていた。

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